第147話 開花宣言
女神セレスは百数十年ぶりに自宅を出る。
まだ雪が少し残っているが、既に陽気は戻ってきている。
乱れた桃色の髪をとかし整え後ろで結んだセレスは、蝶の羽を羽ばたかせて空に飛ぶ。昔は外に出る度に浮かれていたその表情は今日はどことなく暗い。
時は少し遡り。
百数十年ぶりに訪れた暖かい日。
久方振りにセレスは先輩であり上司である女神シュンプと通話した。
先に
『おお。久し振りじゃな、セレス。お前も目覚めたか。』
「お久し振りです、シュンプ様。」
警戒は杞憂であった。穏やかな大人びた女性の声が返ってくる。
『わしら春の神には災難じゃったのう。まさか、大地が凍り付くとは。』
「私もついさっき起きて知りましたよ。びっくりしました。」
『ふはは。わしもつい最近起きてびっくりしたわ。
「私も同じです。」
どうやらシュンプも最近目覚めたらしい。
厳しい先輩のシュンプでさえもその調子なので、本当に大地が凍り付いている間は春の女神達は眠りについているのだろう。
セレスが自分だけが寝坊した訳ではない事を安心していると、通話先で訝しむように「うーむ。」と唸る声がした。
『どうした? いやに声が暗いが。』
「え?」
『前はもっと暢気な声だったかと思うたが、わしが久し振りすぎてぼけてるのかの。』
どうやら声に元気がない事をシュンプは感じ取ったらしい。
指摘されてセレスも初めて気付く。
セレスはその理由に薄々自分で気付いている。しかし、それをシュンプに言うつもりもない。言っても仕方が無い。
そう思って口を噤んでいると、通話先からふぅと抜ける様な息づかいが聞こえた。
『……まぁ、お前は特別仲が良かったからのう。』
何の話か、聞くまでもなかった。セレスの心当たりが勝手に答えを出した。
百数十年の時を経て目覚めたセレスが意気消沈している理由、世界が永遠の冬に包まれた理由。
かつて大地の神々と人々との架け橋になっていた巫女の消失。
セレスが親友のように、姉妹のように接していた巫女が既にこの時代にはいないという事実が、セレスを意気消沈させている事にシュンプも気付いたのだ。
どことなく気付いた様子のシュンプの声のトーンも低くなる。
『……残念じゃが、巫女も人。別れの日がいつか来るのは仕方が無い。あまりにも突然だったというだけじゃ。』
「……分かってます。」
セレスも分かってはいる。
永遠に近い時を生きる神よりも、人は必ず先に逝ってしまう。
姉妹のように親しんでいた巫女ともいずれは別れを迎える事は理解していた。
しかし、こんな形で、死に目にも会えずに、気付いたら居なくなっているとは思わなかっただけだ。
仕方の無い事だ。しかし、整理が付かない。
そんなやりきれない気持ちに言葉を濁していると、通話先でふぅと息を吐く音が聞こえた。
『わしは既に"飛び回った"ぞ。お前の仕事もそろそろじゃ。』
「はい。」
ふふ、と通話先で少し微笑むような微かな笑い声が聞こえた。
『当代の巫女は、今は丁度カムイ山の泉の元にいるようじゃぞ。都合が良いのではないか。』
シュンプが言うカムイ山の泉は、丁度セレスが女神の仕事として通る場所である。
セレスはその仕事の都合上、巫女とも会わなければならない。
二つの目的が一堂に会するのは非常に都合の良い状況ではある。
『すぐに行かないと移動してしまうぞ。ほれ、早めに行ってみてはどうじゃ。』
気乗りしないセレスであったが、流石にそんな状況を聞くと少しは急いだ方がいいかという気持ちになってくる。それはそれとして、セレスは通話先のシュンプがやけに急かしてきているような声色に感じた。
「はい。じゃあいきますよ。」
『うむ。それじゃ切るぞ。』
シュンプはそそくさと通話を切ってしまう。とっとといけという事だろう。
そんな急かす声色に疑問を感じたが、セレスはシュンプの思惑に乗り、早速外出することにしたのだ。
蝶の羽を広げ、女神セレスは空を飛ぶ。
暖かい陽気の中を軽やかに舞う姿とは裏原に、その表情は浮かない。
空を飛び辿り着くのはカムイ山。
その中にある神の住まう泉の元に降りようとセレスは山に接近する。
