第52話

[戦場にて]


 黒魔術師のの魔法の効力が、切れた。


 バリバリバリ!


 結界は爪で引き裂かれ、力尽きた男の身体はがくんと崩れ落ち、彼の姿は即刻に、塵の如くこの場から

 –––––黒魔術師というのは、自身の屍を日下に晒すのを大変嫌うため、死ぬ事を予期した時点で、『ある呪詛』の準備をし、死と同時に大成させ、自らの身体をこの世から消し去る。その呪いとは、なるほど自分の身体を犠牲にしなければ完成しない程の大きな呪いという事であろう。つまりこの戦いにおいてこの魔術師は、このドラゴンが敵であると知ったその時から、自らが犠牲になることをいたのだ。


 そしてその呪いは、デンやリアン、そしてドラゴンでさえも気付かぬうちに、始まった。


 デンは全力で走る。結界を破ったドラゴンは、すぐにでも追いつかんとしていた。


「くっ…!」


 デンは地面を蹴り、速度向上を図るも、そもそも空中型のドラゴンには戯れにしかならない。長い尾は二人を囲み、鱗は迫り来た。二人を締め殺さんとするしなやかな尾。真上に飛ぼうにも、戸愚呂の様に巻かれ逃げ道が塞がれている。


 デンは思わず瞳を閉じてしまった。

 –––繋げないのか、オレは…!



 今まで諦めるという概念を知らなかった、プラチナ級の冒険者。


 負け知らずという功績、また新たな挑戦に向かえるという希望。それらすべて、この一瞬にて潰されてしまうのか。


 もはや自分の力では、この現状を打破することはできない。


 出来る者は。


 この、“何かが違う”二人、彼らだけなのだと、

 デンは本能的に理解していた。



「リアン…!! なにか、なにか! やれないか_!」


 時間はもう、三秒とない。


 鋼の盾の様な硬い鱗に潰されれば、二人は助からない。


 デンの声を聞いた時、リアンはそれまで彷徨っていた混沌の領域から外れた。自意識がはっきりと、鮮明に目の前に現れたのだ。これまで渦を巻いていた怒りや悲しみ、虚しさが一つになって彼の心に集結し、固まった。

 終われない、このままで、終われるはずがない。

 これまでに授かった多くの可能性を蔑ろにしたままで、人生は終われない。

 それらを完成させて初めて、価値が見出せるんだ。


 だからまだ、動ける。

 動け、動け、動け__‼︎‼︎‼︎


 リアンの瞳孔がかっと開けた。それまで力なく揺れていた足は地面をしっかり踏み付け、重い剣の柄を握りしめて佇んでいる。ヘアゴムの解けた金色の髪。加速する旋風__彼は多くの傷を負ってもなお、立った。


 そして__刹那。


『ッッ?!?!』


 バチッという、ガラスが割れ弾けるような音が同心円状に広がる。その音は気を失うスミレの耳に届いた。彼女の身体がびくんと跳ねた。彼女は歯を噛み合わせ、ぎりぎりと軋ませていた。彼女もまた混沌の中にいた。


 リアンは戦っている…__



「…!!」


 ドラゴンの尾は両断されていた。先程の音は鱗が割れる音だったのだ。旋風は止み、ドラゴンの苦しげな息遣いが当たりを満たす。


『グ…アアッ…よクもォ…よくもッ!!!』


 その息遣いは怒りの咆哮に様変わりする。切断された尾の部分は力を無くし、頭部はより鮮やかさを増してぎらつき始める。燃えるような赤に、太陽の光のような橙に、深海のような深い青に。天に向かって憎悪の叫びが繰り返され、渦の中からやっと抜け出した二人は、空気をも痺れさせるそれに、耳を壊されてしまう。


 –––リアンは全く音が聞こえなくなってしまった。二人で飛躍する最中デンは彼に何か話しかけたが、何も分からずじまいで空中に投げ出された。


 なすすべなく地面に転がったリアンは、受け身をとりながらも血を吐き出した。


「…うっ…!」


 揺れる視界のすぐ先に、スミレがいた。

 彼は肘で身体を支え、髪に隠れ顔が見えない彼女の方へ近寄る。


「起きて…ください、聞こえ––ますか、スミレ––––」


 声がうまく出ない。そして自分が発する声が聞こえない…。なにか呼びかけようと試みるたびに喉の奥が詰まって、代わりにに血反吐でむせ返ってしまう。



 起きてください。

 あと少しのはずなんです。


 でも、もう二人も犠牲になってしまった。

 あなたはまだ動けるはずですから。

 ヤナギさんの分まで…



 リアンの目に、スミレの腰のベルトに括り付けられた酒瓶が映る。

 彼は意のままに、それに手を伸ばした__。


「… ……」


 瓶の蓋を開けると、清涼感のある香りがふわりと漂った。その中に、まるで隠し味のように感じる甘い香り__ミツバ・マツリカの亜麻色の髪から発せられる魔性の匂いだった。極限状態で嗅覚が衰えたリアンにも理解できた__この酒をスミレに与えたのはミツバさんなのだと。


