第11話 到る命の的
「す、すみません」
本能的に謝罪の言葉が飛び出してしまった。相手が誰なのか、認識すらしていない。とりあえず謝らなければという念がそうさせたのだろう。
誰だろう。疑問の種から芽が生えてようやく俺は彼女の顔をじっくりと見やった。そして、俺は絶句した。
「あ、いえ。それより、コーヒーが」
彼女は俺の手元のほうへ視線を移す。
正真正銘、鳴無さんだ。笑わないコペルニクスが目の前に立っている。
遠くから眺めていた無表情面が今、腕一本分の距離にある。アイスコーヒーがこぼれてしまったことなど、さほど深刻なことではないように思えた。今すぐに鳴無さんの視界から俺の存在を消すことが先決だ。
「あ、ああ、あの、コーヒーは大丈夫なんで」
挙動不審になっているのがわかる。しょうがなさすら感じた。
俺は言いながら彼女に背を向ける。このまま前へ進め、と普段の歩幅よりも大きく足を踏み出した。
「あ、待ってください」
鳴無さんの落ち着いた声音は、俺の背中にぶつかって地面へ落ちた。俺は振り向くことなく、すみません、と呟いて歩みを進めた。
グラスに入っていたアイスコーヒーは今、トレイの中で薄黒い海へと変貌している。幸いなことに、チョコをベースとしたロールケーキは無傷だ。
ちらりと後ろを振り返った。鳴無さんの後ろ姿が確認できる。標的が座っている場所は、どうやら反対方向らしい。
思わぬ遭遇でヒヤッとしたけれど、こちらから探す手間は省けた。人混みに紛れて鳴無さんを見失うことだけは避けたい。俺は慎重に
椎奈さんの顔が見える位置に空席は存在していた。壁に沿うようにして二人分の椅子がテーブルを隔てて置いてある。津田と合流し、着席した。
「え!? それ、どうしたんだよ?」
「ああ、人とぶつかって。しかも、相手が」
津田は微かに視線を伏せて、俺の手元を見ているようだ。俺は誘導するように、その場で小さく人差し指を津田の脇のほうへ伸ばした。壁とは逆側の、椎奈さんが座る方向へ。
「鳴無さんだった」
「は!? まじかよ、それ、やばくね?」
津田の声は相変わらずハキハキとしていて、威勢がいい。椎奈さんと幼馴染であるということを津田自身は忘れているのだろうか。
「声量をどうにかしろ、声量を。鳴無さんは俺のことなんて知ってるわけがないから、多分バレてない」
それもそうか、と津田は笑みを浮かべている。
俺は吸い寄せられるように椎奈さんの顔面へ視線を移した。
椎奈さんはグラスを右手に持ち、ストローで黒い液体を吸い上げている。
唇も吸い込み口も一切、姿を見せない。純白のマスクによって上書きされていた。白い絵の具で顔の下半分を塗りつぶしているようにも見えるし、消しゴムで消されているようにも受け取れる。
グラスをテーブルへ置き、すぐさまフォークでロールケーキを
マスクの中心――おそらく唇の先にあたる部分だろう――を左手で摘まんでいる。尖ったマスクが鳥の
その瞬間、微かに白色が付着しているフォークがテーブルのほうへ下ろされていくのを見た。マスクは元の定位置に戻り、顎の動きに同調するように上下に動いていた。
おかしい。口に運ぶ過程はどこに消えてしまったのだろう。動作があまりにも早すぎる。百式観音の使い手なのかもしれない。見えなかったというよりも、認識できなかったというほうが正しいだろう。瞬きしていないのだから、必ず目にしているはずなのだ。来たぞ来たぞ、口に運ぶ瞬間だ、と思ったときにはすでに椎奈さんは食べ終えていた。
単純な話だ。人間じゃない。
「なあ、津田。椎奈さんって本当に人間?」
「どうだろうな。俺も昔、同じようなことを思ったけど、いまだに分からない」
津田は湯気の立ち上るコーヒーに口をつけた。思いの外苦かったのだろうか、眉間にしわを寄せ、顔をしかめた。すぐにロールケーキを口へ運ぶ。
「おお、このロールケーキ、すげえ美味いじゃん! コンビニなんて敵じゃないな」
「元から敵対視してないとは思うぞ」
俺はトレイ上に広がっていたコーヒーの海を紙ナプキンで拭き取り、チョコレート味のロールケーキを口に頬張った。
舌に衝撃が走るほどの美味しさではない。コストパフォーマンスの点においてはロウソンのウルトラロールケーキのほうが勝っているように思えた。
「んー、微妙だな。甘さはいい感じだけど」
「微妙? まじかよ、俺の舌っておかしいのかなー」
椎奈さんの顔面を直視しながら津田の声を聞いていた。ふと目前に視線を戻す。と同時に、津田の黒目が微かに動いた。俺のはるか後方に焦点を当てているように思える。何かあるのだろうか、と首を後ろへ回そうとしたその時だった。
「あれ? 紗那くんじゃーん!」
おお! と呟き、津田はにこやかな表情を浮かべて右手を上げた。反射的に振り向くと、目の前には女の子がいた。
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