2. 尾行開始、
第7話 動く前の静
食卓に並べられた朝食が陽の光を浴びて輝いている。男性アナウンサーの爽やかな声が背後から聞こえてきた。
失踪していた女性タレントが発見されたらしい。倉潮カホ。昨日の昼休みに三重奏が話のネタにしていた女性だ。
失踪の真相が微かに気になる。けれど、それ以上に椎奈さんの素顔のほうが関心度は大きい。
僅かな暇さえあれば、椎奈さんの顔面を垣間見るためにどうするかを考えてしまっている。脳のオーバーヒートが起こっているかもしれない。
少し熱を冷まそうと、背後のテレビ画面へ顔を向けようとしたその瞬間、芹花が鋭い眼光でこちらを凝視している姿を視界に捉えた。
「何だよ」
「ほえ? 何か思いつめたような顔してた気がしただけー。元カレと親友が歩いてるところを目撃した日の翌日に今カレとその親友が歩いているところを見てしまった、みたいな」
「とりあえずその親友は魔女か何かだと思う」
芹花は、だよねー、と囁きながら黙々と白飯を口に運ぶ。視線はテレビ画面に向かっていて、覇気の感じられないボケーっとしたまぬけ顔をさらしていた。
最近、クラスメイトと付き合い始めたということを楽しそうに話していたけれど、どうやら破局したらしい。中学生の恋愛のフランクさに恐れおののいた。
「せりかー、喋らずに早く食べなさい! 今日は絶対に遅刻できないんでしょ? お母さん、もう出るからね」
聞きなれた高音がリビングの壁に反響する。声のした方を見遣ると、濃紺色のロングスカートと茶色のニットで綺麗にまとまった装いの母親が鋭い眼光でこちらを睨みつけていた。
何かもうどうでもいいやー、と芹花が返答する。俺も続けていってらっしゃいと声を掛けた。
据衣丈家の朝は何かと騒々しい。両親とも早々に戦闘態勢を整え、俺の目が冴え始めるころには家を出る。数年後にはそんな生活が始まり、数十年後にはあんなに頭皮が寂しくなってしまうのかと思うと、涙があふれてきて予想される未来を直視できない。働きたくない。
そんな逃避をしつつ食事を済ませた。
「俺の分のチーズタルト、まだ残ってるから食べてもいいぞ」
「な。どうしたの急に? 気持ち悪いんだけど」
眠そうに目をこする芹花に声を掛ける。今をときめく女子中学生は当然のごとく口が悪い。いつも通りの反応を受け流しながら、付け足すようにボソッと呟かれた「ありがと」の言葉を耳に残して俺は家を出た。
椎奈さんが頑なに素顔を見せないのはなぜだろう。何か形状的な理由から見せたくないのか、凡人には理解できない事情を抱えているのか、これほどまでに見当がつかないと、最早苛立ちすら湧いてこない。
謎を解き明かしたい。好奇心と探求心を抱えながら教室に入り、いつもと何一つ変わらない動きで席に着く。机に腰かけたり、窓に体を預けたりして、各々が仲の良い者同士で笑い合っている光景も見慣れたものだ。
荷物の整理を終え、俺は椎奈さんの姿を凝視した。違和感のない景色の中で違和感だらけの格好をした女の子が平然と座っている。半年の間、ひたすら見てきた光景だけれど、初心に戻って考えると、やはり違和感の塊だ。
「よっ、
背後から声がした。振り向くと、三重奏の一人が穢れのない爽やかな笑顔で立っている。
「おお、ピアノか。大丈夫というか昨日も平常だったんだけどな」
「いやいや、いきなり椎奈さんを追いかけて出ていくし、女子にフラれたバスケ部のエースみたいな表情で帰ってくるし、それで平常はないだろ」
ないない、と手を左右に振る動きは普段通りの大袈裟なものだった。
やがて、チェロとヴァイオリンも登校してきた。三重奏の三人が目の前で談笑している。
何やらチェロは最近、街中を歩く幼女を見て数年後に可愛くなるかどうか想像することに楽しさを見出しているらしい。意気揚々とした笑顔が浮かんでいて、俺はチェロのことを本気で心配した。
授業は淡々と進んでいった。日本はCm気候だとか量子が粒子と波の性質を持っているだとか、今の俺にはさほど重要なことではない。
授業は淡々と進み、本日最後の授業である保健体育が始まった。面白みのない話に痺れを切らした俺は、ついに禁断の手を使用する。
Q.同じクラスの女の子がアイマスクとマスクを常に着用しています。僕には彼女のことが不審者にしか見えません。素顔が気になりすぎて保健体育の授業に身が入らないのです。深刻です。彼女のアイマスクとマスクを取り外す良い方法はありませんか?
ワフー知恵袋で質問してみると、二件の回答が寄せられた。
A.『顔を見せてくれないと俺の性教育が阻害される』と正直に伝えてみたら?
当然、却下だ。
A.文面から判断するに、正真正銘不審者ですね。近寄らず関わらないことをおすすめしますが、質問者さんの希望としては彼女の外見が気になるということですので、一つ提案します。とことん観察し、尾行しましょう。きっとチャンスが訪れるはずです。
なるほど……これはベストアンサーかもしれない。
学生の本分を全うしていたせいで、あっという間に放課後が訪れた。大きな専用バッグを持った野球部の坊主が急いで出て行ったり、リア充集団が集まって笑い声をあげている。喧噪にまみれた教室内で静かに立ち上がった椎奈さんを俺は見逃さなかった。
クラスメイト達の合間を器用にくぐり抜け、椎奈さんは後ろ側の出口へと歩いていった。滑らかな動きも揺れる後ろ髪も、地を這う蛇のようだ。俺は猫さながらの抜き足で静かに後を追った。
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