第4話 三の同じ顔


    *     *     *


 椎奈花穂には隙が無い。登校してからずっと椎奈さんの行動を観察し続けたけれど、マスクを外すどころか、触れるような仕草すらも見られなかった。


 今日の俺は気づけば椎奈さんを目で追っている。見ていた対象の頻度を数値化すると、椎奈さんに対する数値だけが異常に高くなるだろう。スカウターが爆発して木っ端微塵になるまである。


 化学の実験で匂いを嗅ぐ必要があっても、体育の時間でランニングしなければならなくても、マスクは決して取り除かれない。溶液の色を確認するときも、アイマスクが外されることはなかった。


 見た目は市販のものと代り映えしない真っ黒なアイマスク。特注品だと言っていたけれど、溶液を見て、これは赤褐色だ! と判断するのも容易いほどに視界は良好らしい。アイマスク本来の使用用途から考えると、不良品以外の何物でもないだろう。


 昼休みとなった今も椎奈さんは決して気を抜かない。椎奈さんの席は教室の中央やや後方に位置し、一人で昼食に舌鼓したづつみを打っている。堂々とした佇まいからは余裕すら感じた。食物を口に入れる瞬間の目にもとまらぬ早さは、獲物を捕食するカメレオンのようだ。


「倉潮カホちゃんってこの辺に住んでんだ!? そこに驚きだわ」


 俺と対面する位置に座っている琴平洋平ピアノがスマホの画面を眺めながら呟いた。ネットニュースを確認しているようだ。手に持っているフルーツサンドを口に運び、液晶画面をサッサッとスクロールしている。


 誰それ? とあからさまに他人事だと感じられる物言いをしたのは堤真琴ヴァイオリンだった。スマホを持つ右手の指の動きから察するに、ソーシャルゲームに興じているらしい。


「あの子、マジで可愛いよな。あんな子が失踪したってことは、今頃、変な男にあんなことやこんなことを……」


 大琴堤一チェロは虚空を見上げながら言った。右手に持っているメロンパンはタバスコのせいで赤みを帯びている。事あるごとに思うけれど、こいつは頭がおかしい。


 俺は三人のことをまとめて三重奏と呼んでいる。名前にそれぞれ洋琴ピアノ堤琴ヴァイオリン大堤琴チェロの文字が含まれていて、三人ともが全く特徴のない見た目をしていることから、三人をひとまとめにしているのだ。


大琴おおごと(チェロ)、変な妄想してない?」


 ピアノが笑みを浮かべながら冗談めかして言った。そっくりそのまま発言者に返したい。一瞬で情景が浮かんだわ、あの胸の形はやべえ、と自慢げに話すチェロの顔面が視界に入った。俺は、すぐに目を逸らした。


 クズだな。そういう言葉が思い浮かんでも、笑顔を消したり、沈んだ声音で口にすることはできない。


「相変わらず、クズだなあ」


 取り繕った偽物の笑顔を浮かべて、俺は言った。


「え!? 据衣丈、裏切んなよー。前、四人で倉潮カホのグラビア写真見ながら熱い議論を交わしただろ」


「あのときは大事な部分は布で隠れてたからな」


 ピアノがスマホの画面を直視したまま呟いた。続けてヴァイオリンが、ああ、あの子か、と閃いたように言った。お前が一番熱弁していただろ、と心の中でツッコんだ。


 三重奏がワイワイガヤガヤと騒ぎ立てているのを気にせずに、椎奈さんのほうへ視線を向けた。ミートボールを箸で摘まみ、マスクに手をかけ、高速で口に運ぶ。鳥のくちばしのような形状に変化したマスクは一瞬にして何事もなかったかのように元に戻った。


 周囲で楽しそうにふざけ合っている女子集団や、ゲラゲラと笑い声をあげている男子集団に目もくれず、一人で淡々と食事を続ける椎奈さんに、俺は思わず見惚れた。


「倉潮カホかあ、ヤリてえなあ」


 チェロが普段通りの声量で言った。周囲にも恐らく丸聞こえだろう。椎奈の顔面を凝視していた俺は、ちょうどその時、事故の発生する瞬間を目撃した。椎奈さんが口に含んでいた飲み物を噴き出したのだ。


「きゃあ!?」


 騒いでいた女子集団の一人が悲鳴を上げる。その隣で椎奈さんはゴホッゴホッと咳込んでいた。マスクは無事なのだろうか、と俺は心配した。


 クラス内の視線が椎奈さんのほうへ集中する。一度は静まり返ったけれど、次第にざわめきが押し寄せてきた。まるで潮騒しおさいのようだ。


 遠目から眺めてひそひそと話す集団や、静かに嘲笑ちょうしょうする集団が視界に入る。


 何が起きているのか分かっているはずなのに、誰も椎奈さんに声を掛けようとしない。改めてクラス内における椎奈さんの立ち位置を認識した。


 椎奈さんは両手でマスクを押さえている。呼吸を整えたらしい。兎が飛び跳ねるかのように立ち上がり、駆け足で教室を出ていった。教室内が笑い声で支配される。俺は静かに椅子を引いた。


「お、おい。据衣丈、どこ行くんだよ!」


「トイレ」


 ピアノの声を背後から感じたけれど、振り向くこともなく俺は教室を出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る