【エピソード4 第15話】

 ☆  ★


 光に包まれる。重力がない。立っているのか寝ているか空中に漂っているのか、空から落下しているのか何にもわからない。何も見えない。

 光の中に包まれるのがこんなにも気持ち悪く居心地の悪いものだとは思わなかった。

 永遠にも思われる一瞬が過ぎ、次第に光がおさまっていく。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 音が聞こえる。肺が膨らみ、空気を取り入る。肺が酸素を取り入れ、循環された空気を体外に吐き出す一連の流れを感じる。呼吸。これが呼吸。今のは呼吸。呼吸をしている。誰が? 俺だ。俺? 俺ってなんだ。俺は……。


 ハッとする。

 ただ息を吸って吐いているだけなのに、こんなに体のいろんな部分を使っていrたんだ。

 俺はずっと呼吸をしている。これってすごいことだったんだな。


「……気が……つ……たの?」


 ぼんやり聞こえる声。誰の声だろう。ここはどこだろう。目を開ける。覗き込む視線。切れ長の瞳が心配そうにこちらを見つめている。凛音……?


「ちゃんと帰ってこれてる? ここがどこだかわかる?」


 薄い唇が開き、空気が震え、耳に声が届く。『チャントカエッテコレテル』聞こえた言葉を頭の中で反芻する。そうか、言葉だ。今のは言葉。人間同士のコミュニケーションに使用される情報伝達手段。それが俺に投げかけられている。


「り、リティさん……」


 黒くて長い髪の女性が心配そうに覗き込んでいた。

 身体が重い。全身に泥を塗りたくったみたいな気だるさ、気持ち悪さ。


「頑張ったわね」優しく微笑み、おでこに手を当ててくれる。ひんやりして気持ちがいい。


 ベッドに寝かされていることにようやく気づく。窓の外は暗く、日が沈んでいることがわかる。どのくらい意識を失っていたんだろう。


「俺……」


「しゃべらなくていいわ。大丈夫。あなたは戻ってこれた。魔力がみなぎっているのがわかるでしょ」


 言われてみると、自分の体の中に今までに感じたことのない暖かいような不思議な感覚があった。


「よく耐えたわ。まだ身体がだるいでしょう。魔力がまだ体に馴染んでないのよ。でも、もう大丈夫だから、ゆっくり休みなさい」


 リティの声を聞いていると、なんだかまた意識が遠くなった。

 言われるままにまぶたを閉じる。

 今度は夢は見なかった。




 朝日と共に目を覚ます。窓の外に小鳥のさえずりが聞こえる。何年も眠っていたような気がするけど、こんなに気持ちよく目覚めるのは初めてだった。


 ふかふかの布団から身を起こすと、既にリティはキッチンに立っていた。


「おはよう。朝食の用意をしたけれど、起きれる?」


 ぼーっとしていた頭が覚醒する。


「お、おはようございます。昨日はなんか色々すみませんでした!」


 慌てて飛び起き、謝る。

 どこから夢でどこからが現実なのかわからないけれど、自分でベッドに向かった記憶はないので、彼女に運んでもらったのだろう。そして、この部屋にはベッドは一つしかない。そのベッドで俺は寝ていたということは彼女のベッドで眠りこけていたってことで、布団が優しい太陽みたいな匂いがするのは、彼女の匂いってことで、申し訳ないしドキドキするし、そうなるとリティは食卓の硬い椅子で寝たのか、それとも暖炉の前に敷かれたラグの上で寝たのか、とにかく多大な迷惑をかけたのだということは俺でもわかる。


「いいのよ。あなたが元気に目覚めてくれれば」


 昨日と変わらぬ薄い笑顔で食卓にお皿を並べている。


「お腹、減ってるでしょ?」


 減っていた。猛烈に減っていた。

 でも、あまり迷惑をかけすぎるのもよくないと思った。ただでさえベッドを占領していたわけだし。

 ここは、丁重にお断りして、デルアの村に帰るべきだろう。

 と、思ったのだが。


《ぐぅ~》


 腹の音は正直だった。恥ずかしい。


「遠慮しなくていいわ。私も久しぶりに人と食事をするのがちょっと嬉しかったりするから」


 表情を変えないから、本心なのか冗談なのか、わかりづらい。でも、結局はリティの言葉に甘えてご馳走になる。テーブルに並んだのは丸っこいパンと緑がみずみずしいサラダに赤い果実の砂糖漬け。