 木の幹に寄りかかりぐったり項垂れるスミレに更に近づき、リアンは酒瓶の縁を彼女の唇に押し当てた。


 頭の中でもう一度あの光景を思い出す。

 スミレが倒れた冒険者に、ポーションの液を飲ませるその姿を。

 そのまま瓶を傾けてしまえば、液体は上手く口の中を入ってゆかない。まずは頭を支え、口の中に入る状態にしてから少しずつ傾けていく。

 あの時目に焼き付けた手順を用いて、リアンは少量ずつ酒を彼女の口に流し込んだ。喉が動く。スミレは目を閉じたまま眉を顰め、ぐっと身体に力が入った。


「……う…」


 瞼が一瞬痙攣し、睫毛が震える。そしてそのまま、は_開かれた。


 リアンは驚きのあまり、目を見開く。

 スミレの身体の火照り。尋常では無いほどに体温は上昇している。顔色には何一つ変化がないが、彼女の身体を支えているリアンの手のひらからにも伝わってくる様な熱が、スミレから発せられていたのだ。


 ワンカップの酒瓶は早くも半分の量を切り、ほぼ全て飲み干さんとしている。


「スミレ……?」


 リアンが声をかけたと同時に、スミレの腕が動き出した。

 スミレは酒瓶をぐわしと握りしめていた。そのままリアンが酒瓶を放すと、彼女は自分の意思でそれを飲み始める。ぐっと瞳を閉じ、まるで自棄酒に興じている様な風貌。リアンは呆気に取られ、その様子を見つめていた。


「…ぷは」


 スミレは空になった酒瓶を、ベルトに引っ掛ける。透明な瓶から、水色の液体がぽたりと滴った。

 からん、とそれは揺れ__スミレは消えた。


 すぐにそれを察したリアンも、彼女を追う。


 しかし__追いつけない。

 酒の力で「目覚めた」スミレは、もはや誰にも止められないようだ。


 赤い髪を乱して高速移動するスミレの背中からは、不適に微笑むミツバを連想させた。



『ア ア アァァァ……!!!』


 半分になってもなお、猛攻を続けるドラゴン。木々は薙ぎ倒され、草の生い茂る地面は凹凸だらけの荒野と化し、あちこちでは竜巻が渦を巻きスミレたちの行手を阻む。


 __白木の矢が、雨の様に降り注いだ。


 リアンは遠くへ吹き飛ばされてしまったデンを探しながら、付近に湧くモンスターらを次々となぎ倒していった。半身を振り回すドラゴンの身体には青色の炎がまとわり付いており、奇妙な魔力を発している。

 両断されてもなお巨大である『それ』は、悶えるように暴れていた。それをスミレとリアンとで牽制しなくてはならない。デンが戻るまでは。スミレの「目覚め」にはタイムリミットが存在する。もちろんリアンのこの特別な状態も、既に効力は薄れていた。完全に切れてしまえば、体力は完全に空になり、今度こそ倒れてしまうだろう。


 ––––いや、もう死んでもおかしくないだろう––


 ––と、戦場から遠く離れた森にて、リアンはデンの姿を見つけることができた。


 デンの巨躯は、樹木の太い枝に辛うじて支えられており、彼は気絶していた。高くそびえる木々に命が守られたのであろう。リアンは飛んで、彼が横たえる枝に近づいた。


 時間がないので、先ほどよりも乱雑な手つきでポーションを飲ませていく。祭りの際、ナズに教えられたポーションだ。手のひらに塗り込み、剣に魔力を注入する–––「もう一つの使い方」により技の威力が上がるという。残った二本の瓶を見て、リアンはごくりと唾を飲み込んだ。


 –––今が、その時?



 迷ってる暇はない。リアンの手には既に瓶が握られている。彼は蓋を取り、半分飲み干し––残った液体を手袋を外した右手のひらの上にぶちまけた。


 どくんっ–––


 明らかに心臓の鼓動が狂い始めるのが分かる。右手を柄に押し込むように握り、彼はもう一度、その瞳を濃い紅色に染め上げた。



 枝から、若い剣士が飛び立つ音で目覚めたデンは、草枝の隙間から木漏れ日と共に見えた弟子の姿に、思わず呼吸を忘れた。


「…?!」


 姿はいつもと変わらぬ青年である。


 ただ変わってしまったのは。

 その瞳と、銀剣の色が同化している。


「ッ…おいリアン! リアン!!」


 デンの呼びかけにも、ドラゴンの咆哮にすら応えない。ただただ暴徒化したドラゴンのみを見据え、––––


 本当の彼というものが、目覚めた瞬間だった。








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