外伝第18話 虫愛づる、春恋し




 寒い。寒い。寒い。寒い。

 冷たい。冷たい。冷たい。冷たい。

 苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。

 ひもじい。ひもじい。ひもじい。ひもじい。


 雪と氷の季節。我らにとってそれは地獄だ。

 体は凍えて動かなくなる。

 生きる糧は枯れ果てて、食うものに困り続ける。

 たくさんの仲間が死に絶えていった。

 たくさんの仲間を食い生き存えた。

 ただ生きる為に。

 また訪れる暖かい季節を迎えるために。


 寒い季節を迎える度に、暖かい火に当たる人間達の家を羨む。

 飢える季節を過ごす度に、食うものに困らぬ人間達の生活を羨む。

 しかし、我らにそれを得る事はかなわない。

 我らは彼らにとっては邪魔者でしかない。

 彼らの領域に踏み入れば、我らは踏みにじられるのみ。


 我らには知恵が足りない。我らには力が足りない。我らには声が足りない。我らには心が足りない。我らには愛が足りない。


 足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。


 我らはただただ飢えている。





「初めまして。」


 我らが初めて聞いた声。

 我らが目を覚まし、寒空を見上げると、彼女が上から覗き込んでいた。

 我らを蔑む冷たい目。それとは違う暖かい慈愛の目。

 我らを嫌う冷たい顔。それとは違う暖かい笑顔。

 

「あなたの名前は寒蠱守ふゆこもり。冬の寒さから蟲達を守るもの。あなたに冬に生きる蟲達の守神まもりがみとしての名を与えましょう。」


 寒蠱守ふゆこもり

 彼女にその名を与えられて、初めて私は自我を得た。

 

