第54話
[戦場にて]
柔らかな、しかし張り詰めた風が若葉をなぞる。
リアンたちはドラゴンの苦しみが消える前に、最後のとどめを刺さんとしていた。
「リアン! 怪我の具合は!」
「大丈夫です! そっちは!」
「オレ様ぁいつでも平気だ!」
「スミレは_」
「平気です。準備はいいですか」
「いつでも!」
三人の声はさんざめき、そしてそれぞれの視線は一点に集中する。ドラゴンの喉元_それが狙うべき一点だった。
彼らは互いの息を合わせる術を使った。単純な術技である、神経を読み取るのだ。デンはその術をもたないが、彼には読心術がある。それらを駆使し、声を掛け合わずとも、存分に動くことができるのだ。
まず、スミレはドラゴンがいる位置から数メートル離れた場所にて弓を番える。
デンは突進しつつ、弱点である氷魔法を時間をかけて完成させる。
そしてリアン、直接首元に向かって走り、剣を抜く。剣身は青く発光を始めた。
スミレが矢を射た。
同時に、リアンの剣がドラゴンの紅い眼球を貫く。すぐに彼は剣を抜き、もう片方の瞳に刺さった矢を片手で引っこ抜いた。奇妙な感触ののち、血飛沫が地面に飛ぶ。リアンは左手に一本の矢を、そして右手には魔力を帯びた剣をと握りしめ、ジャンプ、ドラゴンの頭に飛び乗った。
額の部分は硬い鱗に覆われ、ブーツ底でも滑ってしまう。リアンは走る。走り__
ドラゴンの半身がうねるように跳ねた。
刹那の出来事だったために、リアンは予測することができず弾き飛ばされる。しかし__彼は自分でも不思議に思うほど冷静な判断を下していた。
リアンは後ろに飛ばされながら、スミレの矢を思い切り投げつけた。びゅうと風を切り、弧を描いて空を走り抜けたそれは、ものの見事に鱗の間に突き刺さる。
「ナイスだ、リアン!!」
デンの声が横に聞こえ、リアンは安堵した。デンの手には既に氷魔法の具現がある。デンは詠唱し、魔法を携えた手のひらをドラゴンに向けた。氷山の一角を思わせる鋭い氷片が無数に降り注ぐ。まさに泣きっ面に蜂だ。ドラゴンは体を逸らして呻いた。
地面に足をつき、滑りながら着地したリアン。濡れた土の匂い。指に柔らかい感触、青々しい草花の香り。…見上げれば、少し曇った先に晴れ間が見える。…しかし、小雨模様だ。瞳に雨粒がぽたりと落ちた。冷たい。これは__…
「氷魔法が溶けにくくなります!! 今のうちにとどめを!」
スミレの声が聞こえたその直後、デリダの繰り出した氷のかけらが、ドラゴンの鱗の間で大きく成長した。固体音とともに、徐々にかけらは大きくなっていく。雨粒を水分として吸収する性質があるのだ。
つまり__この戦いはリアン達に有利が傾いたといえる。
『ガアァァああ!!』
ドラゴンの喉からは掠れた音が漏れでる。明らかに弱体化している証拠だ。そしてまだ、黒魔術師の呪いは継続しているようだ。鱗の色は徐々に色彩を失っている。灰色から、無色へ_
…ただし、ドラゴンは未だ「支配」されたままである。既にドラゴンの自意識は沼の奥深くに沈められているのだ。つまり、この色の変化は、ドラゴンの弱体化によるものであるとは限らない。
__ドラゴンの意識下を彷徨う、炎となった男。
黒魔術師である。
彼は、他者の意識の中に入り込んだことなど当然ない。
ただ、自分の中に潜在する知識がそうしろと、自らの魂に語りかけたのだ。
男は海の中を泳ぐように、そこに漂っていた。
そして見つける。
大きな巣_腫瘍。
最初は単純で無垢な好奇心、魔術師はそれに近付き、手を伸ばした。
指が触れるか否かのその刹那。
魔術師は目を見開き、飛びのいた。これは、と、ないはずの口から言葉が漏れ出るようだった。
人伝に聞いたことがある。
古の出来事だ。ある魔法使いの伝説。
“王を裏切りし魔女、遂には他者の意識を支配せり”
今ではもう、想像上の物語とされているそれを、その時代に生きた黒魔術師は今の今まで絶やすことなく伝えてきたのだ。
その先祖らの真意は分からない。気付けば自分も、我が子にその伝説を事細かに話してきた。
自分は疑っていた。
しかしそれは、目の前にこうして広がっている。
支配_細菌のような何かが神経の内側に侵入し、意識を蝕むもの。
