二学期~003

 放課後は久し振りのジム。

 なんかスッキリしない頭を空っぽにするために、サンドバックを叩きに来たのだ。

「緒方、ちょっと来い」

 わざわざサンドバックを止めて俺を呼んだのは、ジムの先輩の青木さんだった。

 昔はそれはそれは糞だったが、今は更生している。との弁。まあ、いい先輩ではある。

「なんすか?」

「だから、ちょっと来いって」

 行きたくないが仕方が無い。グローブを外して青木さんの後を追う。

 勝手口がら外に出て、辺りを見渡し、よし、と呟く。

「なんなんすか?内緒話っすか?」

「内緒話じゃなきゃ呼び出さねぇよ」

 そりゃそうだ。で、何の話だ?

 待っていると、唐突に切り出した。

「佐伯って知っているよな?会長の古い友達が経営しているジムに居た奴だ」

 正直その名前を聞くのは意外だった。

 なるべく表情に出さずに頷くと、青木さんが続いて口を開いた。

「去年の秋に予定していた練習試合がキャンセルになったの、覚えているか?」

 頷く。

「佐伯って奴が事故死したからだって話だったよな」

 また頷く。

「……そいつ、実は殺されたらしい」

 少し戸惑いながら頷く。逆に拍子抜けしたような顔をされた。

「なんだ?知っていたのか?」

「つか、噂で。事故に見せかけて殺されたって」

 真相を知っている俺だが、此処は惚けよう。

「そうか。お前の耳にも入っていたのか…」

 一転深刻な顔になる青木さん。

「でもやっぱ事故でしょ。あいつを殺して誰が得するってんです?」

「お前だろ?」

「……は?」

「いや、噂を聞いたんだよな?お前が昔虐められた仕返しに殺した、って…」

「いやいやいやいやいや、確かにあの糞には散々やられましたし、顔見たらぶち砕く自信はありますが、車との接触事故でしょ?俺運転できませんよ?」

「解ってるって。誰かが面白おかしく流した噂だってのはさ。でも、今更こんな噂が流れるなんてなぁ、と思ってさ」

 ……確かにおかしい。俺との接点は調べりゃ直ぐ解るにしても、本当に今更だ。

 つか、考えたくなかったから、身体動かして無心になる為にジムに来たってのに、これじゃ余計考えてしまう。

 二学期始まってからまだ二日目だが、なんなんだ?

 国枝君や春日さんは言うに及ばず、ジムの先輩の青木さんまでおかしな噂を嗅ぎつけて来るなんて…

「…どうした緒方?考え事をしている風だが、噂の出所に心当たりでもあるのか?それとも、実はマジ話とか…」

「冗談はやめてくださいよ全く…」

 いくら先輩でも殴るぞ?マジにやったら、向こうはプロだから、負ける可能性の方がデカいけど。

「つか、先輩はどこでその噂を?」

「ああ、博仁から聞いた」

 ヒロから聞いた…?

「お前と博仁は仲良いだろ?だから博仁も心配してさ」

 そんな噂が流れているのなら、確かにヒロは心配するだろう。

 その結果が朝のロードワークの付き合いなのか?ただ縁切りに行ったからって訳じゃ無かったのか…

 ふと春日さんの言葉が過ぎった。


「……その大沢君は誰から聞いたんだろうね?」


 朋美が病院から脱走し、俺の家でとっ捕まった話。

 そして青木さんが聞いた佐伯の噂話。

 これもヒロから聞いたと…

 国枝君はなんて言ったか…槙原さんに気を付けて、だっけか?

 槙原さんはヒロの彼女の波崎さんの親友…

 春日さんが今日の昼休みに含んだような事を言っていたな…

 そして何故かいきなり、シフトが重なっている日に来店してくれ、と。それは明日。

 ……以前槙原さんは、目的達成の為なら、ずるい事でもすると言った。

 …考えたくはないが、槙原さんが何か企んでいると考えた方が良いのかも知れないのか?