 この世界に来て初めてまともな食事にありつけた。一口食べたらもう止まらなかった。ここ二日の緊張感が和らいだことと、ぐっすり眠れたことで身体が食欲というものを思い出したのだった。


 俺がばくばく食べている様子をリティは雛を見る親鳥のような目で見つめていた。


「昨日のこと、覚えてる?」


「……正直、あんまり。懐かしい感じと、激しい怒りと、そんなものがごっちゃになった感じがしますけど、思い出せません」


「そう。きっと、あなたの心の深いところにある思い出や、感情が具現化したのね」


 そんな話をしながら、朝食をすませる。彼女は食が細いのか、見つめているばかりであまり食事に手を伸ばさなかったが。


「久しぶりにお客様が来たから、楽しかったわ」


 食後にぽろりとこぼした言葉と、寂しげな瞳の色を俺は見逃さなかった。


「リティさんはこの不思議な空間でひとりぼっちで暮らしているんですか?」


 聞くと戸惑ったように少し黙り、そして小さく頷いた。


「リティさんって、もしかしてこの世界の住人じゃないんですか?」


「そう思う?」


「はい。この世界の人っぽくないです、うまく言えないけど。それにこの建物だって変です。なんですかあれ。トラックじゃないですか。この世界にあるものとは思えません」


「そうかしら」


 はぐらかそうとするリティだが、俺は尋ねるのをやめなかった。彼女がもし俺と同じように、この世界に召喚された人なのだとしたら、何か情報を持っているかもしれない。


「……まあ、ごまかすのも無理があるわね」


 じっと瞳を見ていると観念したのか、苦笑いをしてリティは言う。


「私もあなたと同じ。召喚されたの。勇者として」


「リティさんも……」


 やっぱりそうだったんだ。彼女は『こっち』の人間だったんだ。


「もう何年も前のことよ。当時のブルースカイルは今とはまた世界情勢も違っていて、世界は同盟軍と連合軍に別れて戦争をしていた。私は同盟軍側によって召喚されて戦いに駆り出されたの」


「酷いですよ。自分たちの世界の揉め事を他の世界の人に投げるなんて」


「ええ。そう思うわ。でも、この世界ではよその世界から人を呼び出す方法が発見されてしまった。誰だって使えるものは使うわ、魔族や魔物が闊歩する世界ですもの。魔術を使えたとしても人間という種族は弱い。生き延びるためにはなんでもやるのよ」


「どこの世界でも、人間なんて勝手なもんですね」


「ふふ。でもそれが可愛いんじゃない?」


 俺はまだリティさんの大人な意見には賛成できない。けど、彼女の言葉は、この世界で過ごしてきた人の達観の表れなのかもしれない。


「いろいろ旅もしたし、時間とともに魔術も上達した。親友と呼べる人もできた。この世界で長く過ごすと、中々良い世界なのよ。元の世界より良い部分もいっぱい見つけた。目的があってこの世界に来たけれど、その目的を果たした後には、ここで暮らすのも悪くないかなって思えた。でも、私は異物だった。この世界ではいくら馴染もうとしても馴染めない異物、異端者。そして、魔王を倒すという名目のもと、行っていたのは結局は戦争だった。敵対していた魔族たちにも家族がいて、戦士であるけども、同時に誰かの親であったり、大切な一人息子だったりした。そんな現実を知って、私はもう誰も殺したくない。もう誰とも関わりたくないって思うようになった。だから、こうして結界を張った中で暮らしているのよ」


 寂しそうな顔。彼女の心には深い傷が残っているのかもしれない。全てを捨てて、こんな場所で一人で暮らしているのだから。

 そんな彼女の言葉の中に、一つ引っ掛かりがあった。


「ちょっと待ってください。今、って言いましたよね」


 俺のように意図せず無理やり召喚されたのではなく、自分の意思を持ってこの世界に来たというのか。


「そうよ。あなたとはちょっと事情が違うの。私には目的があった。目的を果たすためにこの世界に来たの」


「自ら? 自分の意思で? そんなことできるんですか?」


「ええ。あなたは女神様に会った?」


「女神ですか? この世界でですか?」


 女神。女神。なんだか、喉に小骨が詰まったような、なんとも言えないむず痒さを感じる。女神か。なぜか聞き覚えがあるような……。いや、気のせいか。


「……覚えてないのね。もしかしたら本当に会ってないのかもしれないけど、世界を跨ぐ時に現れるといわれる女神よ。確か名前はララとか言ったかしら。私はその女神様にお願いしたの。この世界に召喚されることを」


 女神ララ。なぜかその名前を聞くと、胸が騒ぐ。なぜかムカつくんだけど、なんでだ?


