小さくちぎった物語

ドリルリーゼント

少女空中離脱




少女空中離脱








(ああ、しんどい)


高校の夏服を纏った少女は心で愚痴る。

登り登って九十七階。並び立つ摩天楼となっているマンションの屋上へと続く階段に、少女はいた。


(あと三階分か。もう足パンパン)


ゆっくりと動いていた足を止めて階段に腰掛ける。足を軽く揉んでいると、スカートのポケットが小刻みに揺れていることに気づいた。手を突っ込むと、そこにあることすら忘れていたスマホがバイブレーションで着信を伝えていた。画面には『母』の文字。


「もしもし」


『あんた何やってんの! 門限は五時って言ったでしょう! 』


「ああ……ごめん。もういくから」


『今すぐ帰ってきなさい! いいわね! 』


ブツリと切られてしまった彼女は、スマホの画面を見る。


「やんなっちゃう」


少女は束の間の休憩を止めて立ち上がる。

階段を疲れた足取りで登って行く。それもそのはずだ。少女は階数にして九十七階分の階段を登っているのだ。

ここは大阪の梅田を少し外れた住宅街。六十年ほど前に起こった『東京崩落』によって、日本における経済、政治などの都市機能の中枢は大阪に移った。それに伴って大阪の人口が爆発的に増加。人で溢れかえった大阪には、法改正も相俟って百階を超えるマンションが並び立ち、第二のアジアンカオスと呼ばれるほどになっていた。

少女はそのうちの一つ、名前も知らないマンションの非常階段を登っていた。エレベーターを使おうと思ったのだが、なぜか待てども待てども来なかったので、仕方なく階段を登ることにしたのだ。

非常階段を登ることは体力的に辛い部分もあったが、今の少女に体の疲れなど意に返さない精神状態にあったことは確かだろう。一心不乱に階段を登る。無我夢中と言うやつだ。

九十八と、階番号が見える。ふらりふらりと力なく腕が垂れ下がる。

虚ろな目で足を動かし、九十九の番号が見え、後少しだ、と呟く。

ゆらりゆらりと階段を登り百階にたどり着く。

安っぽいドアの取っ手に手をかけ、捻る。手前に引いたが、開かなかったので、奥に押すとそれは開いた。

屋上に出ると温いような涼しいような風が吹く。バタン、とドアが閉まった。風に背中を押されるように前へと進み、端にある手すりから下を見る。落ちれば確実に死ねる高さ。後ろからは顔の半分を地平線に埋めた紅い太陽が笑っている。


「おや、奇遇だね」


不意の声に少女は振り返った。屋上への扉がついた壁にもたれかかって、ボロボロの少年が白髪の幼女を抱き抱え、座っていた。


「君は、ええっと……里見さとみ君だっけ」


逆光で視界の悪い中、少年の顔を捉えて名前を呼ぶ。


「クラスメイトの名前くらいは覚えておいてくれよ。そうだよ。里見だ。僕は里見さとみ喰羽くらはだ。いやあ、それにしても本当に奇遇だね、ええっと……」


間坂部まさかべりんよ。里見君も大概じゃない」


「あっはっは。ごめんごめん。ちょっと疲れててさ。頭が回らないんだ」


興味なさげに、ふーん、と凛が返すと、里見は、少し話さないかい、と聞いてきた。凛は断る理由がないと、少年らに近づく。

ポタリと落ちる。

それに気づくのにあまり時間は必要ではなかった。夕日で目の眩んだ状態では分かりにくかっただけで、近づいて壁の影に入ると否が応でもそれに気づく。


「里見君、腕が」


少年が幼女を抱き抱える右腕とは逆。左腕の肘から先が、なかった。


「ああ、気にしないでくれ。失敗とけじめと、矜持と業の成れ果てさ」


自嘲気味に里見が笑う。凛は驚くほど素直にそれを受け入れ、隣に腰かけた。


「それに、君も大概じゃないか。よくその格好でここまでこれたものだ」


「私? 」


凛が自分の服を見下ろすと、高校の白い夏服は血みどろだった。こんな格好で外を出歩けば確実に通報される。それなのに凛は誰にも気づかれることなく、この屋上までやってきた。

不思議だった。


「これはやばいわね。なんで通報されなかったのかしら」


「気付かなかったと言うよりは、気付けなかった……いいや、詮索はやめよう、過ぎたことだ。ここでの会話に相応しくない。そうだなあ、話題を提供しよう。君は何故ここに来たんだい? 」


「私は、花火を見ようと思って」


「花火だって? それは奇遇だね。僕もそうなんだ。こいつに見せてやりたくてね」


里見は抱き抱える幼女の頭を撫でる。恋人に触れる様に優しく。優しく。


「名前はなんて言うの? 」


「クレハ。紅の葉と書いて紅葉」


「綺麗な名前ね」


「へへ、ありがとう」


「え? 」


「いいや、なんでもないよ」


「……ねえ、里見君」


凛が、まるで告白でもするような重みのある口調で切り出した。しかし里見は飄々とそれに、なんだい、と返す。


「突飛な話題なんだけど、死後の世界ってあるのかな」


「本当に突飛だね。と言うか唐突だね。うーん……死後の世界か」


里見は小さな笑みを崩さず、考える様に空を見る。残った右手で幼女の頭を撫でながら。


「僕は、あってほしい、かな」


「へえ。少し意外だわ。あなたはその辺、冷めていると思っていたから」


「僕は意外にロマンチストなのさ」


おちゃらけた言い方に凛はクスリと笑った。


「天国や地獄があった方が、僕は救われるなー。死後の世界なんてなくて、待ってるのは眠るような虚無なんて、ほんと、ロマンチックじゃあない。僕は地獄に落ちて、僕でいたい。間坂部さんは? 」


