第19話 前に翳る雲
いただきます、と鳴無さんが静かに囁いた。両手を合わせて、目を微かに伏せている。まつ毛のひっそりとした美しさに一瞬見惚れてしまった。
俺も箸を手に取り、麺を
担担麺を口に含んだその時だった。
「うっ、うう、すごいね、これ」
沈痛な声が聞こえてくる。不意に横を見遣ると、鳴無さんの横顔が視界に入った。頬は強張り、眉間には皺が寄っている。事態は深刻らしい。
鳴無さんの悲痛さは俺に伝染した。
「わ、わ、わ、やばいやばいやばい、これは駄目なやつだ」
何か言葉を発していないと、身体が勝手に暴れてしまいそうだ。背中で雫が転がっていくのを感じた。
「でも、すごい濃厚で美味しい。ブート・ジョロキアは入ってそうだし、モルガ・スコーピオンもキャロライナ・リーパーも感じるけど……ドラゴンズ・ブレスが少しだけ入ってるからこんなに痺れるのかな」
横で鳴無さんが呪文を唱えている。俺には解読不可能だった。
香辛料の名前だろうか。スコーピオンだとかドラゴンだとか、中二病を彷彿とさせるワードが鳴無さんの口から漏れ出して、俺は思わず身を引いてしまった。
食べ始めは必死に食らいついていたけれど、早々にして意識が飛びそうになった。舌の間隔はすでに失われている。温度は当然のこと、麺の重量さえも感じなくなった。
それでも俺は箸を止めなかった。決して辛さの虜になっているわけではない。一度手を止めてしまうと、二度と食べ始めることが出来なくなりそうだからだ。
「はぁ、はぁ、はぁ、美味しかったー」
鳴無さんは俺よりも先に食べ終えた。
鳴無さんは半透明のグラスを手に持った。表面には水滴がびっしりと纏わりついていた。鳴無さんに引けを取らないほどびしょ濡れだ。
グラスを口元に運ぶと、血色の良い桃色の突起を出現させた。何のことは無い、ただの舌だ。そうして、グラスの中で揺らめいている水面にピタッと触れさせる。一連の流れはひどく
しばらくして、俺は箸を置いた。
「ああ、ああああ、ご、
頭痛がする。ただならぬ辛さに神経も驚いているらしい。
「据衣丈くんも、結構辛いのいけるんだね」
「
ただ一点を見つめながら呟いた。視線を動かすことすら
俺は本来の目的をふと思い出した。
俺はコップ半分ほどの水を一気に飲み干した。
「そういえば、本来の目的を思い出したんだけど」
「ん? ああ、そう言えば、話があるんだったっけ」
鳴無さんが首を微かに傾げた。頬がほんのりと赤みを帯び、瞳の水分量が明らかに増している。高熱にうなされた妹が同じような顔をしていた気がする。
「だけど、食べ終わっちゃったし、外ですごい行列が出来てそうだね」
俺は無意識のうちに出入り口のほうをみやった。透明なガラスには綺麗に整列する人の群れが映っている。今すぐにでも立ち去らなければならない。使命感よりも罪悪感のほうが勝った。
「歩きながら話してもいい?」
「
いたって真顔だった。しっとりと艶めいている前髪を手で整えている。今の鳴無さんになら、あんなことやこんなことを頼んだとしても引き受けてくれるような、そんな気がした。
出よう、と一言発して腰を上げようとした、ちょうどその時だった。
「あれ、据衣丈じゃん」
びくりと肩が震えた。反射的に振り向くと、見憶えのある男の顔が視界に飛び込んできた。
「おお、津田」
俺は呟きながら視線を右にスライドする。
津田の横に立つ女性は、端正な顔立ちをした美人だった。少し垂れた目じりや、くっきりと浮く涙袋、細く滑らかな眉からは穏やかそうな印象を受ける。幼い雰囲気ながらも大人びた色気が見え隠れするのは、くっきりと筋の入った鼻と厚みのある桃色の唇のせいだろう。
「え、鳴無さんも……何、お前ら、デート?」
「津田くん、冗談は顔だけにしてね?」
「お、おう……」
正体不明の美人に目を奪われていると、鳴無さんが津田に言い放った。声音は先ほどまでと変わらず抑揚がない。
「友達?」
凛とした女性は津田に問いかけた。彼女の声音は少しだけ低く、口調はおっとりとしている。色気がとめどなく溢れていた。
「まあ。
「へぇ、据衣丈くんに鳴無さん……」
大きな瞳でなめまわすように見られた。咄嗟に視線逸らし、津田の顔をみやる。
「津田、横の人は……」
「ああ、姉貴だよ。津田
「え!?」
俺と鳴無さんは同時に声を上げた。互いに声量は小さく、あまり驚いている風には見えないかもしれない。けれど、新事実の発見は俺の心を躍らせた。
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