外伝第19話 五分の魂




 虫の王は気付いてしまった。

 死の王が既にその存在に気付いてしまっている事に。

 そして、それを手に入れる為に手を打ち始めている事に。


 本来であれば、直に離れる世界のこと。

 放って置いたところで何の問題もない。

 既にこの世界を愛する気持ちはとうの昔に忘れ去り、むしろ暖かさを忘れたこの世界を嫌ってさえいた。


 ただ、思いだしてしまったのだ。

 かつて愛した人の笑顔を。

 それを思い出させたのは、あの人の血を引く娘だった。




 人知れず繰り広げられた死の王と虫の王の争い。

 死体を食い尽くす虫の王は、死体を操る死の王に有利な筈だった。

 しかし、死の王はその不利を覆すために周到に策を練っていた。

 虫の王を調べ上げ、虫の王に勝つ策を練り上げ、虫の王に負けない戦力を着々と溜め込み、虫の王との対峙に向けて備えていた。

 虫の王と死の王の勝敗を分けたのは、底知れない人間の悪意であった。

 



 虫の王の秘密。

 虫の王はひとつの小さな個体であり、虫の王と思われている群体はあくまで彼がコントロールする眷属達が集まった偽りの姿に過ぎない。

 故に、いくら大打撃を受けようと、虫の王本体が生きている限りは滅びない。

 大量の虫の群れから一個体を撃破する事はおろか、見つけ出す事は限り無く困難である。それは雪原から一欠片の雪を探すが如き難関である。

 虫の知らせともいうべき危機察知能力を持ち、普段は眷属のみで姿を現すが故に、更に討伐は困難。それが三厄災と呼ばれる虫の王の厄介さであった。


 死の王はその秘密を暴いていた。

 故に真正面から戦うことを避けた。

 彼は人間が作り出した、虫を殺すための毒をばらまいた。

 毒は虫から虫へ感染して、群れをなす虫の王の眷属達を蝕んでいった。

 群れることで形を成す……虫の王のそんな特性を死の王は利用し、直接本体を倒すのではなく、虫から虫へと伝染する形で、群れを利用して虫の王に害を成そうとしたのだ。


 毒はかつてその強力さ故に使用を禁じられたものだった。

 それは虫だけでなく、多くの生き物や周囲の自然さえも蝕み死に至らせる禁忌であった。

 しかし、そんな被害を死の王はそんな事は厭わない。

 何故なら、彼にとって死は忌み嫌うどころか愛し欲するものだから。

 彼にとって、この世界が死に絶える事は喜びでしかない。


 虫の王まで毒が伝染するのにそう時間は掛からなかった。

 虫の王も毒に気付かない訳ではない。

 虫達を守る為に生まれた彼に、毒に蝕まれて死に行く眷属達を見捨てる選択肢がなかっただけだ。


 虫の王は手足となる眷属達を切り離した。

 それは虫の王が、死の王に勝つ手段を失った事を意味していた。


 せめて、残る眷属達を救う為、虫の王は一か八か自身の身で死の王に戦いを挑んだ。

 しかし、虫の王には死の王の秘密は暴けなかった。


 死の王が虫の王に不利であったのはあくまで群としてである。

 死の軍勢は虫の軍勢に食い尽くされ、死の王は一方的に損害を受けてしまうというだけの話。

 死の王という一個体は、虫の王という一個体に滅ぼせる存在ではなかった。





 虫の王もまた毒を受けた。もう助からない致命傷となる毒だ。

 虫の王は毒に蝕まれた残った眷属達を率いて、とある場所を目指す事にした。


 あの娘にもう一度会いたい。


 心の中で本能が囁く。しかし、虫の王の理性がそれを踏み止まらせる。

 あの娘のいるこの世界を守る為に、先に会うべき者がいる。


 虫の王は、魔の王の元へと向かった。

 魔の王が抱える破滅の根源……人々の怨念の抱える危険性を伝える為に。

 人々の怨念を支配する死の王の危険性を伝える為に。


 そして、虫の王はを魔の王に託した。


 時間が無かった為に、細かい説明を省いた最低限の助言に留まったが、きっと解き明かせるだろうと信じて。


 必要な仕事は全て終えた。

 後は終わりを迎える時を待つだけ。

 残った眷属を支配下から解放し、最期の自由を与えた。

