第27話 踏み込む妹

「じゃあ、授業の内容とか簡単に伝えてあげたらいいじゃん。今週末の模試の過去問とかも解いたんだろ?」


 椎奈さんは声を発さずにこくりと頷いた。それを見た津田はにっこりと微笑む。沈みかける太陽の光が津田の頬を覆って離れない。


 じゃあ、と言い残して津田は去っていった。鳴無さんは俺と椎奈さんのほうを一瞥して、また明日、と呟いた。津田の後を追い、斜め後ろの位置を保ちながら歩いていく。残された三人の間には緩やかに吹く秋風だけがあった。


「なんか申し訳ないけど、お願いします。風邪とか移しちゃまずいし、数分でパパっと」


 そこまで喋り終えて気が付いた。俺は、あっと声を上げる。椎奈さんはマスクを身に付けているのだ。菌の入り込む余地はないのかもしれない。


「こんな格好だから、移ることはないと思うよ。たぶん」


 椎奈さんは、えへへっと声を漏らした。芹花は椎奈さんのマスクをじっと見ている。


「今、花穂さんの顔には笑顔が……全く見えないや」


「トップシークレットだからね」


 芹花は椎奈さんに容易くあしらわれ、むっと表情を固めた。全く腑に落ちていないようだ。


「とにかく、中でゆっくりしていってください」


 そう言って芹花は玄関のほうへ歩いて行った。「本当は紗那しゃなさんと話したかったのに」と囁く声が一言一句、漏れなく聞こえてきた。


 家へ入り、俺と椎奈さんはリビングで待機する。やがて、芹花は両手いっぱいにスナック菓子を抱えて戻ってきた。


 ストックしていたという芹花のお菓子と、津田らが買ってきてくれた食料を広げる。まるでプチパーティーのようだ。修学旅行の宿部屋で必ず開かれると言っても過言ではないあの感じに似ている。


 芹花は俺の右耳辺りに顔を近づけてきた。嗅ぎなれたシャンプーと柔軟剤の匂いが鼻をつんざく。


「花穂さんって食べるときはマスク外すんだよね?」


 右耳と首筋にかかる芹花の息がいやに生々しくてこそばゆい。口調からはマスクが外されるのを羨望しているように感じられる。残念ながら、芹花の望み通りにはならないはずだ。


「多分、外さない」


 小声で芹花に伝えると、椎奈さんの顔面がこちらへ向いたような気がした。


「ん? 二人で何話してるの?」


「あーいえ……花穂さんの格好が少し不思議で。いつもそんな感じなんですか?」


 芹花の声音は少し沈んでいる。踏み込んでいいことなのかという迷いがあるのかもしれない。俺たちが兄妹であり、思考が似通っているということはあり得る。そうなると、芹花が椎奈さんに絡まりついている謎を必死に解きほぐそうとしている可能性もあるだろう。


 俺も芹花も椎奈さんの顔面をじっと見遣った。


「うん、常にこんな格好だよ? それよりも、お菓子、食べちゃおう!」


 椎奈さんはそう言って、テーブルの上のお菓子を開封し始めた。手際よく、そそくさと開けていく。妙に突き放されているかのように感じた。


 椎奈さんは手に持っていたポテチを口元へ移動させる。よく見ておけよ、と心の中で芹花に念を送った。それと同時に、椎奈さんの左手の親指と人差し指が純白のマスクに触れる。


 マスクの下部――顎のあたり――に空間が出来たかと思えば、すでに右手からはポテチが消えていた。後に残るのは椎奈さんがもぐもぐと咀嚼している様子だけだ。


「は、早すぎて見えない」


 芹花の囁き声は、驚きとも落胆ともとれるような不思議な声音だ。


「あの」


 芹花は間を置かずに呟いた。視線は椎奈さんの手元付近へ向いている。芹花の手は制服のスカートに纏われた太ももに乗っている。指先には力が入っているのか、スカートに皺が寄っていた。


「マスクとアイマスクなんて……普通じゃないですよ。なんでそんなことしてるんですか?」


「普通じゃない……芹花ちゃんの言う通りだね」


 椎奈さんはお菓子をつまむのを止めた。リビングには網戸のほうから聞こえてくる車の走行音だけが響く。


「私がこんな格好でいるのは理由があってのことだし、その理由を大っぴらにする気もないんだよ。それに……普通じゃなくてもいいと思ってる」


 椎奈さんは一切詰まることなく言い切った。滔々とうとうと話すさまは、ダムの淀みない放流に似ている。


「で、でも」


 芹花はどうしても食い下がるつもりらしい。俺はそこで芹花の言葉を遮った。


「芹花。これ以上は駄目だ」


 芹花は眉間にしわを寄せて唸り声を上げている。俺も同じようなことをしてきたのだから、知識欲を抑えられないことは痛いほど分かっているつもりだ。


 椎奈さんには事情がある。それをかんがみないのは見苦しいだろう。これ以上の追求は無意味で浅ましくいやしい。そんな禁忌を犯すのは俺一人だけで十分だ。


「冷蔵庫の中、本当に何もなかったから早く食材買いに行って作りはじめないと、母さん帰ってくるぞ」


 俺は早口でまくし立てた。据衣丈きょいじょう家は両親が共働きということもあって、平日の晩御飯は芹花が作っている。たまに手伝うこともあるけれど、芹花の手際の良さを垣間見るたびに感心するほどだ。


「うぅ……分かったよ、今から買ってくる」


 そう言って芹花は立ち上がった。椎奈さんに、ゆっくりしていってくださいね、と声を掛けてドアのほうへ歩いていく。その背中を見ているだろう椎奈さんは、芹花ちゃん、と言葉を発した。


「ありがとう」


 立ち止まって振り返った芹花の顔には微笑みが浮かんでいる。俺は微かに胸を撫でおろした。一呼吸ほどの間が空く。芹花の「行ってきまーす」の叫び声とドアが閉まる音が調和した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る