4. 高熱火傷、

第23話 熱く重い体

 午前五時に目を覚ました俺は、薄暗いリビングで一人、テレビの画面を眺めていた。


 音量のパラメータは十だ。音は辛うじて聞こえるけれど、内容は全く分からない。まるで、はるか遠くの祭り会場から漏れ聞こえる騒ぎ声のようだ。


 ホーホーホホッと、外からは微かに鳩の鳴き声が聞こえてくる。頭にひどく響いて、吐き気がした。


 右の脇から音が鳴った。重たい左腕を上げて、右の脇に挟んでいた体温計を手に取る。モニターを見遣ると、39.2の数字が黒く光っていた。


 何年ぶりの高熱だろうか。三年前? 二年前? そもそも俺は今、何歳だったっけ。ああ、そうだ十五歳だ。不意に部屋が傾いたかのように見えた。


 ソファに浅く腰掛けると、幾分いくぶんか楽だ。光る画面をぼんやりと眺めていると、親父がリビングにやって来た。


「どうしたんだ、やけに早いな」


「ああ、熱が出た」


 二言三言会話を続けると、親父は黙々と支度を始めた。働く男に無駄な心配はかけられない。俺はおとなしくテレビ画面を眺め続けた。


 しばらくして母親も起床してきた。横に広がった髪は軽く水を付けただけでは到底整えられなさそうだ。睡眠時間が十分ではないのか、眼球を抉るように目をこすっている。


「んん? 布瀬? あれ、もうそんな時間なの!?」


「まだ六時前。熱が出てて、勝手に目が覚めた」


「熱? なんだ。驚かせないでよー」


 ぼそぼそと呟きながらキッチンのほうへ歩いて行った。働く女性に無駄な心配はかけら……え? いやいや、高熱の息子を前にして、それだけ? 心配しなさすぎでは?


 そんなことを口にすれば、却って虚しくなるだけだろう。俺は目を手で覆いながらテレビ画面のほうへ顔を向けた。


 ドアの向こう側から、ドスドスと足音が聞こえてくる。芹花が階段を降りているのだろう。リビングはいつの間にか明るくなっていた。カーテンは誰が開けたのだろう。まあ、どうでもいいことか。今日の俺はいつにもまして、いい加減だ。


「おはよーってあれ? お兄ちゃん、早起きじゃん」


「おう。もう年寄りだからな」


「目が死んでるから本当に老けて見えるんだけど」


 芹花は目を細めて俺の顔を一瞥すると、テーブルのほうへ向かった。芹花とすれ違った親父の顔は心なしか悲しそうだ。働くお父さん、老いになんて負けないで、と心の中で声援を送った。


 両親は早々と家を出ていった。


 小さな丸テーブルの上には楕円形の土器が置かれている。中には白い物体が敷き詰められていた。母さんがお粥を作ってくれたらしい。一分と惜しいはずの朝の時間を減らしてまで作ってくれたのだ。予期せぬ優しさに思わずクラッとした。


 腹は減っている。風邪薬を飲むにしても、食事は取らなければならないだろう。


 食べようとする意志はあるのに、体を起こす気にはなれない。遂には食べることを諦め、テレビの画面をじっと眺めた。


 徐々に画面が縮小していく。ぼやけているわけではないため、焦点は合っているはずだ。自分は勿論動いていないし、部屋が勝手に伸びてテレビが遠ざかっていることもない。けれど、テレビ画面は自分の意図に反して縮小していく。やがてスマートフォンと同じぐらいの大きさになった。高熱のせいで脳か目の何らかの機能がおかしくなったのだろう。


 いよいよ座っているだけで吐き気がしてきた。部屋に戻っておとなしく寝るべきかもしれない。体をのそりと前に起こした。ちょうどその時、後ろから声を掛けられた。


「それ、食べないの?」


 芹花の声だ。頭痛が起きないようにゆっくりと首を回した。目の焦点が合わず、芹花の顔はぼやけて見える。


「ああ、んー……」


 頭がぼんやりとしていて、返事がままならない。


「どっち?」


「あー、食いたいのは山々なんだけど」


 言葉が途切れた。テレビから流れるアナウンサーの声がリビングに虚しく響いている。やがて芹花が、はあ、とため息をついた。


「しょうがないなあ。食べないと薬も飲めないだろうし」


 重たい体を起こそうとしていると、芹花がぶつぶつと呟きながらこちらに向かって歩き始めた。すでに着替え終えていて、学生鞄も握られている。すぐにでも登校できそうな格好だ。


 やがて俺の足元付近までやって来ると、絨毯に膝をついて座った。芹花の目は困ったように細められている。


「まだ少し時間あるから……」


 芹花はお粥をレンゲで一口掬い、俺のほうへ差し出した。


「はい」


 レンゲから湯気がもくもくと立ち上っている。これがいわゆるアーンというやつか。恥ずかしさと惨めさで体がむず痒い。湯気がもやのように芹花の顔を一部遮っていて、俺にとってはかえって好都合だった。


「お、おう。助かる」


 口を軽く開けた。レンゲの辺りから、ふーふーと音がする。揺らめく湯気の隙間から、唇を尖らす芹花の顔がくっきりと見えた。


「口、もうちょっと開けて」


「あ、あい」


 ゆっくりとレンゲが口の中へと入っていく。熱せられた空気が口の中に広がり、芹花の手からは石鹸の香りが微かに漂った。


 アツアツのお粥を何度もかみしめた。ふわふわとした触感とくどくない味は、不思議と安心感を与えてくれる。


 芹花の息を吹きかける音と、俺の咀嚼音が一定のリズムで刻まれていく。芹花の口からはいつものような愚痴も文句もわがままも出てこない。ただ黙々とお粥の熱を冷まそうとしている。そういった振舞いに見慣れていないせいで、微かに非日常感が生まれていた。

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