 後にショックで思考が定まらなくなる前に、覚悟は決めていた方がいいのかもだが…

 それからはやはり、考えて考えて考えて…

 気が付くと、電車に揺られている自分がいた。

 なんで電車に乗っている?つか、これって終電だ。何時間身体を動かしていたって事だよ。

 吃驚する程あの後の記憶が無い。考え過ぎだったのは明白だ。

 だが、俺は考える事をやめられない。グルグルと思考が揺れる、と言うより、槙原さんの仕業と考えたくないので、それをどうにか否定しようと、頑張って材料を探している状態だ。

 だが、以前の自白もそうだが、海に行った時の裏工作も手伝って、槙原さんを弁護する材料が殆ど無い。強いて言うなら、俺がそれを知ったら嫌なので、なるべくやらないと思う、と言う身内びいきくらいのものか。

 俺の頭ならそれくらいは騙し通せると思っているかも知れないし、麻美ももう出て来ないので、助言してくれる人もいなくなったと言う安心感もあるのかも…

 って、ほら、どう考えても槙原さんの工作だって疑ってしまう!!

 自分の思考の無さに怒りを覚えて、自分で自分の頭を殴るしか俺には出来なかった。

「おおお…パンチドランカーになる…」

 自分で自分をぶん殴った後遺症に悩まされながらも、俺は乗り過ごすことなく、電車を降りられた。

 ぶん殴ったから考え込まなくても良くなったので、乗り過ごさなかったんだろう。

 頭のあちこちが痛い。

 擦りながら家に向かって歩いた。

 つか、もう考えたくない。どう考えても槙原さんを疑ってしまうからだ。

 早く帰って風呂に入ってサッパリして寝よう。

 呪文のようにそればかり呟く。考えたくないからだ。

 途中メールの着信音が何度か鳴ったが、開いてみる事もせず、黙々と家を目指す。

 家が見えてきた。もう直ぐ休めると思って駆け出そうとしたが、足が止まる。

 ……門前に誰かいる?

 そいつは蹲るように、地べたに座っていた。

 なるべく気配を消して、そいつに近付く…

 だんだんと姿が露わになる。

 薄暗い街灯に照らされて、そいつが誰だか漸く知った。

「……楠木さん?」

 声に出すと、楠木さんがこっちを向いて立ち上がった。

「こんな夜遅く、どうした…?」

「いや~…何回かメールしたけど?」

 そう言えば着信音があったな…

「ごめん。ちょっとボーっとしていた」

「ううん、いいよ。無事に帰って来てくれたし」

 無事?何を案じてんだ?

 そこまで言われて、漸く開いた。

「げ!!三時間前から連絡してくれていたのか!?」

 その時間はまだジムでアホ程身体を動かしていた時間。気付かなくても仕方が無いが、帰りの道中メールを見る時間くらいはあっただろ。

 激しく後悔するも、もうどうしようもない。

 何の用事か知らないが、楠木さんは既に家の前に来ているのだから。

 兎に角、もう辺りは真っ暗だ。

「と、取り敢えずここじゃなんだから、中入って」

 家に入るよう促す。

 そこでハタと思い出す。

 俺が乗って来たのは終電。当然楠木さんが家に帰る術はない。チャリも見た所、乗ってきてないし!!

 ちょっと待て!!追い返す訳にもいかんし、お泊り!?

 慌てている俺を余所に、楠木さんは勝手知ったると言った体で静か~に戸を開けて、静か~に上がって行った。

 ちょっと待つと、俺の部屋に明かりが灯る。電気を点けるのも勝手知ったる云々… 

 軽いながらも深い溜息を付いて、俺も家に入る。

 静か~に階段を上がり、自分の部屋に入ると、持参したのか、缶のお茶のコクコク飲んでいた。

「随分勢いよく飲むんだな…」

「うん。安心したら、喉の渇きを思い出しちゃった」

 テヘペロの体だが、安心したとはどう言う事だ?

 ふ~っ、と一息付いたと言って、俺を直視した。

「隆君、メール見てないんだよね?」

「あ、ああ…悪い」

「謝らなくていいよ。多分考え事に夢中だったんでしょ?」

 ……何故解る?

