第16話
[ビーンズ・バラ高原・見晴らしのいい丘の上にて]
ここ、バラ高原には、スミレの大好物が生産されている。
「雪月花」––––––甘みの強い焼酎である。和洋折衷な雰囲気の瓶には、墨字で描かれた雪月花の文字と、バラのつたを赤色の絵の具で描いてある。最強の弓戦士スミレは、成人して間もないころ、この焼酎に一目惚れしたという。
そんな彼女は、頰を少しだけ朱に染めて、カップを仰いでいた。ビーンズの煉瓦街や美しい海が一望できる丘には、「雪月花」を生産する酒蔵と、試飲や購入ができる店があった。〈一番星冒険者〉スミレは店員たちから手厚いもてなしを受け、無料で、普通の試飲量より二倍多い焼酎の水割りを貰っていた。
彼女は丁寧にカップを掌で包み、ゆっくりと、「雪月花」の奥深い甘味と苦味を感じた。ホワイト区の居酒屋で飲むそれより、作りたてのものがよほど深みが出ている––––スミレは自然と笑みをこぼす。
「…さん、スミレさん!」
「…ッ!」
真横から名前を叫ばれたものだから、スミレは盛大に驚いた。突如、モンスターに背後を取られたかのように飛び上がり、身を戦慄させた。
目を剥く彼女に、真横に座る少女はクスクス笑った。
「ごめんなさい、驚かせちゃって…。あの、これ、父が持っていけと」
鶯色の短髪を無理やりツインテールに結んだ少女は、透明の液体がなみなみと注がれた紙コップをすっと差し出して、スミレの顔色を上目遣いで伺った。
「え。いえ、何から何まで悪いです。それに、さすがにここまで飲みすぎたら……ひっく」
スミレはビクンと肩を弾ませる。少女は華奢な肩を震わせてけたけたと声を出した。
「そう思うって思ってました! これは水ですよ」
「あっ。えーと、ごめんなさい、いただきます」
十も満たない小さな少女は「うふふ」と愉快そうに笑いながら紙コップを手渡すと、地面に届かない足をぶんぶん縦に振りながら空を仰いだ。
「ねぇ、あの––––スミレさんって、どこまで強いんですか?」
「………」
その純粋な瞳で、素朴な、しかし奥深くまで貫いてくる質問をぶつける子供とは、大したものだ。全く、頭が下がる––––。スミレは考える。
「えっと、ですね。一応世間では〈一番星冒険者〉という肩書きがついていて。冒険者には、銅、銀、金、プラチナ、ダイヤモンドと、ランクが付けられていまして。私はそのダイヤモンド級なんです」
「へぇー! すっごい人なんですね!」
子供から純粋すぎる眼差しを向けられて、スミレは恥ずかしさともどかしさで思わずそっぽを向いてしまった。彼女は若干、子供嫌いの傾向にある。何故なら、その純粋な瞳と、素直な心を武器として誰にも負けないような生物だからだ。…が、ここまで人に褒められて悪い気を起こす者はいない。
キラキラとオレンジ色に光る澄んだ瞳を見ていると、スミレは水割りで冷えた体が少しずつ芯から温まって、全身に広がっていく感情を覚えた。すぐ隣に座っている小さな存在が、たしかに彼女の冷えた心を癒していた。そうだ––––。私は酒に深みに溺れて、こんな風に癒されることを望んでここに来たのだ。辛さも何も忘れて、後悔もせずにゆっくりと過ごせるのだから。
では何故。私は冒険者を続けているのだろう。
最初は憧れだった。〈一番星冒険者〉達の背中をただ追い続けた。それから、念願の〈一番星冒険者〉になって、仲間を失った。続ける意味をなくしたのに、私は何故……。
スミレは紙コップを傾ける手を止め、静かに物思いに耽る。その横顔を、少女は心配そうに見守った。それでも、声をかけることはしなかった。空気を察したのだ–––––彼女が纏う、異様な『殺気』を。
少女は逃げ出そうとする足を必死で止めた。ここにいたい。少女の瞳はそう言っている。
光が戻りかけていた山吹色の瞳に、フッと影がさした。
[名も無き国・ワンダーキャニオンの小さな民宿にて」
––––––その瞳は…––––己を見失っているんだな、リアンよ。自分は冒険者の才能がないって?
そりゃ、そうだろうね。ゴブリン相手にこんな大怪我して、おまけに瞳に影を入れちまってる。随分落ちぶれたものだよ。
…––––うる、さい。お前なんかに俺の何がわかるっていうんだ。
リアンは心の中でその罵倒を反芻した。
––––デンは無視して続けた。
冒険者を続けるか否かはお前の勝手。俺様が気にすることじゃない。でも、そんなにしょっちゅう自分の意思を曲げてるようじゃあ、人生もたんぞ。俺様が言うんだから当然さ、なにせプラチナ級の…
デンの熱弁が続く中、朦朧とした意識の中で、リアンは何かを必死で思い描いていた。
それは、スミレの姿だった。
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