第8話 付き纏う魅
廊下へ出て右を向くと、椎奈さんの後ろ姿を見つけた。
鞄のチャックからぶら下がったペンギンのキーホルダーがゆらゆらと揺れている。ペンギンがサーフボードに乗って波を攻略する光景が思い浮かんで、少し可笑しくなった。
後をつけるのだから慎重にならなければならない。
廊下は下校する生徒でひしめき合っている。恐らくバレないけれど、抜き足の練習をするにこしたことはないだろう。
踵を地面に押し込むイメージで足を踏み出した。
ちょうどその時、爽やかな好青年と視線が交錯した。
「おお、据衣丈! ちょうどよかった、今からそっちに行こうとしてたんだわ」
「ごめん、津田。今、ちょっと忙しくて。また明日な」
俺は立ち止まることなく、津田の横を通り過ぎるような軌道に入った。何か用事があったのだろうけれど、椎奈さんの姿を見逃すわけにはいかない。
津田に掴まれている。唐突に動きが止まった。改札に足止めされた時のような気分だ。
「ちょっと待った。これ、いらねえの?」
俺はやむを得ず椎奈さんの後ろ姿から視線を外し、振り向いた。津田は二枚の紙を人差し指と中指で挟み、顔の前でひらひらと揺らしている。
一瞬、その紙の正体が分からなかったけれど、すぐに思い出した。
「スイーツビュッフェ……」
「この優待券、相当レアものらしいぜ? 譲ってもらうの、すげえ大変だったんだからな」
横を通り過ぎた女子集団の視線が妙に痛々しく感じた。
近くの三ツ星ホテルで行われるスイーツビュッフェには優待券が必要だ。勿論、男二人で乗り込むつもりなど毛頭ない。妹から頼まれていた品なのだ。
「お、おう。ありがとう、助かった。よく手に入ったなあ、すげえよ」
「まあ、明日の放課後を犠牲にしたんだわ。あんまり女と二人で歩き回るっていうのはしたくないんだけどな」
横を通り過ぎた男子集団の目元が
「それはハーレムにしか興味がないのか、男にしか興味がないのかどっちだよ?」
「その二つを混ぜ合わさせたものにしか興味ないな」
「なるほど、オネエさんにしか興味ないのか」
「そんな変わった趣味はねえよ! 男女の大人数が一番楽しいって話だろ。お友達にならなってみたいけどな、オネエさん」
津田は笑いながら俺の腹を軽く殴った。
廊下の先のほうを見渡したけれど、椎奈さんの姿が見当たらない。財布の紛失に気付いたときのように心臓がキュッとなり、俺はこの場から離れる態勢を整えた。
「妹にはちゃんと感謝するように言っておくから。じゃあな」
そう言って俺は津田が摘まんでいる二枚のチケットを取ろうと、右手を差し出した。人差し指と親指で摘まみ、つるつるとした紙質を感じながら引き上げようとする。
パスッと音を立てて右手の動きが止まった。二枚の紙が一切動かない。津田の指先に力がこもっているのを感じた。
「で、なんで急いでんの?」
生暖かい風が外から吹き込み、津田のサラサラな黒髪を揺らしている。十月だというのに涼しさを全く感じない。肌に纏わりつく空気が鬱陶しかった。
「ちょっと調べたいことがあって。そういうことだから、じゃあな。優待券、ありがとな」
一方的に会話を打ち切り、俺は力を込めて紙を引き上げようとした。全く動く気配のない優待券には津田の強い意志が宿っているように思える。
「調べ事? 俺もついて行っていい? もちろんいいよな?」
津田の視線が手元の紙切れへと移った。どうやら、目の前の紙切れ二枚に対する見返りを求めているらしい。無条件で頼みごとをしてしまった手前、瞬時に拒絶することはできなかった。
この場で津田と無意味なやり取りを続けるべきか。すぐにでも椎奈さんの後を追うべきか。
空想の世界で津田と椎奈さんをシーソーに乗せてみると、椎奈さんが地表に吸われるように沈んだ。顔面を覆い隠した女子高生が『私、そんなに太ってないんだけど!』と叫びながら殴りかかってくる。空想上の俺が消えてしまう前に、空想の世界自体をかき消した。
「しょうがないな……尾行だぞ?」
「ストーキング? 据衣丈、犯罪は駄目だろ」
「尾行とストーカー行為はちょっと違くない? ……多分」
津田は眉をひそめながら、えー、と呟いた。このイケメンは日頃から遊び呆けている割に常識人の一面も持ち合わせている。まったく、憎らしい限りだ。
笑顔、笑顔、と頭の中で繰り返しながら俺は意識的に口角を上げた。
「階段を上るときに前を歩く女子高生の太ももを見る行為と、電車内での痴漢行為みたいな違いだって」
「え、それって結局、どっちもアウトじゃね?」
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