第20話 猫の鋭い目

「に、似てないな」


 俺は無理やり笑顔を作った。口角を上げることに必死だ。目元を笑っているように変化させることはできていないかもしれない。


 羽衣ういさんの瞳は死んだ貝の黒真珠のようだ。


「おお、据衣丈くん、よく分かってるー! シャーと違って真面目だからなあ、私」


「大学生のときにアメリカ生まれの彼氏作った挙句、家に二週間帰って来なかった女が何言ってんだよ」


 津田は目を細めて羽衣さんを罵っている。どうやら津田はシャーと呼ばれているらしい。紗那しゃなという名前から派生したのだろう。二人の仲の良さを垣間見た気がして、少しだけ和んだ。


「姉弟……楽しそう」


 横からボソッとした呟きが聞こえた。鳴無さんは目を伏せている。津田姉弟には聞こえていないらしく、あれやこれやと二人で言い争っていた。


 羽衣さんは頬を膨らまして眉間にしわを寄せている。あざとさの加減は絶妙で、こなれた雰囲気があった。日頃から頻繁に使っているのだろうな、と勝手に想像した。


「ついに年上にまで範囲を広げたのかと思ったけど、お姉さんだったのか。いつものように他校の女の子かと思った」


「いつものように、っていうのはやめろよ! 男と遊ぶことのほうが多いし、そもそもこんなことになってるのは据衣丈のせいだぞ?」


 そこで俺は昨晩、スイーツビュッフェの優待券を芹花に渡したことを思い出した。津田の放課後の時間が犠牲になっているというのは今この瞬間のことで間違いない。津田の遊びの相手が羽衣さんであるならば、例の優待券は羽衣さんの物だったことになる。


 俺は羽衣さんのふっくらとした桃色の唇を見遣った。


「そうだ、スイーツビュッフェの優待券、ありがとうございました。妹はすごい、ら……いや、喜んでました」


 俺は再び作り笑いを浮かべた。


 落胆などとは口が裂けても言えない。別れてしまった彼氏と行く予定だったことは芹花の個人的な事情に過ぎないのだ。羽衣さんにはつゆほども関係ない。


 羽衣さんはまぶたをピクリと動かして、目を見開いた。


「あ! あれ、据衣丈くんに渡したんだ!? というか、妹ちゃん?」


「ええ、妹が行きたがっていて。貴重なチケットだったみたいですけど……もらって大丈夫だったんですか?」


「ああ、いーの、いーの! 友達が予定入っちゃったし、私もカロリーが気になっちゃってあんまり乗り気じゃなかった……って何言わせるんじゃい!」


 羽衣さんは拳を丸めて俺の肩を軽く殴った。親指を隠すように握られた右手は色白で、まるで猫のようだ。まさに猫パンチだった。


 適当にあしらうと、羽衣さんはニヤリと口角を上げた。水晶玉のような濁りのない瞳は全く笑っていない。ひどく冷たそうだ。


「妹ちゃんに渡したとか言って、本当は二人で行くんじゃないのー?」


 羽衣さんは俺と鳴無さんの顔を交互にみやる。子供をからかって可愛がるお姉さんにしか見えない。


「冗談は顔だけにしてくださいよ、津田くんのお姉さん?」


 さっと血の気が引いた。思わず逃げ出したくなる衝動に駆られる。


 鳴無さんの冷静な声音を聞く限りでは、全く物怖ものおじしていないように思えた。図書室でも駅でも店内でも聞いた声と何ら変わらない。


「おお、見た目は穏やかそうなのに、結構言うんじゃん、鳴無ちゃん」


 羽衣さんは鳴無さんの言葉に怯むことなく、笑みを浮かべ続けている。口げんかに慣れているのだろうか。


 俺はふと思った。鳴無さんは津田に対しても同じようなことを言っていたような気がする。やはり姉弟は似た者同士らしい。


「とにかく、据衣丈くん。チケットのことは気にしなくていいよ?」


「はあ……」


 俺は声にもならない吐息を漏らした。俺のことよりも鳴無さんのことを気にかけて欲しい。


 不意に鳴無さんのほうをちらっと見た。顔には一切の表情がない。あまりに完璧な無表情はかえって不自然だった。黒目が微かに揺れている。心なしか、瞬きの間隔も短くなっているような気がした。


「新しいチケットも手に入ったし、これで社畜生活にも耐えられるってもんよ。まあ、高校生にはまだストレス発散の重大さがよく分からないと思うけどね」


 羽衣さんはスーツにまとわれた豊満な肉の塊を押し上げるようにして腕を組んでいた。大層、柔らかそうだ。


 黒く澄んだ瞳は鳴無さんの頭部を捉えている。


「ああ、たしか水族館の――」


「私、先に出てるね、据衣丈くん」


 津田の声は鳴無さんの声に上塗りされた。鳴無さんは躊躇ちゅうちょなく立ち上がる。羽衣さんに向かって、失礼します、と小さく呟いた。


 突飛な言動に流石の羽衣さんも狼狽うろたえたらしい。「え? ああ、うん」と囁いて、小さくなる鳴無さんの背中を大きな瞳で見つめていた。


「ありゃー……怒っちゃったかなあ」


「怒らした、の間違いだろうが」


 津田は目を細めて羽衣さんに激した。羽衣さんは頬を膨らまして唸っている。いやに子供っぽい。


 ちょっとフォローしてくる、と呟いて出口へ向かおうとする津田を右手で制止した。


「いいよ、必要ない。じゃあな、また明日」


「お、おう」


 俺は羽衣さんのほうを一瞥して軽く会釈し、足早に店を出た。扉を開けてすぐに右へ振り向く。そこには鳴無さんが俯きながら立っていた。手提げ鞄を両手に持ち、太もも辺りでスカートが押さえられている。


「待たせてごめん。帰ろう」


 刹那、鳴無さんはビクッと肩を震わせた。


「え、ああ、うん」


 俺と鳴無さんは駅へと歩み始めた。

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