第6話 儚く散る願
「ちゃんと受け取ってくれよ」
「え!? ちょっ」
椎奈さんに返答の余地を許さない。間髪入れずに、俺は右腕を振り子のように振った。指先から離れた野菜ジュースは放物線を描き、椎奈さんの胸元へ飛んでいく。
受け止めるや否や、え? え? と呟きながら手元と俺の顔を交互に見遣った。
「なにこれ? いらないよ!」
「昨日のお礼のお礼。これで、缶コーヒーを受け取ったことは帳消し」
「は? 意味わかんない! 帳消しにしてどうなるの?」
椎奈さんの声が廊下に反響する。俺たちの横を通り過ぎる女子二人のひそひそ声が耳に入ってきた。明らかに悪目立ちしている。早いところ、会話を打ち切る必要がありそうだ。
「変な後ろめたさがなくなる」
「な!? そんな身勝手な……」
椎奈さんは口ごもり、俯いた。動いていた純白のマスクは鳴りを潜め、黒く艶めいた髪がはらりとマスクに触れる。身勝手だ、と
「昨日、遭ってなければこんなに興味を持つこともなかったな」
「あんな些細なことでそんなにのめり込むのかな? 据衣丈くんって意外と頑固だ」
椎奈さんは深くため息をついた。重々しい空気がマスクに防がれることなくため息とともに通過したように思える。
「そんな頑固者に残念なお知らせを一つ」
微かに顔を下へ向けながら椎奈さんは囁いた。
「この野菜ジュース……好きじゃないほうのやつなんだよね」
「……え」
一呼吸遅れて言葉が洩れた。
あまりにも唐突で強引な話題転換に驚いた。それと同時に、大事な場面で致命的なミスを犯したことに気づいて落胆する。返す言葉が見当たらない。
「これは返すよ。純粋な気持ちが込められた品ではないにしても、その……気にかけてくれてるのはちょっと嬉しいかも。ありがとね」
そう言って椎奈さんは手に持っていた野菜ジュースを俺の胸のあたりに押し付けてきた。やむを得ず受け取る。安易な策は呆気なく潰された。
じゃ、と囁きながら椎奈さんは教室の中へと戻ろうとする。横を通り過ぎる椎奈さんの姿が視界の端に入った。
ここは何としても足止めしなければならない。無理やり動くロボットを力づくで止めるような思いで言葉を押し出した。
「一生その姿で過ごすのかよ」
体の中がカッと熱くなる。
土壇場で謎の超理論が口から飛び出た。こんなに強い言葉を発したのはいつ以来だろうか。むしろ初めてかもしれない。怖さと気まずさに苛まれて椎奈さんのほうへ視線を移せないけれど、足止めには成功したらしい。
「何で……そこまで突っかかってくるの?」
「気になりすぎて困るから……例えば、昨日買ったって言ってたリップがちゃんと使われてるのかを確認したい……みたいな?」
ドクンドクンと心臓が波打つ。言い終わってから後悔した。
今の発言は非常によろしくない。緊迫した状況であることを考慮しても、気持ち悪さが飛びぬけている。焦りすぎて語尾が不自然に跳ねあがってしまった。顔は発熱していないだろうか。俺もマスクを身に付けていればよかったとふと思った。
横で俯く椎奈さんの横顔には肌の部分が一切見えない。アイマスクとマスクによるガードもさることながら、耳から頬にかけて垂れる黒髪も肌を隠す手助けをしている。
「なにそれ、どういうこと? ……唇フェチとか?」
真横の白壁に頭を打ち付けたくなった。
ですよね、そうなりますよね、他人がリップを使っているかどうか確認したいって意味わからないもんね。
「ああ、そうそう、唇フェチなんだよ。ただでさえ唇に視線が向かうのに、椎奈さんに至っては隠されてるんだからな、そりゃ夜も眠れないぐらい気になって仕方がないって! 唇が見たい! ついでに素顔も見たい!」
もういいや、どうにでもなれ、という投げやりな気持ちで言葉を吐き捨てた。
今さら、椎奈さんにどう思われるのかを気にする必要はない。椎奈さんの目、鼻、口、頬、その他の細かな特徴を目に焼き付けられればそれでいい。
顔面の筋肉が異様に硬直しているのを感じる。俺の顔からは一切の笑顔が消えているに違いない。全く笑えない。
とはいっても、椎奈さんの反応は俺の想像していたものとはかけ離れていた。
僅かな間も空けずに突然笑い始めたのだ。右手の拳を丸めて口元に遣り、えへへっと甘い吐息を漏らしていた。マスクを身に付けているのだから、口元を拳で隠す必要はない気がする。
無駄に思える動作だからこそ、いたって自然なものに見えた。
「据衣丈くん。それはいくら何でも、気持ちわるいよー」
椎奈さんは爽やかな声音で言ってのけた。言葉に毒気が含まれているかどうかは分からない。声だけではやはり、読み取れることに限界があるのだ。
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