「んー……」


「なんだ、自分でも定かじゃないの? 」


「うん。……そうだなぁ、私はどちらかと言うと、死後の世界はない方が救われる」


「あらら、僕も意外だ。君は死後の世界を望むと思っていたからね」


「どうして? 」


「この話を切り出すんだから、肯定派だと思うじゃないか」


確かにそうかな、と凛は空を見ながら考える。少しの沈黙が挟まって、里見が言う。


「次は僕だね。好きな食べ物は? 」


「ふふ、何それ」


「お互い殆ど初めましてなんだから、これくらいの幼稚な質問くらい許してくれよ。僕はお茶漬けかな。スーパーで売ってるようなお茶漬けの素なら尚良しだ」


「私はキムチ」


「あっはっは。君も君で斜め上を行くね」




そうして二人は他愛のない会話を続けた。

好きな色は何か。どんなテレビを見るのか。好みの異性はどんな人か。休日はどのように過ごすのか。得意な教科はなにか。苦手な教科は何か。子供らしく、幼稚で、他愛ない事。

流れた時はもう夜に染まっていた。笑う太陽ももう死んでいる。

スマートフォンがバイブレーションで着信を知らせる。画面には『母』の文字。


「……出ないのかい? 」


「ええ。ねえ、里見君」


「どうしたんだい? 」


「私、人、殺したの」


「そりゃまたなんで」


「私の名前覚えてないくらいだから知らないと思うけど、私、いじめられてたの」


「高校で? 」


「うん。でね、一昨日、変な人に会ったの。その人、私に何かしたんだけど、何されたのかは覚えてなくて」


「それで? 」


「それでね。私、さっきいじめてた人たちを、殺したの」


「ははあ、君のはその返り血か。また派手にやったね。手を見せて」


凛の告白にも動じず里見は言う。凛は里見に従い手を差し出す。


「手の具合から観るに、撲殺、刺殺……あと絞殺かな。人数は三人。それぞれ違った殺り方なんだね」


「あたり。すごいね」


「これでも傍観者だからね」


「何それ。でも本当にすごい。過去を見てきたみたい」


「過去なんて分からないさ。僕は現在にしか生きられない、らしいから。で、なんでそんなこと急に言おうと思ったのさ」


「ふふっ。まあ、なんて言うか、里見君は他の人と違うから。なんだろう。その……別の世界にいるみたいだから、かな」


「あっはっは。僕はこの世界にしかいないさ。まあ、そうだね。僕は普通じゃない。それで…………ここに? 」


「うん。……私、もう疲れちゃったな、って」


「酔狂だね。でもまあ。花火を最後にするなんて良いセンスしてる」


「そんなことないわ。私も本当、嫌味な女よね」


「いいや、僕はそうは思わない」


「本当に言ってるの? 」


「ああ本当さ。夏を楽しむ、君と直接は関わっていなくとも、君を知る全員の記憶に残るいい選択だ」


「あなた、歪んでるわね。ふふっ」


バイブレーションが止まると、凛はスマートフォンをマンションの外へと投げた。スマートフォンは弧を描いて下へと吸い込まれてゆく。


「あーらら。下に人いたら死んじゃうかも」


「構うもんですか」


二人で笑い合う。一時間にも満たない短い時間で、凛は既に満たされていた。嘘かもしれない会話が、不感症のように笑い合う時間が、凛にはとても心地よかったのだ。

花火が打ち上がる。

赤い光。

白い光。

緑の光。

溶け合い、混ざり合い、光が合わさって美しくなる。


「紅葉ちゃん起こさなくていいの? 」


「まだいいさ。始まったばかりだし。君を見送ったら起こすことにする」


「……うん。ありがと」


凛は立ち上がり端に向かって歩く。手すりに手をかけて、遠くの花火を目に焼き付ける。

ヒュルリヒュルリと鳴って、大きな破裂音と共に絶景が現れる。


「ああ、綺麗」


ほんの数秒、それを見て、見て、みて、焼き付けて、目を閉じる。


「もう行くのかい? 」


「うん。いろいろありがと」


「僕は何もしてないさ。ねえ、本当に最後の最後。そんなことをする理由を教えてくれるかな? 」


「理由、ね。人殺しちゃったし、疲れたし、理由にできそうなものはいろいろあるけど、そうね……余分な修飾を取っ払うと、そうね。満足したから、かしら」


「あっはっはっは。君も相当な捻くれ者だ」


凛は微笑んだ。


「じゃあ、ばいばい。里見君で良かった」


「僕は傍観者だ。見届け人にこれ以上の役は居ないよ」


凛は手すりを超えて端に立つ。


「間阪部さん」


凛は振り返る。


「いい旅を」


笑う。


「ふふ」


笑う。


「ふふは」


笑う。


「あはははははは」


間違いなく人生一番、楽しそうに、幸せそうに。

里見は何も言わない。ただ幼女を抱きしめ、それを見続ける。


「あなたも大概、意地悪ね」


落ちる笑う

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小さくちぎった物語 ドリルリーゼント @yamaimo

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