第55話    



[ベラドンナ・荒野にて]


 _

 _____。


 スミレは今、ヤナギの意識の世界にいる。


 …足場がない? でも立っている。私は…

 スミレは一歩足を踏み出した。足元は暗く、底が見えない。しかし向こうに何かが見えるような気がしてやまない。スミレは吹っ切れぬ気持ちで、薄暗闇の空間を歩んでいた。何故か_ここはヤナギの世界とは別の場所のようにも思える。なんとも言葉にできない、不気味な感覚。スミレは脇をを見る。そこには_


 …雲?


 薄紫のもやの様なものが漂っている。それは足元を這い、スミレの周囲で溶ける様に上方で消えていく。それに覆い隠されていた光景が広がった。

 気付けばスミレはその光景の一部としてまた別の場所に立っている。


 ここは…


「スミレー!」


 兄さんの記憶の中…?


 目の前に、自分がいた。背がまだ低い頃の自分_幼いスミレ。きょとんとした顔で、声のした方を見ている。こちらには気が付いていない。


「にいさん、」


 髪の短い彼女は、走ってきた少年を見るなり嬉しそうに微笑んだ。少年は__ヤナギ。幼いころのヤナギだ。はつらつとした笑顔を妹に見せている。彼の小さい手には。


「これ…」

「ぼくがつくった弓だよ。きれいでしょう?」

「うん…すごくきれい。でも、どうして?」


「スミレ…さいきん弓の調子がわるい気がして。矢、うまく飛んでないだろ?」


 スミレ____記憶を見ているスミレは息を大きく吸い込んだ。


 そう、私はこれ以来、…兄さんの弓以外を使えなくなってしまったのだ。

「神子」であるから? でもどうして?



「…うん、そうなの」


 幼きスミレは落ち込んでいた。


「じゃあ、これ使ってみて! きっとうまくいく。ぼくが「おもい」を込めて磨いたんだ」

「「おもい」?」

「うん。スミレが最高の弓使いになれますようにーって」



「____ありがとうっ、わたしやってみる!」



 スミレは白木の弓を受け取るなり走った。そこは彼らが元暮らしていた村の広場だった。そこには弓の技の練習をするためのスペースがあり、スミレは毎日そこで訓練をしていた。


 スミレはさっそく、もらった弓を番え、柱にくくりつけられた的に向かう。少女が立つ位置と的の距離はおよそ六十メートル。成人した弓使いが用いる的を、スミレは狙っていた。



 …そう、あの時の私は、理由もないけれど、自信に満ち溢れていた。


「やったー!」


 ヤナギの嬉しそうな声が広場に響き渡った。


 ___だから。

 的の中心に、矢を射ることができたんだ。





 時は流れ____


 専門の学園に入学したスミレは、しばらくの間村を離れることになった。スミレのいない村は静かで、弓の訓練が出来る広場は寂れていた。枯れ葉の舞う広場にて、ヤナギは一人で立っている。スミレは意識の中、その彼の記憶を見つめていた。自分の知らない彼を知るチャンスであった。



、神子のお兄さんなんでしょ」

「じゃあ、あの子は何かあるの?」

「ううん、子供よ。昨日だってやんちゃな男の子達のグループとけんかしていたわ。それに両親はいないみたいでね、神子と二人で暮らしてるんですって」

「ふうん。なら妹さんの神子のほうは、どうなのかしら」

「それが、この前……」



 ヤナギは突如、早足で歩き始めた。ザッ、と土埃が舞い、彼の靴の跡がくっきりと地面に残る。その音で、噂話に興じていた女二人はヤナギの存在に気がついた。


 スミレは彼の記憶に干渉できない。

 スミレは気付けばヤナギを引き止めようと声を上げていた。


 届くわけもなく______。


 しかしヤナギは、その二人組の横を素通りしたのみだった。


「あ…」


 女は口元を押さえ、広場を去る彼の背中を見送りながら「…聞かれたかしら?」ともう一方に問う。さあ、と、噂好きの女は首を傾げた。


 __…私は勘違いをしていた。兄は私のことを嫌っていたのではない。嫌っていたのなら、これは「怒りの記憶」にはなっていないはずだから。

 …私のことを妹として大切に思ってくれていることは、ずっと前から気付いていたはずなのに。どうして知らないふりをしていたのだろう。


 私は、兄がおかしくなってしまった理由を、勝手に取り繕っていただけだったのだ。


 時はまた飛び___


 ヤナギは家の自室にいた。夕日の差し込む狭い部屋にて、ヤナギは白木を丹念に研削していた。白い木屑が部屋中に舞い上がり、僅かに開けた窓の隙間から外に流れる。木の粉は夕日に照らされて眩しく光っている。美しい光景だったが、ヤナギはそれを気にも止めず、ひたすらに、研磨紙で滑らかな木面をつくっていた。


