3. 周囲聴取、

第16話 次に差す光

 尾行が失敗に終わり、帰宅すると一気に疲れが押し寄せてきた。


 風呂から上がり、ソファにぼふっと体を預ける。テレビ画面には汗だくの芸能人が映っていた。


 彼の短髪からテーブルへぽたぽたと雫がしたたり落ちている。まるで風呂上がりのようだ。画面の下部ではテーブル上の鍋から禍々しいオーラが発されていた。表面は真っ赤というよりも赤黒い。


 激辛料理。昨今さっこんのそれはあまりにも辛さを極めすぎていないだろうか。「辛さのその先へ」だとか「ピリ辛ではお話にならない。痛さを追求する時代」だとか、俺には到底理解できない。ピリ辛ではお話にならない云々うんぬんなんてドヤ顔で言われると、すでに十分痛さを追求できているよ、と言いたくもなる。


 右下に表示されている時刻をちらっとみやった。午後九時半を過ぎたところだ。俺はキッチンの戸棚から爆辛イカゲソ君を取り出し、一袋を完食してからベッドに横たわった。


 今日一日で味わった緊張感は相当なものだったのだろう。俺は舌と喉の焼けるような感覚を気にすることもなく、あっという間に闇に呑まれた。


 代り映えしない二十四時間が再び始まる。死んだ目をして通勤通学に勤しむ男女も、教室内で騒ぎ立てるリア充も見慣れた光景だ。


 劇的な出来事に思えた昨日の尾行も結局は失敗に終わったのだから、昨日という二十四時間も長い人生の中の空虚な一日に過ぎなかったのだろう。


 振出しに戻ったのだ。俺は椎奈さんの素顔を見るための方法を考えあぐねている。国語教師の授業は念仏にしか聞こえない。


 俺が土下座をしたとしても、きっと椎奈さんは素顔を見せてくれないだろう。マスクとアイマスクを追い剝ぎする道しか残されていないのだ。いくら考えを巡らしてもこの解に辿り着いてしまう。手詰まりだった。


 授業が始まって一〇分も経たないうちに睡魔が襲ってきた。意識を現実世界にとどめることに必死になる。机が巨大な掃除機であるかのように頭部が引き寄せられていく。驚きの吸引力だ。


「据衣丈!」


 力強く野太い声が耳をつんざいた。おしとやかで定評のある可愛い系教師とは思えない声だ。刹那、掃除機のスイッチが切れたらしく、俺は正面に顔を向けた。


 鼓動が早まる。恵比寿先生の冷徹で綺麗な笑顔に怯えたわけではない。数人のクラスメイトからの視線に恥ずかしさを感じたわけでもない。


 先生の背後にそびえたつ深緑色の黒板を見ることで、一つの策がひらめいたのだ。


 蜻蛉かげろう日記の「道すがらうちも笑ひぬべきことどもをふさにあれど」の一文が達筆で書かれている。さすがは書道の先生だと感心しつつ、鳴無さんの顔が思い浮かんだ。


 彼女は、笑わずにはいられない話を聞いたとしても笑わないのだろうか。そんな取り留めもないことを一瞬考えて、俺はハッとしたのだ。


 椎奈さんと仲の良い鳴無さんであれば、俺の知らない情報を持っているかもしれない。俺は放課後の時間を待ちわびた。


 チャイムが鳴り、六時間目が終わる。椎奈さんの姿にわき目もふらず、小走りで教室を出た。


 向かう先は1―Bの教室だ。津田が居るか居ないかはどうでもいいけれど、鳴無さんに帰られてしまうと困る。俺はいつの間にか小走りからダッシュになっていた。


 1―Bだろうと1―Eだろうと放課後の教室は等しく騒々しい。教室内をぐるりと見渡すと、津田と視線がぶつかってしまった。


「あれ、据衣丈じゃん! どしたー?」


 右手を上げてゆっくりと歩いてくる。爽やかな笑顔だ。


「よお、津田。鳴無さんってもう帰った?」


「ああ、あの子は速攻で教室を出るからなあ……」


 そう言って津田は教室を一度見遣る。すぐに「多分帰ったぞ」と呟いた。


 どうやら間に合わなかったようだ。鳴無さんと会わなければ、そもそも策を実行に移せない。


「すぐに帰ってしまうってことは用事か何かあるのかな?」


「塾とバイトで結構忙しいっていうのは聞いたことがあるな。あと、たまに図書室で本を読んでたり」


「そうか」


 呟きながら、唇を噛んだ。放課後になる前に会うべきだったか。


 今さら後悔しても意味がない。俺は津田に背を向けようとした。


「何か用事でもあったのか? あれだったら明日、据衣丈が用あるみたいだって伝えておくけど」


 津田のゆったりとした声を聞いていると不意に、ふと、思いついた。


 帰り際に図書館へ寄ってみよう。確率がゼロでない限り、出来ることはやってみた方がいい。


 津田の綺麗な猫目を見て、俺は首を横に振った。


「いや、大丈夫。ありがとな」


 きびすを返し、津田に背を向けた。据衣丈、と津田の声が背中にぶつかる。


「次はいつ尾行すんの?」


「もう、しないって、昨日本人の目の前で二人そろって誓わされただろ」


 声を出して笑いながら俺は1―Bの教室を出た。


 図書室内は無音だった。静かすぎて、真空なのではないかと疑ってしまう。空気の震えがない。背丈の数倍もある本棚が綺麗な列をなして厳かにそびえ立っている。


 いるのかいないのか分からない人間を探すのは大変だ。ひとまず、本棚と本棚の間の通路を確認しながら、テーブル席のほうへ向かった。


 現実は大抵、呆気あっけない。ピンと背筋を伸ばして読書に勤しむ鳴無さんを見つけた。


 文学少女、だと思った。メガネはかけていない。少しだけ伏せられた目元と柔らかく閉ざされた小さな唇が大人びた雰囲気を醸し出している。

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