 身構えると。くすっと笑った。

「多分だけど、隆君に関連する噂を聞いたんでしょ?佐伯って人の事とか」

「……それだけじゃないが…まあ…」

 楠木さんの耳にまで届いていたのか。

 更に俺の頭の中を読み取ったように、続ける。

「おかしくない?今更こんな噂?なんかピンポイントだよね?」

「そうなんだよなあ…」

 弱ったのが丸解りのように、俺は項垂れて頭を掻いた。

「そこで、またまたおかしな事に、こんな噂も流れています」

 スマホを開いて俺に見せる。

 覗き込むと、心臓が止まるかと思った程驚いた。

 それは俺宛に送ったメール。その内容が……


【白浜の楠木って女、薬買う金欲しさに身体売ってるってよ】


「こ、これって!?」

「木村から送られてきた。誰かのメールのコピペらしいけど。ほら、あいつの学校、欲求不満ばっかでしょ?こんな噂大好物じゃん」

 まあ、半分はホントだけどね。そう、自虐的に笑う。

「その、木村は…?」

「緒方の女だから、おかしな真似したら死ぬぞ。って脅したって。これは嬉しかったなあ。あいつにしちゃナイスだよ」

 考えようによっちゃ、西高の馬鹿共に釘を刺すには充分だが…現に今は木村と約束しているから、西高の糞共を見かけても追い込まないし。

 ちょっと前なら、問答無用でぶち砕いていたからな。トラウマになった奴もいるだろうし。

 だがしかし…これで俺と楠木さんの噂が、ほぼ同時に流れたって事が解った。

 つい最近まで、全く耳に入らなかったしな…

「……で、誰だと思う?噂流した奴…」

 意味深な瞳を俺に向けてくる楠木さん。疑いたくないが、多分楠木さんも同じ気持ちだろうが…

「……隆君なら心当たりがあるけど言えないと思うから、私から言うね、遥香」

 それは…俺もずっと考えていた。けど…

「否定する材料が見当たらないんだ…どうしても…」

 つい口に出してしまう。やっぱ弱っているんだな、俺。

「と、隆君は言うと思って、否定材料を持って来ました」

 思わず顔を上げる。

 楠木さんは物凄い可愛い顔で笑っていた――

「こんな解り易くて足が出るような事、あの子がすると思う?」

 ……確かに…

 どう考えても槙原さんに辿り着くのが、そもそもおかしい。彼女ならもっと上手く陥れるだろう。

 ……全然褒めていないようだが、そんな事は決してない事を付け加えておく。

 しかし、だ。

「国枝君が槙原さんに気を付けろって言っていたが…」

 それも噂が出回る前だ。強いて言うなら、朋美の病院脱走後だ。

 俺がその旨を伝えると、一気に困ったような顔になる。

「そっか。国枝君がね。しかも噂が出る前か…だけど、気付いたのはつい最近、って言うか、今日でしょ?ん?でも須藤の病院脱走をいち早く嗅ぎつけたのは遥香だよね?それで疑ったとか?」

「国枝君は根拠が無いと言い出さないよ」

 楠木さんは、う~んと唸って考える。何か引っかかる所があるのだろうか?

「……敢えて疑わせるように動いた?」

 それは彼女なら有り得るだろうが、理由が無い。

 楠木さんと春日さんを引き離すのなら、俺の噂まで流す必要は無い。

「つか、朋美の脱走を一番早く察知したのは、病院をたまたま張っていたからであって、噂はあの事故にちょっとでも興味を持ったら、俺の同級生なら面白おかしく話すだろうし」

 ちょっと無理があるが、そこそこの筋は通っている筈だ。

「うん、解るよ、言わんとしている事は。私の昔の事なんか、結構有名かもしれないしね」

 楠木さんも槙原さんを疑っていないようだ。だが、タイミングが余りにも…

 だけどやっぱり理由が見当たらない。俺を陥れる理由が。

 楠木さんはやや考えた後、うーん、と伸びをして、開き直ったように言った。

「ねえ隆君、佐伯の事や須藤の事でさ、結構へこんでる?」

 ん~…へこんでいるってか、モヤモヤがパネエってか…

「どっちかって言うと、参っている。色々考えちゃって」

「ふ~ん…遥香を疑いたくないのが主な理由?」

 まあ…そうかも…なので、肯定の意味で頷いた。

「それが狙いかも。遥香の」

 ん?どういう事だ?つか、さっき疑っていないみたいな事を言っていなかったか?