「俺なんて、なんの前触れもなくこの世界に来ちゃったってのに……」


「時々いるみたいよ。頭か何かを打った拍子に来ちゃって、朦朧としたまんま女神様とやり取りをするから、会話の内容を覚えてない子が」


「はぁ……」ため息をつくしかない。じゃあ何か。俺が彼女の家で頭をぶつけてクラクラ状態のまんまで、女神(?)だかなんだかに出会ってこの世界に飛ばされたってことか?


「本当に覚えてないのね」


「はい。気がついたら、なんとかって神殿にいて。ゴタゴタに巻き込まれて今に至ります」


 もし、リティの言うように女神がいるのなら、問答無用でぶん殴ってやる。俺を勝手にこんなわけのわからん世界に連れてきやがって!


「それにしても、リティさんの目的って一体何だったんですか?」


「……探してる人がいたのよ」


「この世界で?」


「ええ。恋人でね。彼もこの世界に飛ばされたんですって。それを女神様に聞いて、会いに行かなきゃって思った。ドジな人だったから私がついていてあげなきゃって思っての。ま、会えずじまいだったんだけどね」


 昔を思い出してか、苦笑いをしている。切れ長の瞳の奥にきっと会うことのできなかった恋人の姿を浮かべているのだろう。


「この世界には俺らの世界から、そんなにも多くの人が召喚されているんですか?」


「それはわからないわ。でも、彼も私もこの世界に来た。そして、あなたも。それだけは事実だわ」


 過去を思い出したからか、憂いを帯びた表情になる。儚い幸薄の美女。


「さ。私の話なんか聞いていても仕方ないでしょ。はやく仲間と合流して、ラーマ神殿に向かいなさい。あなたには帰る場所があるんでしょ?」


「……でも、リティさんは帰りたくないんですか? 自分の世界に」


「私はこの世界で長く生き過ぎたから、もう元の世界には帰れないわ。今更帰っても、もう元の世界には居場所がないもの」


「でも、ご両親とか。きっと悲しがってると思います」


「親はいないの。だから気にしなくていいのよ、私のことは」


 迂闊なことを言った俺を気遣うように微笑むリティ。 


「……すみません。でしゃばりました」


 申し訳なくて瞳を伏せる。帰る場所のない彼女は、ずっとこの世界の片隅で生きていくのだろうか。


「本当に私のことは気にしないで。あなたはあなたのために成すべきことを成せばいいのよ。それだけは覚えておいて」


「……わかりました。色々とお世話になりました」


「あなたに会えて良かったわ。流空くん」


 薄く微笑むリティに一礼して、俺は玄関に進む。

 なんとも後味が悪い気持ちになるが、彼女は彼女で色々な思いがあるのだろう。

 俺がどうこう言えることでもないだろうし、俺はやっぱりこの世界から抜け出したい。薄情だけど、彼女のようにはなりたくない。


 でも。


 ドアノブに手をかけたまま振り返る。


「もし、自分の世界に帰れなかったら、また会いに来てもいいですか」


 リティは微笑んだ。彼女がちゃんと感情を見せたのはこれが始めただったかもしれない。切なく美しい笑顔。


「ふふふ。帰れないときのことなんか考えてもないくせに」


「そ、そんなことはないですけど」


 見透かされた俺は目を逸らした。


「あなたの考えることは手に取るようにわかるわ」


 気恥ずかしさで頭をかく。


「まっすぐ進めばデルアの村にすぐ着くわ。無事を祈っているわ」


 彼女は元どおりの無表情な中に微笑みを混ぜた表情で言う。


「はい。いろいろありがとうございました。失礼します」


 頭を下げて、俺は奇妙なコンテナを後にした。

 もう会うこともないだろう。そう思った。


 でも、俺だって、ラーマ神殿から帰ることができなかったから、本当に彼女のようにずっとこの世界に暮らすことになるのだろうか。


 そんなことを考えると、背筋が寒くなった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る