第2話 力の無い猪

「あ、いや、失礼」


 警察官は慌てて力を緩める。椎奈さんの悲鳴がリアリティ溢れるものだったせいで、異様な緊張感が生まれた。


「この辺で女の子の失踪事件があったの、知ってます? 二日前から女の子が行方不明で、その子の自宅がこの辺なんですよ」


 だから何だっていうのか。ニュース番組で報道されていた内容を思い出しながら、ああ、と適当に相槌を打つ。


「この子の見た目があまりにも怪しすぎるから、普通に話を聞こうと思ったんですよ」


 それは至極当然の流れですね、と頷いていると椎奈さんに小突かれた。


「うう、確かに学生証がないからどうしようもないけど。私はただ、リップを買いにコンビニへ出かけただけで……」


「リップ必要なの!?」


「見えないのに、リップいる!?」


 俺と警察官の声が重なった。思わず顔を見合わせたけれど、飛び出した言葉が失言だと気づいた俺は慌てて椎奈のほうへ向き直った。表情は分からない。物理的に見えないのだ。


「うわあ……二人ともあり得ないんだけど……」


 椎奈さんのくぐもった声がマスクによるものなのか、侮蔑の念によるものなのか、正確には分からない。


「とにかく、君は、えっと……誰だったかな?」


 愛想笑いを浮かべる警察官を見て、自己紹介を済ませていないことに気が付いた。学生証を取り出し、何のためらいもなく差し出す。


「据衣丈布瀬くん、ね。この子のクラスメイトだって?」


「ええ。まだ、半年しか経ってないですけど」


 警察官は俺の学生証を眺めながら、へえ、と吐息を漏らした。表面を椎奈さんに見せないようにしているのが見て取れる。警察官はすぐさま、通っている高校名を椎奈さんに問うた。椎奈さんの淀みのない返答に納得したのか、警察官は一礼しながら学生証を差し出す。


「椎奈さん、呼び止めてすみませんでした。もう夜も遅いし、女の子の失踪が誘拐事件の可能性もあるので気を付けてくださいね。出来るだけ二人で帰ってください」


 では、と言い残して遠ざかっていく警察官の背中を眺めていると、横からため息が聞こえてきた。含まれているものが安堵か不満か、それとも不安か、それを判断するための表情は黒のアイマスクと白のマスクで覆い隠されていて、確認できない。


「家まで送るよ」


 自分の言葉が耳に入ってくる感覚はひどくこそばゆかった。椎奈さんは一度拒絶したものの、誘拐事件の恐ろしさを力説する俺の姿を見て思い直したらしい。


「いやークラスメイトと遭遇するなんてラッキーだったよ! ありがとう、据衣丈くん」


 ひと一人分の間隔を保ちながら歩く椎奈さんは、ことさら大きな声で言った。


 俺の胸の高さに位置する椎奈さんの横顔は、人間味を帯びていない。何時何分何秒、どんなタイミングで確認しても顔面に変化は見られないのだ。まるでロボットのようだと思った。


「まあ、あらぬ疑いを晴らしただけだから。椎奈さんもこの辺に住んでたんだ? 知らなかった」


「だよね、私もだよ。ていうか、こんな時間になんで制服?」


 椎奈さんは首を傾げながら少し見上げるように顔を向けてくる。俺は椎奈さんとの身長差を実感しつつ、返答に困った。合コンに参加していたという事実は出来るだけ隠したい。話題の中心をすぐに切り替える必要がありそうだ。


「授業が終わってからさっきまで遊んでて。そういえば椎奈さんって放課後になるとすぐに教室を出るよね」


「え?」


 椎奈さんの声は列車の車両が切り離されたかのように遠くへ消えていった。振り返ると、椎奈さんが歩みを止めて立ち尽くしている。体全体を覆う街灯の光はスポットライトのようだけれど、そこに立つ人間は役者というよりも黒子くろこだと思った。顔面が見えないのだから。


「据衣丈くん、私のことめちゃくちゃ見てる?」


「み……んー、いや、見てない見てない」


 少しひやりとした。一瞬肯定しかけた自分が恐ろしい。


 椎奈の顔面は嫌でも目に付くのだから日常的に視線が引っ張られるのは言うまでもない。だからといって、今このタイミングで肯定するのは愚策ぐさくだろう。勘違いを生む原因は根絶ねだやしにしろ。これは妹から授かった教訓だ。妹万歳ばんざい


 再び歩み始めた椎奈さんは、やがて俺の横を通り過ぎた。


「こんな格好してれば、嫌でも視界に入るよね」


「いや……」


 当たり前じゃん! 唯一無二の特徴じゃんそれ! と、道化たように本音をぶつけることはできなかった。嫌われて傷つくことを本能的に避けているのだろう。自分のことだけを考えて振舞おうとする俺の悪い癖だ、とふと思った。


 うやむやな返事を最後にして会話は一時停止した。静まり返った夜中の住宅街に二人分の靴音が反響する。


 ジリジリと音を立てる白色の蛍光灯に無意味な衝突を繰り返す多数の虫を見ていると、入学当初に椎奈さんの周囲にクラスメイトが群がっていたことを思い出した。椎奈さんは顔を隠す理由を決して語らない。ましてや素顔を見せることもないし、そういった類の写真が出回ることもない。


 そんな正体不明な女子高生と二人きりで歩いているのは異常事態だ。最近では心の奥底に引っ込んでいた好奇心が、次第に姿を見せ始めている。


「顔を覆い隠してるのってさ、何か理由があるんだよな」


「ん? 理由は、あるよ」


 質問に対する最低限の回答だった。これ以上の深入りはしてこないで、と暗に言われている気分だ。

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