1. 契機結果、

第1話 夏の少し後

 春のうららかな空気に心を躍らしていた俺は、教室の入り口の前で不審者と出会った。


 アイマスクとマスクを同時に着用する人間など、怪しい奴だとしか思えなかった。墨のように真っ黒なアイマスクと牛乳のような真っ白のマスクで顔を覆い隠している。綺麗に手入れされているミディアムな黒髪も真新しい女子制服も新入生のそれでしかなく、その他大勢の生徒と何ら変わらない。


 故に、顔面だけが常軌じょうきいっしていた。あのときの俺は言葉を失った。


 高校生活がようやく始まったのに。用意していた「おはよう」も「これからよろしく」も色彩を失って消えたのだ。


 入学式当日は、俺だけでなく全生徒、全教員が度肝を抜かれたようだった。特に初めて顔を合わせた担任の反応は今でも鮮明に覚えている。


 最初のイメージが肝心なんですと聞こえてきそうなほど満面な笑みを浮かべて勢いよく扉を開けた担任。数歩進んだ後にぴたりと動きを止めて立ち止まった。おそらく椎奈さんの顔面、つまり二重マスク姿を見てしまったのだろう。床を叩くヒールの音が止まり、引き継ぐように書類が床に散らばる音がした。口元は口角が上がったまま固まっていて、目だけが大きく見開く。何なのあなた。どうしたのその顔面。そう言いたげなのがありありと伝わってきた。あの場にいた全員の心がシンクロしたに違いない。ですよねー先生、と。


 椎奈しいな花穂かほは一貫して素顔を見せようとしない。謎は深まるばかりである。なぜ教員側が椎奈さんの不審者みた格好を許容しているのか。マスクの裏に何が隠されているのか。入学式から一か月ほどは出所不明の噂が飛び交っていたけれど、それも最近ではめっぽう消えた。


「顔、見せてよ」


「絶対にやだよ!」


 そういう風に返答されることが分かってからは、次第に椎奈さんの顔面に関して追及する人間は減っていった。


 入学式の衝撃から半年が過ぎた。椎奈さんの顔面に対する興味は俺の中でも消えていたはずだ。椎奈さんが何をしていようと気になることもなくなっていた。


 それなのに俺は今、帰宅への歩みを止めている。


 周囲は月明りと街灯でほの暗い。アスファルトに出来上がる影は何色をしているのだろうか。俺は道路わきに立つ椎奈さんと警察官から目を離せないでいた。


 闇に呑まれた住宅街は寝静まったように無音だ。


「だーかーら! ただコンビニに行ってただけだって!」


 椎奈さんの声が響き渡る。どんな表情で叫んだのかは分からない。角度の問題でも明るさの問題でもない。椎奈さんの顔面には物理的なフィルターがあるのだ。


「いやー、だけどねえ……身分を証明できるもの、あるでしょ? 学生証とか」


「だーかーら、小銭だけポケットに入れて出てきたんだから、財布は持ってないの! 身分証明できないの!」


 椎奈さんと対面する警察官が厚みのある胸板の前で腕を組む。声にもならないため息が彼の口から漏れ、肌寒さを感じる秋の夜風に紛れた。


 椎奈さんが職質を受けている。あれほど怪しげな格好をしていれば無理もないだろう。


 クラスメイトが職質を受けていれば助けるのが普通なのだろうか。経験したことのない状況に直面して、一瞬立ち止まってしまった。


 警察官と目が合う。椎奈さんとは目が合う訳がないけれど、顔が先ほどよりもこちらに向いている気がする。頭で考えるよりも先に、俺は二人の立つ方へ歩みを進めていた。


「あの、揉めているようですけど、何かあったんですか?」


 短髪で丸顔の警察官は俺の顔を見るなり眉をひそめた。


「ん? ああ、まあ」


「あれ? 据衣丈くんじゃん」


 警察官と椎奈さんの間に漂っていた険悪な雰囲気が一度リセットされたようだ。


「この人、クラスメイトなんですけど何かしたんですか?」


「ああ、ちょっと風貌が怪しすぎたから声かけたんだけどねえ。身分証明できるものを何も持ってないらしくて」


 困ったよ、と言葉が漏れそうになったのを堪えたのだろうか。重々しいため息が空中で霧散むさんした。


「ちょっと、助けてよ、きょいじょーくーん!」


 丸メガネの少年よろしく救いを求められても困るけれど、自ら関わってしまった手前、状況を把握して場を収めなければならない。手始めに椎奈さんに対する情報を提供する必要があるだろう。


「いや、本当に不審者にしか見えないですよね、彼女」


「そうそう、お巡りさんって何でもかんでもすぐに職質を……って、ええ!? 裏切るの早くない!? 据衣丈くんもそっち側なの!?」


 物凄く鬱陶しいノリツッコミを見たような気もするけれど俺は何も見ていない。緩めのTシャツの下にキャミソールを着用していて、さらにその下にはふっくらとした脂肪の塊が存在していたことなんて俺は知らない。


「だよね。怪しすぎるんだよ。そもそも、なんで前見えてるの? どういう構造なのかな、それ?」


 警察官は右手を顎に当てながら椎奈さんの顔をまじまじと見つめた。対抗するように椎奈さんは腰に手を当てる。


「特注なんだよ、このアイマスク。お巡りさんの顔もばっちり見えてるし、覚えたからね! 次からは職質はなしだから! それじゃー」


 椎奈さんは早口にまくし立てて、元気よく踵を返した。外出直前に入浴を済ませたのだろうか。ふわりと舞ったミディアムな髪から甘い香りがした。


「さすがに無理があるだろ」


「おっとっと、ちょっと待ちなさい」


 すんなりと腕を掴まれて、椎奈さんの体がよろめく。


「きゃ!?」


 女子高生に触れる男子警察官という構図がいかに危険か、椎奈さんの小さな悲鳴を聞いた瞬間に認識した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る