その具現はこの黒い物体に表される。惜しげなく強力な意識が働き、その意識がその名の通りドラゴンの思考を支配し、思い通りに動かすことを可能にする物体。
もう一度、彼はそれに近付く。悍ましげで、強烈な魔力を放つそれは、触れることができないようだ。
……声が聞こえる。
女の声___声高らかに、嗤っている。奇妙な声色だ。まるで壊れた電話機のようにいびつで狂った音。これは、以前も人から聞いた。歴史上での“魔女”がおよそ三千年前に王の前で発したと言われる笑い声だ。
今この瞬間、魔術師は「支配者」の正体を知った。
魂となれど、感情はある。
炎はさらに燃え盛った。激しく燃え上がり____彼は決めた。最後の最後まで、彼は遺すことを惜しまない。
なんとかして伝えなければ。
この「正体」を、外の三人に__。
______
ドラゴンが火炎を吹いた。
「
デンにその炎が直撃する。氷魔法を持っていたためダメージは減少したものの、さすがのデンも耐えられず膝をついた。デンを援護しようと動くスミレ、しかしデンはそれを止めた。
「いい! 作戦通りにやってくれ!!」
足を止め、スミレはほんの僅かの時間逡巡し、やがて頷いた。
爪の切撃を剣で払ったリアン、ふと周囲に視線を移す。
_予期せず視点が止まってしまう。
「スミレ!!」
彼はとっさに声を上げた。スミレは矢を射て飛躍する。声が届いていない。リアンは先ほどよりも声を張り上げ、怒鳴るように叫んだ。
「スミレ!! ヤナギさんのところへ今すぐ行ってください!!」
スミレは空中でぴたりと静止する。顔は_驚きに満ちていた。
そしてそれはすぐに_蒼白。
「『支配』に毒されかけてるッ、このままだと終わります! ここは俺たちがやるから、早く!!」
地上を走る風と鱗。そしてドラゴンの鋭い
一直線に、
兄の元へ。
_ドラゴンとヤナギのいる世界の中で、俺に語りかけた者が言ったことが正しければ、ヤナギを本当の彼に戻すのはスミレだけなんだ。
リアンは剣を振りかざした。
♦︎♦︎
キキョウは既に気が付いていた。
彼女は生まれながらにして、辺境の村の次期村長候補に真っ先に挙がった人物である。そして人付き合いの浅いヤナギが唯一関心を示した女性であり、_非常に優れた観察眼の持ち主。
それゆえ、彼女は一般人にして気付いてしまった。
これから起こってしまうであろう悲劇に。
キキョウを運び、森を奔走するナズに、キキョウは話しかけた。ナズは村長にとって一番に信用でき、判断を唯一委ねられる人物だ。それは二人が幼い頃から近しい場所にいて、同じ道を辿ってきたからであろう。
「ナズ…」
「はい、キキョウさま」
「…声が、聞こえない?」
「え?」
「誰かの…沢山の人の叫び声が聞こえるの、この森…」
「…」
「聞こえないの…? 泣いてる…、苦しそうに…ずっと鳴り止まない…」
「…キキョウさま」
「誰もッ、気づいていないの? 私だけなの?」
「キキョウさま、落ち着いてください! もうすぐ__」
「ナズは? ナズは聞こえない? わからないの? この異変が」
「俺は__」
「おかしくなってしまったの! あの伝説が繰り返されてしまう__世界が_」
「キキョウさま!」
キキョウは唾を飲み込む。ナズの指が彼女の肩と膝に食い込んだ。力がこもり、彼は眉を顰めている。キキョウは目を見開き、口を開けたまま、空を睨みつけるナズの方を見上げる。彼女の従者は怒っていた。
「キキョウさまらしくありません__村長でいらっしゃるなら、もっと落ち着いていらっしゃってください」
キキョウは息を呑み、咄嗟に言い返した。普段の彼女では考えられない一言が口から滑り出る。
「何よそれっ…あなたなら分かってくれるって…信じてたのに。信じてたのに!」
「き、ききょ__」
キキョウはナズの腕から逃れるように脱し、地面に足をつくなり走った。ナズは反射的に手を伸ばすが、何故か体が動かなくなってしまう。_キキョウにこのような言葉を向けられたのは、幼い頃以来だった。__要はショックを受けたのだ。動けないうちにキキョウはみるみるうちに草むらの中へ消えてしまう。_遂に、影はすうっといなくなってしまった。
行かないで
行かないで、ずっとここにいて
ねえ、聞こえてる?