 一匹の虫に戻った虫の王は、最期の時を迎えるためにあの場所へと向かった。


 ふらふらと最後の力を振り絞って飛ぶ。

 目指す先はカムイ山の泉。

 あの娘と出会った場所。


 もう声を発する事もできない。虫の王の声は、無数の眷属を寄せ集め、羽音を震わせる事で出していたものだ。

 たった一匹の虫となった今、虫の王はそこらにいる虫と変わらぬ喋ることもできぬか弱い存在に成り下がった。


 たとえ泉に辿り着こうと、娘に会えるとは限らない。

 たとえ娘に会えたとしても、ただの虫螻に成り下がった虫の王に気付いて貰えるとも限らない。

 たとえ虫の王だと気付いて貰えたとしても、快く受け入れて貰えるとは限らない。

 たとえ快く受け入れて貰えたとしても、言葉を交わすことはもうできない。


 それでも、虫の王は娘と出会ったあの場所に飛んだ。





 心地良い歌が聞こえる。あの日、誘われた美しい歌声。

 それだけでも奇跡だと虫の王は思った。

 娘は今日も泉にいる。あの日聴き入ってしまった、昔を思い出させてくれた歌を歌っていてくれる。


 今にも底を突きかけようとしていた力が、不思議と湧き上がってくるような気がした。


 ふらふらと飛び、泉に近寄れば、娘は今日も切り株に腰掛けて歌の練習をしていた。

 娘は丁度歌を歌い終わった。

 歌に誘われ取り巻いていた動物達もそれと同時に解散していく。

 ほんの僅かな時間差で、僅かながら最後の歌を聴くことができた。

 なんて幸せな奇跡だろうと虫の王は思った。


 ふらふらと娘の傍に降り立つ。

 娘に触れる事はしない。近寄りすぎる事はしない。これ以上関われるとは思っていない。

 ただ、せめて最期にその顔を少しでも見たいだけだった。


 遠巻きに見ていれば良かった。

 しかし、娘は離れて見ている虫に気付いた。

 小さな虫螻に遠くから気付くとは、どんな視力をしているのか。

 娘は気付いただけでなく、切り株から立ち上がり、虫の王に歩み寄った。


 虫の王は何かの間違いだろうと思った。

 しかし、娘は地面に伏せる虫の王のもとにしゃがみ込んだ。

 娘が虫の王に手を伸ばす。


「…………寒蠱守ふゆこもり?」


 虫の王は耳を疑った。

 娘は自身の名前を呼んだ。

 気付く筈がないと思った。気付ける筈がないと思った。

 今の虫の王は目にも映らないような小さな虫螻である。

 そもそも、虫の王の本体がこんなにちっぽけな虫だと気付く筈がないのである。

 娘の手が虫の王を掬い上げる。


 死に際に幸せな夢を見ているのかと思った。

 しかし、暖かい手のひらの温度が、これが現実だと告げている。


 娘の顔を見上げる。娘は悲しそうに虫の王を見ていた。




 ああ。この娘は私の死を悲しんでくれているのか。




 私は虫螻。私は魔物。私は厄災。

 巫女が消え、人々と神の繋がりが断たれた今、誰にも忌み嫌われる嫌われ者。

 たった一度話しただけだ。ほんの少し助言をしただけだ。

 それだけで、娘は嫌われ者の私の死を悲しんでくれている。


 嬉しい、と思う一方で、悲しい、と思った。

 そんな悲しげな顔をさせる為に、娘の顔を見に来た訳ではない。

 虫の王が愛したのは、彼女の笑顔だったのだから。


 虫の王は羽をふるわせる。

 人の言葉を作る為の震動。

 しかし、群れでもなく、死にかけの虫には人の声は作れない。

 仮に作れたとしても、それこそ虫の羽音のようにか細い声でしかないだろう。

 それでも、虫の王は残り少ない命を削って声をあげた。


 笑って。


 伝わる筈のない自己満足。




 そんな小さな声を聞いて、彼女は優しく笑いかけた。




 偶然か。それとも本当に彼女には伝わったのか。

 どちらでもいい。最期にその笑顔を見られただけで心残りはもうなかった。




 虫の王は静かに久方振りの眠りについた。




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