第5話 前に進む策

 椎奈さんは廊下の真ん中を軽快に走っている。すれ違う生徒は必ず、異物を見るような目をして立ち止まり、しばらく椎奈さんの遠ざかる姿を見つめていた。


 素顔を見るチャンスかもしれないと思って教室を飛び出したけれど、具体的な策は思い浮かばない。マスクを取り外すのであれば、おそらく女子トイレだろう。走る椎奈さんの背中越しにトイレの案内板が見える。俺は走るのを止めた。


 心の奥底に潜む好奇心の化け物が、どうするんだ? と囁く。女子トイレに踏み込めば、マスクの交換作業をする椎奈さんの姿を観察できるだろう。素顔を垣間見る隙も十分にあるはずだ。けれど、女子たちの聖域に侵入するほどの肝は流石に据わっていない。


 俺は男子トイレの前で立ち止まり、向かい側の窓を見た。視界いっぱいにグラウンドと青空が広がっている。燦々と輝く太陽は真っ白な雲に隠れることなく、俺に日光を浴びせていた。


 窓ガラスには女子トイレの入り口がうっすらと映っている。中の様子は窺えない。


 昨夜の一件がフラッシュバックした。警察官に足止めされる椎奈さん。俺と偶然遭遇して驚く椎奈さん。お礼を口にする椎奈さん。その時々でマスクに隠された表情は変化しているのだろうか。


 言動のみで喜怒哀楽を受け取るのは簡単ではない。目隠しをして食べ物の味を判断するよりも、手触りだけで箱の中身を予想するよりも、きっと難しいだろう。


 それでも、最後に残していった一言からは明らかに寂し気な雰囲気が漂っていた。


 昨夜、俺は椎奈さんからボトルのコーヒーを受け取った。職務質問から解放してもらったお礼のようだったけれど、感謝することだけが目的だとは思えない。


 これ以上、近寄ってくるな。そんな敬遠の意を感じる。


 たしか、あの時。そう思って、数分前の教室での風景を思い返した。


 椎奈さんが手に持っていた紙パック飲料は野菜ジュースだった。しっかりと目に焼き付いている。身に覚えもある。


 俺はトイレを後にして階段を駆け降りた。廊下を小走りで進み、駅前の小規模なコンコースにも似た踊り場に出る。


 真っ先に視界に入ったのはずらりと並んだ自動販売機の群れだった。


 一日分の野菜を摂取できると謳っている紙パック飲料は一番下の段に飾られている。椎奈さんは健康志向なのだろう。


 一つ購入し、教室まで駆け足で戻った。

 

 乱れた呼吸を整えながら教室内を覗き見ると、各々が昼休みを満喫していた。どうやら椎奈さんはまだ戻ってきていないらしい。


 野菜ジュースを手に持って立ち尽くす俺の姿は滑稽こっけいだろう。通り過ぎる生徒と目が合うたびに、俺は視線を廊下へ落とした。右手の平は冷えた野菜ジュースの水滴で湿っている。


「よー、据衣丈! 何やってんの?」


 靴に付いた汚れを払っていると、横から聞きなれた声がした。体を起こして振り向くと、津田つだ紗那しゃなが立っている。綺麗に整えられた黒髪と非の打ち所がない顔立ちをした、ただのイケメンだ。


「おっす、津田。ちょっと色々あって、立ってる」


「立つまでの過程が全く説明されてないけど、まあいいか。来週も合コンあるんだけど、また一人足りなくて、どう?」


 窓ガラスを通過した日差しが柔和な笑みを照らしている。黒髪とはいっても、日光が当たると茶色がかって見える。光が当たっていようが、当たっていまいが、ただのイケメンだ。


 昨日の合コンも全く同じ理由で誘われたけれど、易々やすやすと踏み入れていい世界ではないことを知った。


「ごめん、俺はもう昨日のやつでお腹いっぱいだわ」


「そか。据衣丈がいるとやりやすくて楽しいんだけどな」


 何を言っているのだろうか、このイケメンは。作り笑いと相槌、同調を組み合わせただけの空虚な会話しかしない人間がまともに機能しないということは昨日のあの場で証明されたはずだ。


「いやいや、もっと適した友達がいくらでもいるだろ」


「据衣丈は頭一つ飛びぬけてるんだよなあ。まあ、りょーかい。また暇なときに、遊ぼうぜ!」


 津田は右手を上げながらきびすを返した。柔軟剤の甘い香りが鼻腔びくうをくすぐる。立ち去る姿までリア充オーラに包まれていた。


 津田の背中を眺めていると、マスクとアイマスクを装着した怪しげな女子高生がこちらに向かって歩いてくる姿を視界にとらえた。マスクは新品に取り換えられている。


 遠くから見た椎奈さんの全体像はやはり不気味だ。


「こんなところに立って、何してるの?」


 俺の目の前で立ち止まった椎奈さんは、微かに顔を上へ向けながら言った。


「まあ、ちょっと……。それにしても、すごいハプニングだったな」


「いやー参ったよ! 変なところにトマトジュースが入っていっちゃってさ。マスクの代えを持っててよかった。ちゃんと元通りになってるよね?」


 椎奈さんはマスクを右手の人差し指で示しながら呟く。触れている部分はおそらく唇だろう。どう? どう? としきりに訊ねてくる椎奈さんの動きは、やたらと引っ付いてくる犬に似ていた。あざとすぎるからなのか、風貌のせいなのか分からないけれど、特段、心に刺さることはない。


「ばっちり、不審者状態の椎奈さんだよ」


 顔を背けながら呟くと椎奈さんは満足したらしく、一歩後ろへ下がった。教室に入らないの? と首を傾げる椎奈さんにすかさず切り返す。


「その前に……噴き出した雫、ちゃんと取れてんの?」


「入念に確認したから大丈夫。マスクを外して確認するまでもないよ?」


 椎奈さんの顔面は微動だにしない。不敵な笑みが浮かんでいるのかもしれないけれど、マスクとアイマスクのせいで確認できない。


「そう簡単にはいかないよな、やっぱり」


 椎奈さんは俺の反応に満足したのか、へへへっと笑い声を上げながら胸を張った。冬服の上からでもわかる二つの膨らみを見ていると、昨夜の光景が頭を過る。気づけば俺は恍惚こうこつとしていた。


「昨日、コーヒーを受け取ったよね? そういうことだから。今まで通り、何も触れてこない据衣丈くんに戻るんだよ」


「コーヒー……ね」


 食い気味に言葉を返した。強引な策ではあるけれど、実行するしかない。俺は、これ、と呟いて手に持っていた野菜ジュースを見せた。

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