第24話 急に入る風

 妙なことに、食事中は吐き気が収まっている。俺は一連の流れ――芹花の顔が近づき、レンゲが口に入れられると、お粥を胃に流し込む――を滞りなく行うロボットに成り果てていた。


 やがて、芹花はレンゲを土器の中に置いた。お粥はもうなくなってしまったらしい。


「もうなくなっちゃった。まだお腹空いてる?」


「いや、もう十分。ありがとな。はやく出ないと遅刻するぞ?」


「え? ああ、うん」


 芹花は咄嗟に視線を逸らした。変に極まりが悪くなって、俺は立ち上がろうとした。薬を飲んですぐにでも寝てしまおうと、そう思ったのだ。


 途端に、床が傾いた。床だけでなく壁も天井も、見える物すべてが天変地異を起こしている。


 刹那、ぼふっと体側面に衝撃が走った。倒れた体はソファに受け止められたらしい。


「何やってんの! そのまま待ってて、解熱剤取ってくるから」


「おう、悪いな」


 ドスドスと足音が遠のいていったかと思えば、すぐに戻ってきた。心なしか表情が固い。悲しそうな目で見つめられると、もう一度言わざるを得なくなる。


「ありがとう、助かる」


「いいから、早く飲んで」


 水の入ったコップと二つの錠剤を受け取り、ごくりと飲み下した。芹花は忙しなく動き回っている。何をしているのだろうか、と静かに眺めていた。


 しばらくして、謎の箱を手に持って戻ってきた。どうやら冷却シートらしい。いかにもおでこにピタッと貼れそうなやつだ。


「はい、これ貼って寝ときなよ。私、もう行くから」


 俺は相槌を打ち、冷却シートの入った箱を受け取った。芹花の足音が遠ざかっていく。後ろを振り返る気力が湧かない。朦朧とする意識の中で冷却シートを取り出し、開封した。おでこに貼った瞬間、足先まで冷たさが伝搬する。思わず身震いした。


 ふらつく体をうまく制御しながら、ゆっくりと二階へ上がった。廊下は日差しが入り込まず薄暗い。十月下旬にもなると陽の当たらない場所はひんやりとする。


 部屋に入ると一目散に布団へもぐりこんだ。無重力空間に放り投げられたかのように、体がぐるぐると回っている感覚に陥る。


 寝ようとしても寝られないときの辛さは、遅延する電車を待つ辛さに似ている。何もなす術がなく、ただじっとしているしかないのだ。布団に入るも寝付けず、出る。そんなことを数回繰り返した。やがて、生卵が手から滑り落ちるように眠りについた。



     *    *    *



 眠りから目覚めて真っ先に時計をみやった。五時前。思いのほか深い眠りだったようだ。高校では既に放課後を向かえているに違いない。芹花もじきに帰ってくるだろう。


 目覚めはスッキリとしている。薄手のTシャツは汗で湿っていて冷たいけれど、気持ち悪くはなく却って気持ちがいい。これほど体が軽ければ、明日は問題なく登校できそうだ。


 ひとまずフェイスタオルで全身を軽く拭き取り、リビングへ向かった。


 温くなった冷却シートを新しいものに貼り替え、体温計を右脇で挟む。手持無沙汰になって、ふと頭の中に椎奈さんの顔――正確にはマスクとアイマスク――が浮かんだ。


 素顔を見せてくれと何度頼んでもダメ、尾行しても隙がなく、学内で唯一事情を知っているだろう鳴無さんからも聞き出せない。もはや、次の策を考える気力よりも面倒臭さのほうが勝ってきつつあった。どちらにせよ頭を使うのは体調が戻ってからだ。


 体温計が鳴った。37.4℃と表示されている。解熱剤と冷却シートがかなり効いているようだ。


 不意に腹部からグググと音がした。今朝のお粥から何も口にしていないのだから、無理もない。キッチン周りを一通り探ってみたけれど、小腹を満たせそうなものは何もなかった。


 不意に母さんの秘密を垣間見てしまった。家族の誰かが密かに隠していたものを見つけてしまったときのやるせなさは異常だ。『うわあ、こういうのが好きなんだ』と若干引いてしまうのは定石だろう。母さん、ジョニーズ好きはほどほどに、と心の中で願った。


 夕飯まで空腹を耐え忍ぶのは難しい。微熱とはいえコンビニへ行くだけの体力はあるはずだ。勿体ないと思いつつも、貼ったばかりの冷却シートをはがした。


 二階へ上がり、厚手のパーカーを羽織る。周囲の人に考慮してマスクもつけておこう。マスク特有の息苦しさは苦手だけれど、マナーをおろそかにはできない。


 不意に外から話し声が聞こえてきた。窓からは道路の状況を確認できない。おそらく学生の下校ラッシュ中なのだろう。ぼさぼさの髪であまり出歩きたくはないけれど、しょうがない。


 玄関へ下りて、靴を履いた。素早く動こうとすると微かに頭痛がする。食事不足による貧血からなのか、風邪の影響が残っているのかは分からない。あまり過剰に考えるのはよくないだろう。


 できるだけ頭を空にして、ドアノブに手を掛けた。体重をかけて、ドアを押し込む。


 刹那、秋風が吹き込み、俺の視界に何かが飛び込んできた。


「うおっ!?」

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