第17話 気の昂る美

 足音を出来る限り殺して、鳴無さんの座る席に近づいた。手を伸ばせば鳴無さんの肩に触れられる。衣れする音さえも聞こえてしまいそうなほどの距離感だ。


「あの、すみません」


 息の上に言葉をまぶすような感覚で声を吐き出した。


「ん?」


 鳴無さんは小さく声を上げ、振り返った。ふわりと舞い上がったセミロングの黒髪から、甘く魅惑的な香りが漂ってくる。


 遠巻きから見ていた時とは印象ががらりと変わった。見上げる視線と微かに垂れた眉のせいで、小動物的な可愛さが溢れている。


 俺は次に発する言葉を用意していなかった。頭の中が真っ白に塗りつぶされてしまったのだ。


「あ、あの……」


「あれ、昨日の。えっと……据衣丈くんでしたっけ?」


 首を微かに傾げて、俺の顔をまじまじと見つめている。鳴無さんが瞬きをすると、前髪がはらりと揺れた。


 俺は咄嗟に視線を落とした。鳴無さんの白くて小さな手には開きっぱなしの文庫本が乗っている。


「昨日はその、どうも。前、いいですか?」


「え? ええ、どうぞ」


 鳴無さんの目の前の空席に座った。


「本……面白いですか?」


 無理やりに話を繋げようとした結果、踏み込み過ぎてしまったかもしれない。もう一度鳴無さんの顔を見遣った。彼女は訝し気な視線を浮かべながら口元を一切緩めず頷く。


「面白いですよ、香辛料の歴史について書かれている本なんです。あ、あと、敬語じゃなくても大丈夫ですよ?」


 ため口の使用許可を得たけれど、提案者は敬語のままだ。俺もすかさず言葉を返す。


「ああ、じゃあ鳴無さんも敬語じゃなくてため口で。というか、香辛料の本なんて……独特だな」


「香辛料、好きなので。例えばシナモンとか。お菓子に使われていて甘そうなイメージがあるけど、実は舌にピリッとくる辛さがあったり、面白くないですか? ……じゃなくて……お、面白くない?」


 敬語からため口への切り替えって難しいよな、と一瞬思った。


 面白くないかどうか問うてきているけれど、その顔に笑みはない。本人が面白いと思っているのかどうかさえ怪しい。けれど、鳴無さんに関するうわさを踏まえれば、表情の変化の無さに対する違和感は一切なかった。


「たしかに可愛いイメージがあるかもな、シナモンって。語尾が反則だよ。もん、だもん」


「え」


 空気が凍った気がした。鳴無さんはくすりとも笑ってくれない。


 鳴無さんは自分の前髪に触れつつ、おでこを微かに掻いている。困惑しているように感じられた。俺は苦笑いを浮かべるしかない。


「そ、そうだ。ちょっとした用事があって……時間、大丈夫?」


「うん、暇だけど。どうしたの?」


 鳴無さんは目を丸くした。まるで何のことか分からないといった雰囲気だ。


 ここで椎奈さんの話題に入るのは得策だろうか。俺は一呼吸置いて考えた。


 鳴無さんとの関係を整理すると、はじめて言葉を交わしたのは昨日で、数分前までは敬語で会話をするような仲だった。互いに探り合うような状況も続いているように思える。


 何かきっかけが欲しい。会話への糸口となる何かが。


 俺はふと昨夜のバラエティ番組を思い出した。椎奈さんは香辛料好きなのだ、話題として提供する価値はあるかもしれない。


「激辛……いや、度が過ぎた辛さ、略して度辛どからを推しているラーメン店が近くに新しく開店したらしいんだけど、知ってる?」


「度辛!? 何それ、知らない!」


 図書室には全くふさわしくない、それどころか鳴無さんのイメージにそぐわない、度が過ぎた大声だった。俺は度肝を抜かれて言葉を失った。


 鳴無さんの表情は寸分も変化していない。けれど、瞳の輝きがなぜか増しているように感じた。おそらく、鳴無さんが立ち上がったことで照明と虹彩との位置関係が変わったからだろう。


 想像以上の食いつきだ。本当に香辛料が好きらしい。鳴無さんは思わず興奮して高ぶった気持ちをなんとか落ち着かせたようだ。静かに腰を下ろした。


 鳴無さんの勢いをそのまま取り込むように俺も前のめりになる。


「すげえ行列ができるくらい美味いし辛いらしくてさ。ここから近いし、もしよかったらその……行ってみない?」


「行きたい。行ってみたい……ん? けど、今から? 据衣丈君と?」


 鳴無さんは当然のごとく首を傾げて、真顔で呟いた。


 デートに誘っているということになるのだろうか。そう考えると、途端に体が火照る。


 二人で飲食店へ行くぐらいどうってことはない、と自分に言い聞かせた。


「用事っていうか、ちょっとした話をそこでしたくて、二人以外ではその……あんまりよろしくない」


 鳴無さんは真っすぐと俺の顔を見ている。僅かな間、互いに沈黙した。


「そっか……事情があるならしょうがないよね。度辛がどの程度か絶対に知りたいし、ラーメン屋さんに行くことが目的だし。勘違いは所詮勘違いだもん、周囲の人には勝手に勘違いされておけばいいよね。よし、すぐに行こう」


 鳴無さんは早口でまくし立てた。おっとりとした大人な雰囲気が崩れ去っていく。


 好きなものに対して気持ちが高ぶる姿はかなり人間味を帯びていた。感情の変化があまり顔に出ない鳴無さんだから、より一層そう感じるのかもしれない。


 鳴無さんは文庫本を鞄に入れ、椅子を引いた。動きがスマートだ。物音が全くしない。立ち上がる鳴無さんを見て、俺は静かに声を掛けた。


「あ、鳴無さん。しおり、入れ忘れてるよ」


 わ、と言いながら椎奈さんは栞を手にとった。


「ありがとう、据衣丈くん」


 はやる気持ちを抑えきれていないようだ。その様子が妙に可笑しくて、俺はふふっと声を漏らした。

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