_知らない。この言葉はキキョウじゃない。彼女がそう言わなくとも、俺ずっと彼女のそばにいた。
…俺にも聞こえるのか_?
「キキョウさま!!」
ナズは叫び_走る。
真っ直ぐに進むと、キキョウはそう遠くない場所にいた。息を切らせ、胸に手を当て、肩を上げ下げしている。キキョウは喘息持ちで、激しい運動ができない。遠くへの移動は、ナズが必ずついてゆく。そのため、彼女は一人で行動することに慣れていない。_ナズには分かりきっていることだった。
彼女の手首は細く、掴めばすぐ壊れてしまいそうだ。そのために、彼女の手を両手で包むように捕まえた。キキョウは俯いたままである。
「はあっ、はあっ、はあっ…ゲホっ…」
キキョウは膝を折る。ナズは崩れ落ちるキキョウの体を支え、キキョウの取り落とした弓を拾い、片腕で彼女を抱きしめた。
「行きましょう」
そのまま彼女を抱き上げ、ナズは歩く。
「ごめ…んね、ナズ…」
「_泣かないでください。あなたにそのような涙は必要ないです。それに…俺にも聞こえたんです、その声が。
__大丈夫、あなただけじゃない。俺が_あなたの言うことを信じなかったことなんて、今までにありましたか?」
「…」
キキョウはなかったと返答する代わりにナズの服の襟を掴み、握った。
ナズは怒った面持ちで、早足で獣道を歩く。
と_
『ガアァァああ!!』
血混じりの咆哮が二人の耳に届く。ナズは急ぎ、キキョウの耳を塞ぎながら足を早めた。キキョウは無言でナズの手を耳から離し、空を見上げる。曇った空、向こうでは雨が降り始めたようだ。地面が揺れ動く。誰かが話す声が響いてきた。二人が聞いたことのある声_リアンとスミレである。
「早くしないと!」
キキョウは言い、ナズは走った。
戦場まで、そう遠くはなかった。
二人の目の前の木の影で、ヤナギが今にも立ち上がろうとしていた。
「ヤナギ!」
キキョウが声をかけるも、反応はない。ナズはキキョウを守るように彼女の前に立ちはだかり、じりじりとヤナギに近づいた。幹に寄りかかり、項垂れて息をしている。目__目の前の風景が見えていないようだ。
違う世界を見ている__幻想の中にいるのだ。
「これが…」
_支配。
魔女が秘密裏に犯したとされる禁忌。今やそれはお伽話となり、もはや人々は伝承を忘れている。
ナズはキキョウに白木の美しい曲線を描く弓を手渡した。弓を受け取ったキキョウは、それを両手に持ってヤナギのいる元へゆっくりと歩み寄る。彼女の姿に恐れはなかった。
「ヤナギ…聞こえる?」
ナズはキキョウの横でじっとその時を待つ。すると、戦場からこちらへ走ってくる人物が彼の目に飛び込んできた。_スミレだ。一体どうしたのだろうか、ナズはキキョウの名を呼ぶ。キキョウはナズに釣られて視線を上に向けた。_
__
「ぐっっ……!!」
ナイフ_ヤナギが先程スミレに突き立てたものとは別の真新しい小刀状のナイフ。
キキョウを庇ったナズの肩に、深く突き刺さっている。白いシャツに滲む赤い鮮血。息を呑む音、雨の降る音、土を踏み躙る音、うめき声…。ナズはヤナギの手首を押さえるように掴み込み、震えながら静止した。彼はキキョウに襲いくる切先を自らに向けたのだ。
「あ……」
キキョウの嗚咽を合図としたかのように、ナズは動き出す。ゆっくりと_面を上げ、鋭い眼光をヤナギに向ける。そして__「お前はこの方に手を出すような男じゃなかった」、ただその一言を吐き、ぐっと歯を食いしばった。
_スミレが到着した。彼女は落ち着き払い、まずヤナギとナズを引き離す。ぐたりと首を垂れたナズをキキョウに引き渡した。キキョウは震えながらナズを介抱する。
「キキョウさん、ナズさんにこれを。木陰で寝かせてください」
ポーションをキキョウに手渡し、スミレは早口に森を指さした。キキョウは無言で頷き、涙と汗で濡れた顔をナズに向ける。彼女は従者の体を支えた。ナズはよろよろと歩く。キキョウは重みで傾きながらも、必死にナズを助け歩いた。
スミレ__我を忘れたヤナギに至近距離で向き直る。
「兄さん、待ってて__すぐに助けるから」
彼女は決意を完全に固めた。
今なら入れる__リアンが見た、意識の世界に。
♦︎♦︎
ドラゴンの様子が変わった。急変した。
瞳を開閉する、その周期が短い。つまり__瞬きの回数が異常に多いのだ。
リアンはその充血した瞳を観察したが、今までと同じ、焦点の合わない虚な光が宿るのみだ。
しかし、のどの奥からドラゴンのものとは思えないか細い声が途切れ途切れに聞こえてきた。デンとリアンは剣を構えたまま耳を澄ませる。神経を削り、集中し、それぞれの才能を駆使すると__やがてそれは鮮明に聞こえた。
「“お母さん”…? いったい誰のことだ?」
デンがつぶやく。
リアンは思考を巡らせた。彼は以前、操られた女神の声を聞いていた。「あの方」。女はそう言っていた。もしかしたら__同一人物?
