第15話 終の無い妨

 逃げなければ。そう思うよりも先に、何故バレたのかという戸惑いが先行した。


 先ほどまで椎奈さんの頭は鳴無さんの後ろ姿越しに見えていた。それなのに、今や手を伸ばして届く距離にまで近づいている。


 椎奈さんの斜め後ろには鳴無さんのすまし顔が浮かんでいた。俺は斜め下に視線を這わせ、一言も発することなく立ち尽くす。


「据衣丈くん、楽しかった?」


 椎奈さんの声は恐ろしいほどに綺麗だった。音階であればソの音だ。聞きなれた椎奈さんの素の声は沈着さを含んでいるように思える。


「ん? んんー、お、おう?」


 自分の機転の利かなさを呪った。椎奈さんの口ぶりから考えると、尾行していたことは完全にバレているらしい。苦し紛れの言い訳では通用しないだろう。


 ああ、終わった。全身が地面にずんっと吸い寄せられた。気を抜けば膝から崩れ落ちそうだ。


「その……ごめんなさい」


 謝罪の言葉を口にしようとした俺は、別人の謝罪の言葉を聞いた。


 声の主は鳴無さんだった。真っ直ぐと俺の方へ向けられた瞳は黒真珠のように艶めいている。顔には一切の笑みがない。けれど、激情している訳ではないように思える。虚脱感に塗れた力みのないその表情は大層柔らかかった。


「さっき、カフェでぶつかっちゃいましたよね。そのことを花穂に話したら、私たちはもしかしたらつけられてるかもしれないってことになって」


 カフェで椎奈さんの顔を悠々と眺めていた時には既にバレていたのか。意味の無い尾行をひたすら続けていたというのか。俺の身体はみるみるうちに熱を帯びていった。


「あの、え? えっとー、バレてたのか。じゃなくて⋯⋯誠に申し訳ございませんでした!」


 この先一年分程の謝罪に使う労力を全て費やして頭を下げた。


 俺は何をやっているのだろう。たった一、二時間のうちに何度も頭をぎった言葉だけれど、今この瞬間だけは意味合いが違う。


 落ちるところまで落ちた。自分の好奇心を優先させて、最低なことをしてしまったのだ。


「流石に怒ってるよ」


「当然だよな。とにかく……悪かった、こんなことはもうしない」


 視線を椎奈さんの顔のほうへ移せない。マスクとアイマスクによって表情が読み取れないのだから、顔を見ようが見まいが同じことかもしれない。


 椎奈さんの声がくぐもったもののように聞こえるのは、マスクのせいだろうか。それとも、怒りとか呆れによるものなのだろうか。俺には知る由もなかった。


「ちゃんとわかってくれてるみたいだし、そんなに気を落とさなくてもいいよ。けど、二回目はないからね?」


「おう⋯⋯」


 椎奈さんは聖母マリアか何かなのだろうか。マスクとアイマスクで表情を隠す聖母など想像できないけれど、深く考えるのは止そう。


 表情が見えないからこそ、椎奈さんの声音には直に平手打ちされたかのような重みがある。言葉の節々から溢れ出る絶望的な優しさが俺の惨めさをより一層、浮き彫りにさせた。


「こんなことしなくても、一緒に遊べばいいじゃん」


 椎奈さんはボソッと呟いた。マスクの力も相まって、かなりこもった声だ。けれど、俺は聞き逃さなかった。


「あ、いや、あれだから! その……遠くから眺められるぐらいならそっちのほうが良いっていうか、何というか」


 椎奈さんは言いながら両手を体の前で忙しなく動かす。慌てているようにしか見えない椎奈さんの様子を眺めながら、なぜか俺は急に恥ずかしくなった。


 一緒に遊ぶ? 尾行するよりかは幾分も真っ当な行動なのだろう。そうは言っても、女子と一緒に遊ぶだと? 何だそれは、俺の脳内の辞書にはそのような例文はヒットしない。


 思わず視線を逸らす。言葉を返せない。視線の先には津田の姿が見えた。


「おお!? あ、あれ? 花穂と鳴無さん、さっきぶりじゃん!?」


 津田は平静を装うとしているようだ。笑顔が歪み、頬が引き攣っている。目の前に広がる地獄絵図をどうにか天国模様に変えようとしているのがひしひしと感じ取れた。


「おお、津田」


「え!? お、おい、何、据衣丈もばったり会っちゃったのか!? そうそう、さっき言ったよな。カフェで俺も二人に会ったって。いやー、偶然って怖いのな。芸能人とは毎日会ってみたいとか思ってても全然無理なのに、身近な人とは謎に遭遇率が高いって結構あるあるだよな。いやーマジすげえわ、びっくりだわー、偶然の賜物だわー」


 ……喋れば喋るほど不自然さが際立つなあ、津田。


 津田は必死の形相で何やら訴えようとしている。本気の目が怖い。過ぎたるはなお及ばざるがごとしとはまさにこのことだ。


「津田っち、うるさい」


 全く代わり映えのない声音で椎奈さんが呟いた。むっとした表情をしているのか、いたずらっ子のような無邪気な笑みが浮かんでいるのか、全く確認できない。


 ああ、ダメだ。やはり素顔が気になってしまう。巨大な好奇心を跡形もなく消し去ることはどうしてもできそうにない。


 えー、と声にもならない吐息を津田は漏らした。


「一緒に遊ぶっていうのは、ま、まあ……予定が合えばいつでも」


「う、うん」


 なんとか純白のマスクを見ながら言い切ったけれど、すぐに視線は別の場所へと引き寄せられた。椎奈さんは俯いているように見える。とにかく表情が見たい、と思った。


「ん!? え、えっとー……なにそれ、どういう状況?」


「津田、うるさい」


「は!?」


 俺は自然に笑みがこぼれた。津田は目を大きく見開かして、困惑した様子だ。椎奈さんのへへへっという笑い声が周囲の空気に溶け込む。


 彼女の背後で鳴無さんはピクリとも笑わずに佇んでいた。笑わないコペルニクスだ。

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