 逆に疑いの眼差しを楠木さんに向ける。

「ああ、そっか。そういう効果も狙いなのかも」

「さっきから何を言っているんだ?」

「だって遥香の仕業だとしたらさ、あの子は絶対証拠を残さないよ?」

 そりゃそうだろ。槙原さんの切れ具合はパネエから。

 違うベクトルだったら、春日さんの切れ具合の方がパネエけど。

「つまりさ、遥香は絶対証拠残さないし、隆君は疑いたくない。でも周りから遥香が疑われる。隆君って単純だから、遥香可哀想って思うでしょ?支えてあげたいって思うでしょ?」

 ……同情からの搦め手か?

 そこまでやるか?それを俺が知ったらどうなると思う?

「遥香は絶対に尻尾を出さないよ。この仮説が正しいとしたら、隆君が遥香から証拠を見つける事は不可能」

 ……ぐうの音も出ねえな。その通りだ。

 俺程度の頭じゃ、槙原さんから自白引き出す事も不可能。

「……って、黒幕なら考えるかもね」

 項垂れつつある頭が持ち上がる。

「……槙原さんが一番厄介だからか?」

 だから槙原さんを離反させようと?

「まあ、その仮説が正しいとしたら、疑いは春日ちゃんに向けられちゃうけどね」

「……信用得ようとして、自演している可能性もあるぞ?」

 結構な爆弾を投下させる。

 その仮説が正しいのなら、楠木さんだって疑う対象だ。

 そうだね。と同意して、だけど、と否定の弁。

「私じゃ無理。そんな知恵無いから」

 潔いな、ある意味。

「実際一年の夏の時、隆君にバレたじゃん。用心棒にしよう作戦」

「あれはそこまでの道のりが、かなあり長いからだ。単純に楠木さんの演技が下手って訳じゃ無いよ」

 実際初期の頃は騙され捲ったし。麻美も胃が痛い思いをしただろうなあ…

「そっか。特殊な事情があったんだよね。じゃあ私も捨てたもんじゃ無いね」

「だな。だからさっきの仮説は、楠木さんにも当てはまる訳だ」

「あらら。疑われちゃった」

 ややおどけて肩を竦めて見せる。

 大丈夫。俺は疑ってないよ。そして槙原さんも疑っていない。

 馬鹿だから、味方を疑う事はしたくないんだ、俺は。

 尤も、俺の頭は残念だから、悪い方に考えてしまうけど。

「じゃあどうしようか?勝手に噂流させとく?遥香じゃないなら、意外と早く尻尾出るでしょ」

「つか、情報が足りない。だから情報収集の意味でも放置して、もっと新しい情報を待ちたい」

 後手に回っているようだけど、今の俺にはそれしか無い。つか、それしか思い浮かばん。

 そっか。と言って立ち上がる楠木さん。

「まだ解んない事が多過ぎるしね。その手しか無いよね。じゃあ話も終わったし、帰るね」

 帰るのか。うん。夜も遅いしな…って!!