 私は人の食物を食い荒らす害虫だった。

 しかし、彼女が虫害という災害に、神としての名を与えた。

 その時から私は、冬に生きる蟲達の守神となった。


 今まで私を蔑んで見ていた人間達の目は、いつしか違ったものになっていた。

 蟲達を守るだけの神であった私は、いつしか虫害から人々を守る神にもなっていた。

 人々は私に供物を捧げる。私は供物をもって蟲達を救い守る事ができた。


 彼女が私に名をくれただけで、私の足りないせいが満たされていった。


 しかし、何よりも私を満たしてくれたのは、人々の信仰でも蟲達の信仰でもなく、彼女だった。


「やっ、寒蠱守。お供え物持ってきたよ。」


 あらゆるものに神としての名を与えるもの。

 大地の神々と対話するもの。

 彼女は"巫女"と呼ばれるものだった。

 巫女はその名をランといった。


 ランは私と人々の間に立つ架け橋であった。

 供物はいつもランを通して私に捧げられた。

 願いはいつもランを通して私に届けられた。

 私はランに渡された供物によって蟲達を救い、ランが届けた願いを聞き入れ人々を救った。


 ランの仕事はそれだけだった。

 しかし、彼女は仕事以外でも私と話しに来た。


「やっ、寒蠱守。今日も元気?」


 何時でも彼女は気軽に私に話し掛ける。


「やっ、寒蠱守。お供え物のりんご分けて?」


 図々しくお供え物を集りに来る事もあった。


「やっ、寒蠱守。空を飛ばせて?」


 私に空を飛ばせて欲しいと頼んできたこともあった。


 まるで人間と話すように。まるで友人と話すように。

 私を神と崇める人々でも、蟲達を見て良い顔はしない。

 しかし、彼女だけは私を、我々を見てもいつでも笑顔を浮かべていた。


 どうして、私に彼女は話し掛けてくれるのだろう。

 どうして、私に彼女は笑いかけてくれるのだろう。


 不思議に思って問い掛けた。


 そんな私の問い掛けを、彼女はおかしな事かのように笑い飛ばした。


「話したいから話すんだよ。笑いたいから笑うんだよ。」


 理由なんてないのだという。

 ランは、彼女がそうしたいからそうするだけだった。


 不思議な女性だと思った。


 私は彼女の事がもっと知りたいと思った。


 どうして、私に彼女は名前を授けてくれたのだろう。


「あなたと友達になりたかったから。名前がなければ呼べないでしょ?」


 彼女が災厄達にすら名前を与えるのは、彼女が災厄達とさえ仲良くなりたいからなのだという。

 この世界の全てを彼女は愛していた。

 この世界の全てと彼女は友達になりたいと思っていた。


 彼女が名前を与えたのは私だけではない。

 彼女が話し掛けてくれるのは私だけではない。

 彼女が笑いかけてくれるのは私だけではない。


 その愛が私だけに向けられるものではないのだと知った時、私の中でちくりと不思議な感覚があった。

 とても辛くて悲しい感覚だった。




 暖かい季節が訪れる。

 私が、我らが愛する季節。


 眷属の蟲達は、季節が訪れると人々に恵みをもたらす。

 甘い蜜。豊かな土。美しい景色。

 

 この季節には私の仕事はない。

 私は眷属の蟲達から離れ、私だけで身を隠す。


「やっ、寒蠱守。退屈してない?」


 そんな私にも、彼女は会いに来てくれた。


 この季節に役割をもたない私に会いに来る意味は?

 私は尋ねる。


「話したいから来ただけだよ。意味なんてないよ。」


 私と話したいことがあるのか?

 私は尋ねる。


「話したい事があるからじゃなくて、話したいからだって。」


 良く分からないと私は言った。


「君は小難しい事ばっかり言うね。だから面白いんだけど。」




 話したいから話す。

 笑いたいから笑う。

 来たいから来る。

 やりたいからやる。

 彼女の行動はいつだって単純だ。

 彼女はいつでも自分の心に従っているだけだ。


 己の生き方に小難しい理屈を捏ねるのは人間だけだ。

 いつから私は人間のようになってしまったのか。

 彼女の方がよっぽど、蟲達に近いのではないか。


「それって褒められてる?」


 私は蟲のままでいたいのか。蟲のままで終わりたくないのか。

 人間にはなりたくないのか。人間のようになりたいのか。

 分からない。

 足りない時には、飢えていた時にはなかった悩みが押し寄せてくる。

 足りない事は不幸。しかし、満ち足りたところで幸せになるとは限らない。


 私はどうありたいのか。


「寒蠱守は私と話してて楽しくない?」


 ある日彼女は私に問う。


「いつも悩ましそうにしてるから。」


 彼女に問われて改めて思う。

 考える時間もいらなかった。


 楽しいのだ。彼女と話す事が。

 好きなのだ。彼女の笑顔が。

 待ち遠しいのだ。彼女が来てくれるのが。


「それならよかった。」


 彼女はそう言って笑った。



 どれだけの季節を繰り返したのか。

 時間を積み重ねていく中、理屈を積み重ねていく中で私は気付く。

 私はランが好きなのだ。

 私に名前を与えてくれた恩義だけではない。

 透き通るような声が、美しい歌が、暖かい笑顔が、人懐っこい仕草が、図々しい性格が。


「最後のは褒めてる?」


 彼女はむっとした。その感情豊かな表情も好きなのだ。


「照れ臭いなぁ。」


 私が好意を伝えれば、彼女ははにかんだ。




 彼女といくつもの季節を過ごした。

 彼女は少しずつ変わっていく。それでも、彼女への想いは変わらなかった。


「やっ、寒蠱守。」


 ある日、彼女が一人の少女を連れてきた。


「これ、私の娘。仲良くしてやってね。」


 ランは結婚して子を成した。


 当たり前の事だ。

 ランは人間。人間と結ばるのは当然の事だ。

 しかし、何故だが私の中で不思議な、複雑な感覚があった。


 幼い少女、ランの娘はランによく似た子供だった。

 よく笑い、よく喋り、私の事を恐れない。


 その笑顔を見た時、複雑な感覚は不思議と晴れていった。




 どれだけの時が経っただろう。

 ランは死んだ。当然だ。人は神ほど長くは生きられない。

 分かっている。分かっているのに。


 ああ、これが痛みというものなのか。


 張り裂けそうな痛みは、ただの虫であった時には感じた事のないものだった。

 こんな痛みを与えられるのであれば、名前など得たくなかった。

 満たされたものを失う辛さを知るのであれば、足りないままがよかった。


 ……本当にそうなのだろうか?