「__“解放してくれ”……」
リアンは聞こえた言葉を反芻する。それはドラゴンの声帯からではなく、神経の糸から繰り出された訴えのようにも聞こえた。
「“でもあの人が、許さない”__“私たちのお母さんが、許さないよ”……なんだ? これ…」
『殺しテ……くレ_…』
__《闘いたくなんか……喰いたくなんか……
なかったのに…っ》
鉱石の女神と、ドラゴンの声が重なった。
リアンは再び、柄を堅く握りしめる。彼の中に大きな使命感が宿った。そして、この戦いがもたらす意味というものが、突如として今生まれたような気さえした。この青い剣が、それを果たす。_ドラゴンの心をも救うことができるのなら、それは大きな進展であり成長だ。
それだけじゃない。この任務に赴いたのは、レンたちの想いがあったから。託されたものは、最後には果たされるべきだ。最後まで託されたことを忘れてはいけない。
もう一度あの力を引き出すことができれば、思いは果たされる。
瞳を開ける。視界が一気に開き、向かい風に髪が煽られる。遠くからやってきた通り雨が一瞬の内に通り過ぎて、背後にて雷鳴が轟いていた。森が騒ぐ音が同時に聞こえてくる。__それさえ清々しい。
リアンの瞳は燃える赤に。
彼が魔力と共になった時、本来のスピードとパワーが一気に上昇し、それは〈一番星冒険者〉に並ぶ程の実力に到達する。たとえ冒険者への才能に恵まれなかったとしても、非常に自我が強い魔力に順応できた彼はまさしく魔力への飛び抜けた才能を持つ冒険者だ。
「はああああっ!!」
飛躍。このような特別な魔法をすぐに使いこなすことができたことが、さらに才能を証明する。
空中にて、面と面を向かい合わせる二方は、睨み合う。リアンの剣技が速いか、ドラゴンの火吹きが速いか。___両者、同時に動き出す。
そして、決着は。
剣の柄を握るリアンの両手が、さらに力んだ。
青い剣身が彼の瞳によく似た赤に染まりゆく。ドラゴンの瞳に降り立ち、その首に最後の一撃を与えた剣使いは、視線を下に肩で息をしていた。
彼の立つ鱗の色が、黒く__炭の色に変化する。その変化は全身を伝わり、胴の先まで闇色にそ待った鱗はやがて儚く割れ、散った。
黒い粉___塵が、灰の空に散る。ドラゴンは原型を止めることなく、言葉も発さぬまま、ただ無音で…その生を砂として散らした。
足場を失ったリアンは、剣を持ったまま落下した。彼はすでに気を失っており、ただ彼の脳内では無数の声がひしめいている。
ありがとう、ありがとう。これでわたしの、わたしたちの望みは果たされた。
これでやっと楽になれる。あの人の元へやっと行ける。会える。
____これから、おそらくまた支配者に自我を乗りとられるモンスターが貴方達の前に立ち塞がるでしょう
どうか、世界を守ってください。我々の望みを叶えてください…
“王の血を引く貴方”なら___
きっとこの世界の未来を、つくることができるでしょう___
デンは彼の体を受け止める。力尽きたぼろぼろの身体を地面に寝かせ、すぐに脈と呼吸を確認し、_デンは心の底から安堵した。
「よかった………ほんとうに…リアン_
やったぞ、勝ったんだ。オレたち…お前は……」
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