 彼はもう何ヶ月も家から出ていない様だった。外の人々は死んだのではと噂し、とうとうは家に村の警察が押しかけた程であった。何度も扉が叩かれた。しかしヤナギは一度も弓から目を離すことも、椅子から立ち上がって部屋から出ることすらしなかったのだ。


 __弓を持つ手の力が突然抜け、白木の弓は床に音を立てて落ちる。ヤナギはそれを取り落としたまましばらくの間呆然として座っていた。彼はやつれ、元気な時の面影をなくしている。目元は腫れ、何日も物を口にしていないのか頬骨は出ていて痩せ細っていた。しかし、ヤナギ弓を拾い上げ、先程と同じ動きを再開させる。何日も睡眠をとっていないのに、瞳は真剣そのものだった。腕の動きも、弱ってなどいなかった。それどころかより一層力を込めて、丁寧に磨いてゆく。


 みるみるうちに白木は、スミレのよく知る美しい弓へと変わっていった。


 床に彼の汗が滴り落ちる。手は切り傷や豆だらけだ。手の甲にも汗が滲んでいる。彼は何度も顔を顰めた。手首の痛みが限界に達していた。___ヤナギは楽しそうに、口角を上げる___瞳は生き生きと光り輝いている。彼はこの作業に夢中だった。



 …やがて、ヤナギは村から追放されてしまった。


 理由はまたもやありもしない噂からだった。



「つくづく恵まれないな、俺は」


 村を背にして、ヤナギはぼやく。彼は二度と村を振り返らなかった。


「でも___今回は、俺の所為か」



 半年も家から出なかったことから、呪いに手を染めた、黒魔術に加担した、などの根拠のない話が生まれたという。元々自分は村の嫌われ者だったし、スミレのことを「神子」などと呼ばわりする連中にはもううんざりである。だからもういい、故郷とはお別れして、新天地で改めて根を張ろう_____彼は辺境の地へと出発した。




 時は巡って_____。



 辺境の村にて、ヤナギは森の中を散策していた。この地には訪れたばかりだったが、村の人々は、彼を歓迎し、住む場所まで与えてくれた心の優しい者たちばかりだった___そのような状況に戸惑いながら、しかしヤナギはこの村の一員としての暮らしを始めたのだ。

 不安はなかった、ただ生きていれば、そしてスミレの安否がわかる状態でいればなんでもよかった。


 …深緑が空を覆い、快い木漏れ日が差し込む昼間。気候は涼しく、シャツ一枚で心地が良かった。ヤナギは空を見上げ、目を細める。ここでなら弓を造るのにも負担がないだろう。_と、これからのことについて思いを馳せていた時だった。



 この森には誰もいないはずだった。


 植物が揺れる音で、ヤナギは振り返る。彼は視線の先に、地面にしゃがみ込む女性を捉えた。


「あれ…ないなあ…」


 正確には彼女の背中である。頭は枝の間に突っ込まれ、腕を草花の中で振りまわし、何かを探していた。


「…あの」


 ヤナギが後ろから声をかけると、それは後ろに下がり、

 __可憐な顔立ちの女性が顔を出した。


「あ、こんにちは」


 彼女はにへら、と笑い、前髪についた葉を摘む。


「どうかしたのですか?」

「ええ、ちょっと…」


 ヤナギが膝をつくと、彼女は恥ずかしそうに顔を背けた。


「ネックレス、落としちゃって」

「俺も探します。どんな感じのものなんですか」

「えっ、手伝ってくれるのですか…?」


「? もちろん」


 彼女は驚いた様にヤナギの方に向き直り、その瞳をじっと見つめ始めた。


「ありがとう……弓の装飾をかたどった、この村の名産のものなんです」


 ヤナギはそんな彼女の様子を気にせず、自分も地面に手をついてネックレスを探し始めた。

 低木の下に腕を入れ、草むらの中に手のひらを這わせていると、さわさわとした感触の中に、固く冷たいものが指先に当たった。あ、と思いそれを取って、目の前に持っていく。案の定それは彼女が探していたというネックレスだった。ヤナギは立ち上がると、別の場所を探していた彼女の方に声を掛けた。