山に近付くに連れて、周囲が妙に静かな事に気付く。
音の異変にまず気付けば、続いて山の周囲に鳥や虫が少ない事に遅れて気付く。
暖かくなって生命に満ち溢れているであろう世界の中で、妙な静寂がそこにあった。
そして、山にある程度近付いたセレスの耳にそれは入った。
ゆぅら、ゆるりら、ゆぅり、ゆら。
ふぅら、ふるりら、ふるり、ふぅら。
セレスの心臓がどくんと脈打つ。
一瞬で頭の中には眠りにつく前の景色がフラッシュバックした。
聞こえたのは歌声。懐かしい歌声。大好きだったあの歌声。
夢でも見ているのだろうかと思った。それとも、百年以上眠ってしまったあれが夢だったのであろうか。
嬉しい筈の現実に戸惑う。何が夢で何が現実なのか。
頭の中をぐるぐると掻き回しながら、しかしセレスの羽は先程前よりも更に早く羽ばたいていた。
山に近付くに連れて歌声ははっきりと大きく聞こえてくる。
声が聞こえるにつれてよりこれが現実なのだと実感できてくる。
山の木々の上に鳥や虫達が集まっていた。山の周囲が静まり返っていたのは、動物達がその歌に惹き寄せられ、歌に静かに聴き入っているからだったのだ。
木々を掻き分け泉の元にふわりと舞い降りる。
そこには見覚えのある神々や、見た事のない神々が椅子に座ってうっとりとした表情を見せていた。
そして、その中心で、ひらりふわりと舞い踊る、花びらのような、蝶のような、美しい少女がいることに気付く。
歌の主は少女であった。少女は舞い踊りながら歌を歌う。
顔を見た。舞いを見た。歌声を聞いた。
そして、漂う暖かい空気を感じた。
それら全てがまるで昨日の事のように覚えている、彼女と瓜二つであった。
舞い降りたセレスに、歌い踊る少女が気付く。
きょとんとした様子でいる少女の顔を見て、セレスは目を見開いて固まってしまった。
彼女に似ている。しかし、別人だと気付く。
彼女が当代の巫女だと気付くのにそう時間は掛からなかった。
これは夢ではない現実。
「……あの、初めまして、ですよね?」
巫女が恐る恐る尋ねてくる。やはり目の前にいるのは彼女ではないと気付く。
言葉が見つからずセレスが立ち尽くす。
そんなセレスの顔を見て、巫女は少し不思議そうな顔をしたが、すぐにその表情はぱっと明るくなった。
「初めまして。勇者で巫女のハルです。」
そう言って向けられた笑顔はとても暖かく……。
彼女ではないと分かっているのに、セレスは彼女の事を思いだした。
似ている。歌も踊りも顔も空気もその暖かい笑顔も。
目の前にいるのは彼女ではない。
しかし、確かに彼女がそこに息づいているのだと、引き継がれてきたのだと、セレスは心の奥底で実感した。
乾きかけていた心から何かが込み上げてくる。
目元からどうしようもなく涙が溢れてくる。
それを見た巫女―――ハルは心配そうな顔をしてすっと歩み寄ってくる。
「大丈夫で……。」
ぎゅっ。ハルの言葉は遮られる。
歩み寄ったハルの身体は、女神セレスの腕にぎゅっと抱き締められていた。
ハルは驚いた顔をしたが、身体にしがみつく細い腕の震えを感じ、優しくそっと微笑んだ。そして、包み込む様に抱き返す。
それ以上は何も言わない。身を委ねてくる見知らぬ女神を、ハルはそっと受け止めた。
しばらくその身を任せれば、やがて震えていた女神の身体は落ち着いてくる。
ハルの胸元に顔を埋めながら、女神はぼそりと呟いた。
「……私は"桜の女神"、名はセレス。」
「……サクラ?」
すっとハルの胸元から顔を離す。ハルから離れようとする女神セレスの動きに気付いて、ハルはふっと腕を放す。
泣き腫らした赤い顔で、蝶の羽の桃色の髪の女神は、にっと笑ってハルの顔を見上げる。
「はじめまして、おひさしぶり。当代の巫女ハル。桜の女神が桜の開花をお伝えするわ。」
"桜の女神"セレスは、百数十年振りに桜の開花を告げに来た。
次の瞬間、雪の降り止んだ山にぱぁっと桃色の雪が降り始めた。
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