第56話



 視界は暗転している。


 何者かの息遣いが聞こえてくる……


 _思い出したくなかった記憶を強制的に思い起こさせた時。


「ヤナギ? どうしたの…?」


 人の心は急速に弱体化する。


「具合悪いの?」


 目の前が赤く染まった。スミレは急いで周りを見渡す。黒煙のようなものが、360度全ての角度から迫ってこちらへ来ていた。


 これが支配者…!

 そうか、この時に兄さんは取り憑かれた……

 ならきっかけは、故郷の思い出…。



「なんだ、これは…」

「ヤナギ、しっかりして!」

「ちかづ…かないでくれ!」


 どんっ、草むらが揺れる音と、キキョウの悲鳴が聞こえた。

 ただ、目の前は真っ暗である。血のような色が、頭上からどろりと落ちてくるように、ヤナギの記憶はどんよりと消えて行く。

 遂には声をも、くぐもった聞き取りにくい音になってしまった。




 __世界をまた……ように元通りにする、……て、し…魔法…使わ…ない……おまえ…力を…りる…。わたしの代わ……スミ…を消…。



 これは支配者の声だ_! スミレは身体を回転させて辺りを見るも、誰もいない。


 女の声だった、それに聞き覚えがある。


 …

 …私を、消せと兄さんに命じた?

 …「白魔法は、使わせない」?

 _「お前の力を借りる」…彼はやはり、操られていた…




 _嫌だ、い……。スミレは、い…うとは、…ろさせない。

 俺が…まもっ………から。ぜった…に、お前の…う通りに…させない。



 …「妹は、殺させない」


 …

 …見えない涙が、スミレの頬を伝った。



 そして、彼女は叫んだ。どなった。泣き叫んだ。


 ___兄さん!!!


 私はここにいる、生きている! あなたが私を守ってくれてたこと、いつも感じてた…知ってたから!

 今まで言えなくてごめんなさい…だから、お願い!


 __戻ってきて!!



 私の前で笑ってくれてたあの時の兄さんに…戻って…!!


 私はいつでも、横に___



 ?!



 支配者の妨害__スミレの声が響かなくなった。


 っ…!! 背景が明るんできたのに!!


 スミレは構わず、声を張る。





 私は、誰よりも兄さんのことを信じている。

 そして、誰よりも。大切に思ってる。


 家族であることが、そこまで大切に思わせる理由なのだろうか。


 生まれた時から共にいた。生きていることが当たり前。兄は兄で、妹は妹で永遠にいることは当たり前。しかしその当たり前は、このように簡単に危機に晒される。その時_晒された時に_本物の大切さを感じるのだ。


 そう、一人だけの家族で、永遠に変わりようのない私の「兄」。もう二度と決裂などしたくない。永遠に兄妹でいたい。その思いは私だけじゃない。ヤナギもそう思っているはずだ。この記憶がそう言っている。




「兄さんは、私の家族でしょ!! 支配者のものになったら、私の家族じゃなくなっちゃうんだよ!」



 …!!



「生きて…私の兄として、生きて…」



 涙が、黒い沼の中に落ちる。






 風の音__外の音だ。

 黒い砂が宙を舞っていた。

 ドラゴンの姿はない。


 スミレはヤナギの意識下から出た。彼女の目の前には目を閉じるヤナギの顔がある。表情は穏やかで、眠っているようだった。寝息が間近で聞こえる。懐かしく、時の経過を忘れてしまいそうな空間だった。スミレは泣きながら、ヤナギの胸に額を埋めた。


「よかった…」



 ヤナギは支配者の強い自我支配から抜け出せたのだ。

 側ではナズが横たわり、キキョウが手を組んで座り込んでいた。彼女は安心した表情で、「ありがとう」とスミレに声をかける。スミレはヤナギの側に座ったまま、頷いた。


「ありがとう、兄さん…_」


「スミレ…」


 ヤナギの声で、スミレは跳ね上がり、起きあがろうとするヤナギの背中を持った。彼は手をつき、上半身を起こす。すると、いきなりスミレの首に腕を巻きつけた。久方ぶりに兄に抱きつかれた妹は、こそばゆそうに笑いながら兄の背中に手を回す。小雨のなかで、兄妹は再会の喜びを分かち合った。



「ただいま、スミレ」

「おかえりなさい…」




 その五十メートル先には、リアンとデンがいた。リアンは気絶したまま、デンはリアンの横で傷の手当てをしている。そう、戦いは終わった。ここは既に戦場ではない。しかし、雨は一向に降り止まない。それどころか雨足は強くなる一方だ。


 __空の上にて、何かが蠢いている。


 それにいち早く気付いたキキョウは、回復したナズの肩に手を置いた。


「ねえナズ、あれ、なに…」





 ♦︎♦︎十五分前





[???にて]


 広がる空間に、石造りの大きな柱が何本か立っている。


 ローブの襟元を掴み、その手を震わせながら、ある魔法使いはそこに佇んでいた。


「わたしの… …」


 彼女の故郷であるこの『大聖堂』は、既に廃墟と化し、今では解体しようという動きがある。光を思わせる純白の床、壁、天井、…中央にそびえる大きな女の像。精巧に掘られたその彫像は、両腕を掲げ、何かを掌に乗せて見せているような姿を見せていた。一方の手は子どもを、そしてもう一方には破壊の道具を。彼女__ミツバは、子どもを乗せた方の手をじっと見つめる。そうすると流れるように、過去の記憶が蘇るのだ。



 …私のマザーは、護る者であり壊す者でもあった。



 今もが働いているということを、



 わたししか知らないという事実_。




「ねえ、マザー…

 あなたなのですか?

