第22話 足に絡む邪
「花穂のこと?」
うん、と軽く頷く。俺は鳴無さんと目を合わせられず、鼻のあたりを見るしかなかった。綺麗な形をした小さな鼻だ。
自分一人の力では椎奈さんの素顔を見ることができない。鳴無さんから話を聞くことだけが残された策なのだ。
「色々あるんだよ」
鳴無さんの囁き声は周囲の喧噪によって、すぐにかき消された。
信号が青に変わり、人々が歩き始める。前を歩く鳴無さんの背中が実際よりも遠く感じた。
きっとこれ以上は語ってくれない。それが分かっていても引くに引けなかった。急いで鳴無さんの横へ並ぶ。
「えっと……マスクを着けてる理由とかって、知らない?」
「知ってるよ。隠す理由も見せたがらない理由も」
鳴無さんの凛とした横顔は、風で揺れる黒髪に隠されて見えなくなった。
教えないけどね、などとは口にしていない。けれど、教えてくれる気配は一切感じられなかった。
「教えてもらえない?」
「言えないというか、言いたくない。プライバシーの問題だよ」
「……まあ」
鳴無さんは
左肩に衝撃が走った。人とぶつかったらしい。スクランブル交差点の中心あたりだろうか。俺は歩くスピードを落とした。鳴無さんは僅かな隙間をするすると通り抜けて、遠ざかっていった。
* * *
昼休みの屋外テラスは今日も変わらず賑わっている。女子の甲高い声も男子の野太い声も、総じてうるさい。吐き出された二酸化炭素と一緒に音も光合成で吸収されればいいのに、と思った。
心なしか頭痛がする。昨日の度辛ラーメンによる副作用なのか、目の前の不審者のせいなのかは分からない。
俺はベンチに座り、真正面に立つ椎奈さんの顔面を見上げた。眉も目も鼻も口も頬も見えない。逆光というわけではなく、アイマスクとマスクで隠されているだけだ。
数分前までは三重奏に混じって会話に興じていた。突然、椎奈さんがやって来て開口一番、「ちょっと二人にさせて」と呟く。三重奏のきょとんとした呆け顔を俺は決して忘れない。
椎奈さんは俺に用があるらしい。腰に手を当てて仁王立ちする姿は心なしか大きく見える。
「据衣丈くん。私、許さないよ」
俺は何か許してもらわなければならないことをしでかしたのだろうか。全く身に覚えがない。
「えっと……俺、何かしたっけ?」
「惚けても無駄でーす、証拠は握りましたー。本当に許さないんだからね」
開いた口が塞がらない。椎奈さんの声は低く沈んでいる。
「いや、意味が分かんないんだけど」
「あれを見てもそんなことが言えるのかな」
椎奈さんはスカートの裾を揺らしながら、股のほうへ手を滑り込ませた。下半身をまさぐる動きがいやらしくて、すぐに視線を逸らす。制服のスカートにはポケットが備わっているらしい。
椎奈さんはスマートフォンを取り出すと、画面をシャッシャと操作した。やがて準備が整ったらしく、手首を返して液晶画面を俺のほうへ向ける。
「ふん」
「こ、これは……」
「この笑顔。さぞかし楽しかったんだろうね、据衣丈くん」
身の毛がよだった。縦長の画面には俺と鳴無さんの姿が映っている。
「ストーカーじゃねえか!」
「どの口が言ってるのかな?」
反論の余地がない。椎奈さんの行いを責めることはできないけれど、攻め方を工夫すればよいだけの話だ。俺は椎奈さんのアイマスクとマスクを見上げた。
「写真なんか取るぐらいなら話しかけてくれたらよかったのに」
「最初は話しかけようとしたよ」
だけど、と呟く椎奈さんの声音は沈んでいた。椎奈さんの背後で太陽が燦然と輝いている。逆光に包まれる椎奈さんは、暗くて物寂しい。
「なんだか楽しそうで……邪魔しないようにしようと思ったの。でも証拠だけは押さえようと思って写真を」
椎奈さんは消え入りそうな声で言った。気を使ったと解釈していいのだろうか。普段のなりふり構わない様子とは整合性が取れず、困惑してしまう。
「そもそも俺と鳴無さんが、どうしたんだよ。椎奈さんには関係ないんだし、怒る理由なんかないだろ」
「ありありだよ!」
椎奈さんは叫びながら、両手の拳を握りしめて真下へ突き刺すように伸ばした。右足を微かに踏み出し、どっと音を鳴らす。前のめりになって訴えようとする姿は、おもちゃをねだる幼児のようだ。
「最初から私も誘ってくれたらよかったじゃん! バカ!」
「は、はい?」
笑顔が引き攣るのを感じた。
誘われていないことに対して怒っているのか。椎奈さんの大事な友達と二人で出かけたことに対する怒りではないらしい。拍子抜けもいいところだ。
「いやいやいや、こっちにも事情があるし」
「ジジョー? 何の接点もない二人が、仲介役として役に立ちそうな私を差し置いて?」
椎奈さんの声音は心なしか粘り気を感じる。表情は相変わらず見られないけれど、疑われているのは明白だ。
「二人じゃないとダメなことだったんだって」
「え!? なな、なんでそんなことに……」
微かに俯く椎奈さんを見て、何か得体のしれない不安を感じた。ファミレスで注文時にトンカツと言ったにもかかわらず、店員の注文確認時にヒレカツと聞こえた気がしたときのような、そんな違和感に似ている。
「相談したいことがあっただけだから」
「相談?
椎奈さんは静かに呟いて、プイっと横を向いた。同時に、俺も少しだけ俯いた。
「鳴無さんは香辛料が好きってたまたま聞いたから、激辛料理を食べに」
「げ、激辛!?」
椎奈さんは声を荒げた。数十メートル離れたところで談笑していた男女が、同時にこちらへ振り向く。
「そ、そっか、それはもしかしたら……李衣菜はあえて私を誘わなかったのかも」
椎奈さんは何か閃いたかのようにぼそりと呟いた。
怒りは静まったらしい。勝手に怒って勝手に納得されては、こちらとしてもなす術がない。俺はわざとらしくため息をついた。
それからというもの、椎奈さんは身振り手振りを大きくして喋り続けた。
椎奈さんに関して新たに分かったことがある。激辛料理なんて消えてなくなればいいと思っているらしい。
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