「ありました」

「ほんとう?!」


 彼女は急いで立ち上がると、ヤナギの方に駆け寄ってその手の中を見る。表情がぱっと明るくなった。


「そうそう、これです! よかったあ…」


 ヤナギは彼女にネックレスを手渡そうとして、ふと手を止める。土汚れが装飾の部分に付いてしまっていた。彼は服の裾でそれをぬぐい、今度こそ彼女に手渡すと、彼女は明らかに困惑した。


「お洋服が汚れてしまいます」

「別に大丈夫ですよ」


 ヤナギはにっこりと微笑んだ。彼女はまたもや、探るように彼の顔をまじまじと見つめる。


「あの、なにか…」

「もしかして、昨日越してきたヤナギさん?」


「っあ、はい。そうです」

「あら、やっぱり! 会えてよかったわ、本当にありがとう」

「…あなたの名前は?」


「私はキキョウといいます。先に名乗ればよかったかな」


 キキョウ、その名を聞いてヤナギは慌てて再び地面に膝をついた。


「すみません、次期村長様とは知らず」

「あ、いいの、いいのよ」


 キキョウも合わせてしゃがみ、顔を上げたヤナギに清廉な笑顔を向けた。


「これからよろしくね、ヤナギさん」

「呼び捨てでどうぞ、キキョウ様」

「あら、あなたこそ「様」はつけないで!」

「…キキョウ、さん」


「ヤナギは何をしていたの?」

「散策を少し。今から戻ります」

「じゃあよかったら一緒に戻らない?」

「喜んで」


 二人は並んで道を歩く。小キキョウの周りで小鳥達の合唱が始まった。ヤナギは横を歩くキキョウの横顔を一瞥した。___何となく、雰囲気がスミレと似ている気がする。性格は違うのに…。何故だろうか。


「着いた!」


 キキョウの声でヤナギは我に帰る。彼女は村長の家の方へまっすぐに歩いていた。


「少し寄っていってくれる?」


 _____ヤナギは、村長の元へ招かれた。キキョウの大事なものを見つけたということで感謝され、ヤナギはまたもや戸惑った。キキョウの笑顔で、理由も分からず嬉しくなったのだ。


「キキョウさま!」


 二人での会話が盛り上がり始めた時のことだった。

 客室にて、名産の弓について話していると、ドアが勢いよく開かれ、外から強面の屈強な男が入ってきたのだ。


「ナズ」

「どこへ行っていたのですかっ」

「どこって…森に」


 ナズと呼ばれた男は手で顔を覆う。はああああっという深いため息で、キキョウは顔をしかめた。


「もう、すぐ近くなんだしいいじゃない」

「だめです! ついこの間だって小鬼が現れたじゃないですか。危険すぎます」

「でも、私は撃退できるわ」


「っ……」


「小鬼が出るんですか?」


 ヤナギがいたたまれず問うと、ナズは仏頂面をヤナギに向け、ぶっきらぼうに頷く。


「危ないので、あなたもあまり森の中に入らない方がいいでしょう。キキョウさまも、撃退できるといってもご無理されてはいけませんからね」


 ナズは、それでも不満げなキキョウに言うと、「白魔法は体力を使うから」と独りごちた。



 ナズが出て行くと、ヤナギは早速気になったことを問うた。


「魔法が使えるのですか?」


 キキョウは首を傾げ、恥じらいながら頷いた。


「ええ。まだまだですけどね」


「それは…」

「だから大丈夫だと言っているのに。ナズは頑固だわ」


 キキョウは目を伏せて息をついた。しかし、彼女は嬉しそうである。文句を垂れ流しながらも、彼女は口角を上げたままだったのだ。


「ナズは私の付き人、みたいな人よ。とても頼りになるの」


 その顔を見た時、彼の中に儚い羨望が芽生えた。

 スミレは_向いあう二人が楽しげに会話をする穏やかな光景を、何も詮索することもなく、ただ真剣に、真剣に聞き入っていた。しかし彼の記憶の中でその感情が芽生えたのを感じ、胸が苦しくなった。


 気がついたのだ。自分も今、当時の兄さんと同じ感情を持っている、と。






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