 _あなたがこれを始めたと?」


 母なる像に向かい、ミツバは問う。


「_ならばどうして?」


 髪の長い女の像はぴくりとも動かず、二つのものを穏やかに掲げ、少しの微笑みを浮かべたままでいる。


「っ!!」


 ミツバは崩れ落ちた。手を床につき、うずくまる。


「うッ…ぐ、あぁ…!!」


 _白く硬い唇は歪んだままである。


 _きっとあなたの唇は赤かった。

 今わたしの目の前に落ちた、血液よりも。


「い…

 行かなきゃ」


 ミツバは唇に付いた血を拭い、すぐに箒に飛び乗った。


 今すぐ行って、真実を伝えねばならない。

 スミレとリアンに。





 ♦︎♦︎




 急に、風向が変わった。南風は一気に北風、冷たい風へと変化する。そして風速も___不規則な突風がリアン達を襲った。身体ごと飛ばされそうになるほどの勢いをもった風である。


「嵐…?!」


 ヤナギは北の方向に目をやる。その方向は森しか見えなかったが、木々はなぎ倒れんばかりに大きく揺れている。嵐だと思うのも無理はなかった。第一、雨も激しく降っているのである。六人はベラドンナの役所へと一度戻ろうと、一点に集まろうとした。しかし_。


「見て、上!!」


 キキョウの声だ。皆一斉に空を見上げた。たしかに、が、灰の空に浮かんでいる。距離があるので、スミレはその物体の正体を掴めなかった。


「…っ」


 デンが背負っているリアンの上半身が反応する。デンが声を掛けると、リアンはかぶりを振りながら呟いた。


…」

「『来る』?」


 デンが問い直した、その直後。



 それは目に追えないほど早く___落下、

 _ヤナギの頭上まで迫った。



「ッ_」

「危ないっ!」


 スミレの叫び声にて、リアンは目を開けた。


 彼が最初に目にしたのは_


「う…ぐっッ………」


[先見の泉]にて目にした、彼が最も恐れていた光景だった。






「_!! スミレ!!!」


 泥の地面に伏したスミレ。ヤナギは絶叫、ぐたりと動かなくなった彼女の体を起こした。スミレはあの黒い何かを頭に受けた。その瞬刻それは__彼女の中に吸い込まれるように__消え、彼女は倒れた。何一つ状態の分からない一同は唖然と、スミレの様子を伺っていた。ヤナギは夢中で彼女の脈と鼓動を測る。しかし自分の手が震え、何も分からない。リアンはデンの背中から飛び降りると、崩れるように膝を突き、彼女の手首を取った。脈拍を探る。


「乱れてる…。呼吸も荒い、鼓動は不規則、それに…」


 キキョウもしゃがみ込み、スミレの顔を見た。


「……顔色がとても悪い…」


 そして彼女は、自分の両手を組み、祈りを始めた。


 しかし、それは_。


「あれ…?! 魔法が発動しない!」


「クソッ! 分かったぞ、『無効化』だ! この雨の成分が魔法の発動を抑制してるんだ。だから治癒魔法も効かない! やられた…!!」


 デンが思い切り足を踏む。ナズは雨ざらしになっているキキョウの身を守ろうと動いた。が、彼は考える。今までキキョウに話された一つ一つの出来事、ヤナギの変化、そして今…ナズは視線を、空へ向ける。彼の、箒に乗った人影が見えた。


「…!」


 ナズは眉間に皺を作り、空を睨みつける。


 キキョウも空を見上げ、はっと息を吸い込む。彼女は立ち上がり、手を胸の前で組んだ。二人が空からの来訪者を見守るなか、リアンは地面に倒れるスミレの姿に釘付けにされながら、握った拳をがたがたと震わせていた。起こってしまった、絶対にさせまいと思っていたことが。泉の言う通りになってしまった。……回避策は無かったのか?



