第3話 拳を呑む闇

「あ、そうだそうだ……」


 唐突に椎奈さんの声のトーンが跳ね上がった。手に持っているコンビニ袋の中をあさっている。ボトル式のコーヒーを手に持って、俺のほうへ差し出した。


「はい!」


「はい?」


「さっき助けてくれたから! お粗末様そまつさまですがどうぞー」


 粗品そしなとでも言いたいのだろうか。何松様なにまつさまであっても渡されると困るので拒否したい。


 一度は抵抗を試みたものの、椎奈さんはへこたれずに缶コーヒーをぐいぐいと押し付けてきた。俺は礼を言って受け取った。


「契約成立ダァ!」


 俺と椎奈さんとの間で何かが成立したらしい。


「何を申し込まれて何を承諾したのか、驚くほど謎だらけだな」


「据衣丈くんは何も知らなくていいんだよ。受け取ったという事実さえあればオールオーケーだよ!」


 今すぐにコーヒーをつき返したくなった。右手に掴んでいる黒い物体が、悪を詰め込んだボトルに思えてならない。


 やっぱり遠慮しておくよ、と呟きながら黒いボトルを椎奈さんに差し出した。けれど、椎奈さんは鼻歌を口ずさみながら両手を後ろに組んでいて、受け取る気配がない。


 無理やりに渡そうとしたり、コンビニの袋に投げ込もうとしたり、一進一退の攻防をしばらく続けた。


 椎奈さんの手やワンピースに触れてしまう事案が何度か発生してしまったけれど、決して間違いは犯さない。女の子の肌、身に付けているもの、その他の身の回りの物すべて、女子というだけで神格化されている。ただの皮膚、ただの服、勘違い厳禁。それが妹の教えだ。愛しているぞ、妹よ。家族として。


 椎奈さんはボトルコーヒーのなすりつけ合いを一方的に切り上げて、歩き始める。俺もその小さな背中を追った。


「で、椎奈さん。顔を隠す理由は」


「あ、据衣丈くん。私の家、着いたよ?」


 椎奈さんのこもった声が俺の言葉に覆いかぶさる。二階建ての住宅を指差す椎奈さんの手は、月明りと街灯に照らされて病的なまでに白く見えた。


 『椎奈』の文字が刻まれた表札には陰影が形作られていて、厳かな雰囲気が漂っている。


「ありがとね、据衣丈くん。また明日」


 椎奈さんは手を振りながら玄関のほうへと去っていく。明日になれば椎奈さんに対する興味は消え失せて、再び無関係なクラスメイトに成り果てるのだろうか。


 こんなチャンスは今後二度と訪れない、と直感した。化物の姿をした好奇心が喉仏を突き破る。喉で引っかかっている化物の腕をすぐに引っ張り出したくなった。


 椎奈さん! と叫んだ。思いもよらぬ大声に驚いたのか、椎奈さんは慌てて振り返った。後ろ髪が舞い、黒のアイマスクと白のマスクが姿を現す。見返りマスク人だ。


「顔……見てみたいんだけど」


「やだよ」


 即答だった。分かっていたことだけれど、真正面から拒絶されると苦しさがこみあげてくる。


 そんなに気になるの? と呟く椎奈さんは今、真顔なのだろうか。それとも笑顔なのだろうか。


「気になる。最近はそうでもなかったけど、今、好奇心が最高潮に達してる」


 俺の中ではいつの間にか、椎奈さんにどう思われるのかなんて二の次になっていた。純粋に椎奈さんの秘密に迫ることができる、またとない機会なのだ。


 俺の熱量が可笑しかったのか、椎奈さんはわははっと大仰に笑い声をあげた。家の中にいるであろう椎奈さんの家族に聞こえていないだろうか。決まりの悪さを感じつつ、すぐに椎奈さんの笑い声は止んだ。


 入れ替わるようにして、椎奈さんは重々しくため息をついた。家の中の人には聞こえていないと確信できる。


「そんなに欲しがってたら、余計見せられないよ」


 完全に理解することはできないけれど、顔を見せないという姿勢だけは伝わってきた。俺にはこれ以上、深入りすることはできない。


 バイバイ、と言って手を振る椎奈さんを眺めながら、俺はただただ立ち尽くした。右手には体温のせいで生ぬるくなった缶コーヒーが握られている。


 心の底から邪魔だと思った。

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