 彼女との思い出が、彼女に抱いた想いが、なければ良いと本当に私は思っているのだろうか。

 そんな事はない。絶対に。


 泣いている彼女の娘を見た。

 彼女が泣いているようで、私は胸が痛くなり、彼女の傍で励ました。

 彼女は笑ってくれた。その笑顔が見られるだけで、胸の痛みは和らいだ。


 彼女の笑顔はもう見られない。だが、彼女によく似たその笑顔を守ることはできる。


 私の神としての役割は蟲達を冬の寒さから守ること。

 そして、人々を虫害から守ること。

 彼女の与えてくれた名前を守り続けていく、それが彼女に報いることになる。

 私は名前を与えられたことを、神となったことを悔やむことをやめた。


 彼女の娘。彼女の娘の娘。そのまた娘。

 何世代もの巫女と私は生きた。

 いつでも彼女によく似た笑顔が、歌が、そこにはあった。




 ある日、ぱったりと巫女が現れなくなった時までは。




 他の神づてに聞いた。

 巫女の血筋は途絶えたのだと。

 己の生き方を選んだ巫女を人々は切り捨てたのだと。

 

 人々は大地の神々への感謝を忘れた。

 大地の神々は次々と人々を見放した。

 

 私は人々の感謝など求めていなかった。

 ただ、彼女の想いに報いたいと思った。



 私への感謝を忘れた事を恨んでいる訳ではない。

 彼女の想いを断ち切った人間共を許せなかったのだ。



 巫女が消えてから、世界からは四季が消え去った。

 私達の愛した暖かい季節はもう訪れない。



 もう私が人間を思い遣る必要もなくなった。

 私は蟲達の為だけに生きることにした。




 人間の事など慮らず、永遠の寒さから蟲達を守る為、ただただ貪り食い尽くす。


 私は虫の守神から、魔物の寒蠱守ふゆこもりとなった。





 ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと……。

 どれだけの時が流れたであろう。

 今ではもうあの笑顔、あの声も、あの歌も、朧気ではっきりと思い出せない。

 足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。

 いくら食べても満たされない。




 "暴食の王"と呼ばれるようになった。

 "厄災"と呼ばれるようになった。

 私に与えられた名前の役割から離れて行く毎に、私の中の思い出が消えていく。


 このまま消えてなくなってしまえば楽なのに。




 楽だったのに。




 歌が聞こえた。暖かい歌が。懐かしい歌が。美しい歌が。

 夢でも見ているのかと思った。

 歌に誘われていけば、私は信じられないものを見た。


 彼女がいた。

 数多くの動物に、虫達に、魔物に、自然に、神に囲まれて。

 誰も彼もが分け隔て無く、彼女を囲んで歌に聴き入っていた。


 見間違いかと思った。実際に見間違いではあった。

 しかし、彼女が、ランの血を引く者だという事はすぐに分かった。


 彼女は私と戦ったものだった。あの時は気付かなかった。忘れてしまっていた。

 彼女の歌が思い出させた。私の大切な思い出を。

 

 思わず声を掛けた。敵対する筈の彼女に、勇者に。

 しかし、彼女は嫌な顔一つせずに言葉を返した。


 その何気ない言葉に私がどれだけ満たされたか。きっと彼女は知らないのだろう。




 彼女の名前はハルといった。


 思い出す。かつてあった暖かい季節。人々はそれを春と呼んだ

 



 もうこの世界に思い残すことなどなかった。

 だから、とっとと見切りを付けてしまおうと思っていた。

 

 もうすぐ滅びる世界なんて。


 


 彼女の歌で思いだした。

 私の大切な思い出。本当に守りたかったもの。

 今度は失いたくないと思った。 





 不穏な動きを見せる死の王に声を掛ける。

 きっと、魔王を名乗るあの男も、勇者も、誰も気付いていないであろう。


 破滅をもたらすのは、魔王を名乗るあの男の持ち込んだ、人の怨念だ。


 しかし、そのきっかけをもたらすのは、この醜い死の王だということを。 

 

 人々の為に動くつもりなんてなかった。

 今、私は彼女の為に、彼女の子孫の為に死の王と対峙する。




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