「…来るぞ!」


 ナズの合図。何者かが地面に降り立った。厚底のブーツ、黒のタイツ、長い足、短い丈の黒スカート、ローブ、長い黒髪を横に流し、燃える赤眼、桜色の唇。


 元・魔法大軍総帥、ストロベリー・レイラー。


「…!!」


 キキョウは急に、片足を引いた。下がった彼女の背中を、ナズは迷わずに支える。続いて、彼は低い声で言った。


「……伝説の、魔法使い」



「こんにちは」


 にこり。レイラーは微笑むと、一同に一歩、近寄った。キキョウの呼吸が乱れ始める。彼女と彼女の間で、何かが共鳴していた。それに勘づいたデンとナズは、それぞれ警戒体制をとる。レイラーは、「あらあら」と戯けたように手を振った。


「そんなに警戒しなさんな、だいじょうぶ、わたしは味方よ! 助けに来たの。スミレさんをね。さっきの黒いものは「そらからの攻撃」。かなり強力な黒魔法よ。ごく稀に大気上から発生する事がある……しばらくの間、わたしのところで療養を」


「待って。どうしてこの方が攻撃を受けたと知っているの?」


 キキョウは身を乗り出し、語気を強めて言い放つ。

 レイラーの動きがほんの一瞬、停止した。しかしすぐに、ニッコリ。艶めいた唇が、暗いこの場にて鈍く光り輝いた。


「…まだ疑っているのね。まあ無理もないか。

 じゃあ、順を追って説明していくわね…___」


 夜が始まる。

 …星と月が見えない夜だ。




 ♦︎




「…この通り、わたしは怪しい魔女ではないわ。驚かせてしまってごめんなさいね」


 レイラーは一同に、これまでに起こった出来事と、スミレ、ミツバとの交流や、この事件に対する自らの働きを説明した。


 簡潔になるとこのように__。




 レイラーはミツバ・マツリカと協力し、ルビーに変わらないモンスターの生態を調べたと言う。それを示した手記には確かに、ミツバの署名、さらには国家の承認印が押されてあった。しかしまだ信じきれないと言うナズやキキョウに、自分はかつて魔法軍の総帥であり、戦線にて主導してきたが、歴史書の通り戦争を終わらせ平和な世を取り戻したのだ、その経験があればきっとこの状況も終わらせられる__と、気圧される勢いで熱弁した。確かに、長命であるものたちが確実に伝えてきたということが正しければ、レイラーは「白」だと言える。

 実のところでは、レイラーの言い分は的を射ているのだ。否定の余地がない。


 しかし、キキョウだけは、理屈のみでは納得がいかない様子だった。



「…歴史では、味方であった王を裏切って戦争を始めた魔女がいたという話があるわ」


 キキョウは緊張した面持ちで続ける。


「王は、モンスターと一般種族が共存できる世界を作るために、魔女に協力を頼み込んでいた。しかし魔女は裏切り者で__その目的や夢を否定し、王を敵に回して宣戦布告をした、と…」


「その魔女がわたし? 面白い冗談を言うのねえ! ありえないわ、その魔女は王によってのよ」


 レイラーは可笑しそうに、口元を押さえて笑った。


「『王は魔法軍を呪い_その魔女を火炙りに、四肢を両断、毒を飲ませ、殺した_』_そうでしょ? いくら恐ろしい魔女でも、そのくらいやられちゃあ、たまったものじゃないわ。よってわたしは別人。総帥に就任したのはそのずっと後よ。ミツバにも聞いてご覧なさい」



 キキョウは言葉に詰まる__その通りなのだ。なにも、彼女の言動に矛盾点はない。だが彼女はまだ食い下がろうと、拳を握り込んだ。


「でも__」

「信じましょう」



 _リアンの一言だ。彼は、動かないスミレを見守りながら、レイラーの顔にきちんと向き合うこともなく、信じようと決めていた。瞳には揺るぎがない。


「スミレから話は聞きました。知り合いなんですよね? 彼女は信頼した人とでしか関係を持ちません。彼女はいいお方だと言っていた__それに、時間がもうない。一刻も早くスミレを救わないと」


 リアンは表をあげる。赤と赤の光が一直線上に交わった。レイラーは「ありがとう」と言うように微笑んだ。


「そう…だけど」

「_信じましょう、キキョウさま。このままでは埒が明かない」


 ナズはキキョウに向かってゆっくり被りを振る。キキョウはまだ釈然としない表情を見せたが、リアンの強い眼差しを前にしては何も言う事がなくなったようだった。



 リアンはスミレを地面から抱き上げると、そのまま淡々とレイラーの方へ引き渡した。レイラーは軽々と彼女の体を持ち上げ、転移魔法の準備を始める。


「ええと_回復の具合次第だけど、スミレさんが回復するまで一ヶ月かかるわ。それまでに、わたしの聖堂で療養させる。それでいいかしら?」


 リアンはうなずいた。レイラーの住処は、北の大陸オリーブの都市にある。スミレからその話は聞いてあった。彼女はそこの聖堂で暮らしているのだ。


「じゃあ、行くわね_」


 レイラーは杖を空に向かって構えた。

 リアンはその彼女に大股で一歩、近寄った。そして驚いた彼女の耳元に口を寄せて__


「スミレに何かしたら、ただでは済まさない」



 __レイラーにだけに向けられた囁き。彼女はそのまま、この場から消えた。

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