「電車終わっちゃっているけど、どうやって!?」

「あ、そっか。慌てていたから時間も気にしてなかった。まあいいよ。歩いて帰るから」

「今何時だと思ってんだ!?なんかあったらどうすんだよ!!歩くったって、かなりの時間掛かるだろ!!」

 結構マジで怒ってしまった俺に、楠木さんは目をパチクリさせながら直視した。

「え?心配してくれていたの?」

 意外だとばかりに。おい。

「当たり前だ!!そうじゃなくても、おかしな噂が流れてんだ!!糞に出くわして乱暴されたりしたらどうすんだ!!」

「え~…そうなったらどうする?」

「ぶち殺す」

 ……暫しの静寂。ただし見つめ合っての。

 同時に顔が赤くなる。そして、同時に顔を伏せた。

「こ、殺しちゃ駄目でしょ…」

「だ、だって多分そうしちゃうし…」

 基本糞はぶち砕く。それが楠木さん絡みになったら、ぶち殺すに変わるだけ。大した違いは無い。殺すつもりで殴っているし。

「そ、そう?じゃあどっしよっか…」

 どうしようもこうしようも無いだろ…

 見た所私服だし、始発で家に帰って貰うしかない。

「じゃあ…始発まで仮眠して行けよ」

 仮眠!!自分で言って噴き出しそうになる。事実楠木さんは噴き出しているし。

「ぷっ…くく…泊まっていけとは流石に言えないもんね」

「……仮眠なら問題ない。ギリギリセーフだ」

 そう言ってベッドに視線を向けて言った。

「仮眠場所は貸すよ。俺も仮眠しようっと。床で」

 幸いにして毛布がクローゼットに押し込まれているからな。もう直ぐ肌寒くなるから、用意していたのだ。こんな事情に使うとは思ってもいなかったけど。

「床じゃ、休んだ気になれないんじゃない?」

「いいんだよ。仮眠だからな」

 これ以上の会話はおかしな方向に行きそうだったので、あまりしたくないので、座布団を並べて、敷布団を作って、そこに横になって毛布を被った。

 我ながら凄い度胸だと思う。

 言い訳をさせて貰えば、色々いっぱい考え過ぎて脳がくたくただった事と、ジムでのオーバーワークで肉体的に疲れていた事。

 同じ部屋のすぐ隣で、女子がベッドに横になっているにも関わらず、俺は驚く程簡単に寝入ってしまったのだ。

 横になった後の記憶が全く無い。瞬間だったんだろう。

 そんな事を考えながら寝入っている自分に驚く。

 夢の中か?それにしても生々し過ぎる。

 明かりを消した楠木さんが、暫くベッドでゴロゴロしていたかと思えば、いきなり起き上がり、俺の簡易布団の中にいそいそと潜って来たのだ。

 おいおい、健全な高校生にそりゃマズイだろ。と突っ込んではみたが、俺は起きる様子を全く見せないでグーグーと寝息を立てている。

 楠木さんと俺が同時に舌打ちをする。

 全く起きない事に不満な楠木さんと、なんで起きないんだ俺は馬鹿か?と嘆く舌打ちの差だったが。

 しかし、これは麻美と俺の会話か、麻美と朋美か、川岸さんの会話のパターンだが、どこを捜しても麻美はいない。

 もう出て来ない約束をちゃんと守っているのだろう。

 なら、なぜ俺一人のこの状態?夢の中に一人とは斬新だが…

 取り敢えずは動いてみるかと、俺は部屋の中をウロウロ散策(?)する。

 そう言えば、楠木さんが散々送ったと言うメールを見てなかったと、スマホを持った。

 一応開いて中身を確認。

 十数件入っているメール全てが、楠木さんからのものだった。急ぎなら電話してくれればいいのに。

 つか、マナーにしているから、どっちにしても気付かないだろうけど。

 その足で一階に降りる。

 そういや晩飯食べてないな、と思い出し、冷蔵庫を開けて中身を見た。今日の晩飯はチキンカツだったようだ。

 俺の分と思しき皿に乗ったチキンカツが、ラップされてしまってあったから、簡単に理解できた。

 しかし、夢の中とは言え、自由に動けるもんだなあ。

 調子に乗った俺は、そのまま外に出て散策を続けた。

 気の向くまま歩くが、辿り着いた先が朋美の家だった事に驚いた。

 無意識で朋美ん家に来たのか。いや、夢だから無意識じゃないのか。いやいや、 やっぱ夢だからこそ無意識なんだろう。

 ならばチャンスとばかりに、朋美の家に上り込む。

 そこで気付いたが、玄関を開けていない。そう言えば外に出る時、遡れば部屋から出る時も扉を開けていない。

 すり抜けて出入りできたんだ。スマホは持てるし冷蔵庫は開けられるのに。まあ、夢だから都合がいい部分を抜き取っているんだろうな。

 深く考える事無く、俺は朋美の部屋に向かう。

 と、言っても、今は無人な筈。朋美は病院に隔離されているのだから。

 目的の朋美の部屋の前。俺はノックする事も無く入って行く。

 以前入った時と同じ。机、テーブル、ベッド…ベッド?

 ベッドに違和感があり、音も無く近付いた。

 ベッドに敷かれた掛け布団が盛り上がっている?

 誰かが主不在のベッドに入っているのか?考えられるのは、囲っているチンピラか。

 アホな奴だな。親分の娘の部屋に侵入するなんて。

 どんな馬鹿か拝んでやれ。

 俺は布団を少しずらした。


 ……女?…


 心臓が尋常じゃ無い程鼓動する。

 まさか…あいつは今病院に隔離されている筈だ…

 嫌な汗が全身に流れ出る………

 俺はゆっくり布団をずらして行った。

 顏が見えるまで、徐々に、ゆっくり…

 しかし、俺の努力を嘲笑うが如く、そいつは寝返りを打ってあっさりと顔を曝け出した。

 心臓が止まりそうになる。

 そいつは痩せこけて、抜け毛が多く、所々頭皮が露出していたが、はっきりと解った。

 朋美………!!

 病院に居る筈の朋美が家に居る!?

 バックンバックン心臓が踊っている。

 落ち着け…これは夢だ…

 そうだ。夢だ。夢だから気にしちゃ駄目だ。きっと俺の心の底に、こんな事あったら怖いなあ、との意識があったんだ。

 それがたまたま夢に反映されただけだ…!!

 そう言い聞かせて、どうにか落ち着く。

 息が荒い…これも夢だ。夢でも息が荒くなる程、こいつを怖がっているのか俺は…

 自分が滑稽で呆れて、涙が出て来る…


 ぴぴぴぴ


 セットしたアラームが鳴り、目を覚ます。

 身体が重い…まるで誰かに押しつぶされているようだった。

 しかし、どうにか根性と馬力で上体を起こす。

「……そういや…そうだったか…」

 楠木さんが俺に身体を預けて爆睡していた。

 身体が重かった理由が解り、安堵するが、次の疑問が浮かぶ。

 楠木さんが俺の座布団布団に潜り込んできたのは、夢で見た筈。何故、現実にこうなっている?

 ぞわっと産毛が逆立つ。

 楠木さんを起さないように、静かにスマホを開いた。同時に目も見開く事になった。

 夢で見た受信メールそのままだったのだ。

 あれは夢じゃ無い!?じゃあ朋美は病院じゃなく家に居る!?

 夢と同じく、心臓の鼓動が激しく高鳴る…

 どうにも落ち着かない気持ちだったが、朝練は習慣。全く乗り気じゃ無かったが、ついついジャージに着替えてしまう。

 身体動かして忘れようかと思ったが、アレが夢でない確証がどうしても欲しい。

 今日のロードワークはいつものコースから外れて朋美の家の方を回ってみよう…何か解るかも知れない。

 そして、アレが夢じゃ無く現実の物だった場合、楠木さんがヤバい。

 俺は楠木さんを揺り動かす。一瞬固く目を閉じたが、徐々に瞼が開いた。

「お」

 おはようと言おうとした楠木さんに、静かに、と唇に指を当ててジェスチャーをして見せた。

 怪訝な顔なれど、頷く楠木さん。俺は小声で話す。

「今からロードワークに出るけど、俺が帰って来るまで、この部屋でじっとしてて。カーテンも開けないで。物音立てないで」

「で、でも始発が…」

「今日は遅刻してくれ。ちょっと確かめたい事があるから」

 俺の真剣な顔に押されてか、頷いた楠木さん。

 俺もロードワークをサボって一緒に静かにしていたいが、生憎とヒロが待っている。

 あいつにも付き合わせて、何かしらの感想を聞いてみたいところもある。

 そしていつものように玄関先で柔軟をしていると、ヒロが物凄い眠そうな顔でやって来た。

「だから無理すんなっつったろ…」

「いやいや…大丈夫大丈夫…」

 大丈夫じゃねーだろ。フラフラしているぞ。俺もあんま寝ていないから、人の事は言えないが。

「そうか。じゃあ行くか。今日はちょっと距離を伸ばそうかな、と思うけど、いいだろ?」

 あからさまに嫌そうな顔をしたヒロ。断られる前に俺は出発した。

「お、おい…ちっ、仕方ねぇな…」

 何だかんだで後を追って来る。やっぱいい奴だな、こいつ。

「距離を伸ばすって、いつもと逆方向を走るだけじゃねぇか…」

 物凄いブツブツ言っているが、ついて来る。

「……なんでこっちの方角だ?」

 やべ、気付いたか?取り敢えずしらばっくれて「ん?」と返事をしてみる。

「こっちの方角は須藤ん家だろ。お前あいつの家の近く、意図的に避けていただろ?」

 確かにそうだ。極力関わらないようにと、逆方向をコースにしたのだから。

 そりゃ不審に思うだろう。いきなりのコース変更。しかも朋美の家の近く。だが、大義名分で距離を伸ばすと言ってある。

「今はあいつ、入院中だろ。だからだよ」

「入院中だから鉢合わせする事は無いってか?まあそうだがよ、慎重っつうか、臆病なお前らしくねぇよな」

「臆病って…否定はしないけどさ」

 ビビッていると思われても仕方ないが、別の理由も当然ある。

 朋美を目の前にしたら、ぶち砕かない自信が無いからだ。

「ま、いいけどよ。実際入院中だしな」

 こいつの良い所は、あんま深く考えない所だ。要するにちょろい。

 そうこう話している内に朋美の家の近くに来た。近所だから、簡単に早く着く。

 そこで俺はペースを落とした。

「なんだぁ?やっぱ気になるのか?」

 ヒロが都合良くからかう。

「まあな。もしあそこに朋美が居たらなぁ、と思うと、ゾッとするよな」

 朋美の部屋に視線を向けながら言うと釣られてヒロも二階の方向を見た。

「……確かにな。今にもあの窓から須藤が顔を見せそうだぜ。カーテンを閉め切っていやがるから、妄想が捗るよな」

 そのカーテンの向こうに…とかな。と苦笑いを浮かべる。

「ん?」

 ヒロが何かに気付いたように二階を凝視し始めた。

「なんだ?」

「いや…今カーテンが揺れたような…」

「空調だろ?」

「人が居ないのに空調を効かせてんのか?」

 不審に思ってきたヒロ。此処までは俺の狙い通り、此処からは本当にアドリブだ。

「……ちょっと見ていくか?」

 同意を促すように言うと、ヒロは迷わず頷いた。

「つっても多分、組の若い奴に部屋を貸したんだろうけどな」

「朋美はお嬢だぞ?チンピラに娘の部屋は貸さないだろ?」

 それもそうだと同意する。そうなると、気のせいが有力になるのだが。

「ちょっと待て…またカーテンが揺らいだぞ…」

 今度は俺にも見えた。カーテンに手を掛けたように揺れたのが。

 息を潜めて身を屈ませて凝視する…

 それから五分後。

「……良く考えたらよ、須藤が万が一、億が一あそこに居たとしても、いや、それもファンタジーなんだけどな。まあ、それは置いておいて、あいつがこんな朝早く起きるのか?」

 朋美は決して早起きじゃ無い。入院する前は俺のロードワークの時間は、まだ夢の中だった筈。

 それでも、俺は飽きる事無く凝視した。

 せめて家の人が外に出て来るまでは粘ろうと思っていた。

 それから少し経過し、飽きてきたヒロが言う。

「朝早くから居もしない奴の部屋見ていてもしょうがねえよ。もう行こうぜ」

 居ないと確信したのなら俺も同意だが…

「さっきカーテンが揺れた時は、誰かが手を掛けたように見えただろ」

「それは…誰かが空き部屋の管理で出入りしていたんだろ?掃除か何かでカーテンに手が触れたんじゃねえのか?」

「こんな朝早くに掃除?」

 俺の反論に言葉を返せないヒロ。しかし、やはり朋美が居るとは思えないようだった。

「……お前、何か知ってんのか?」

「知っているっつうか、新学期始まってから何か変な感じなんだよ。噂とかな」

「……佐伯の事は、もうお前も聞いたのかよ…」

 アホだなこいつ。お前が青木さんに言ったから、俺の耳に届いたんだが。

 俺は頷いて肯定しながらも付け加えた。

「それだけじゃ無い。楠木さんの昔の事も、今更噂で流れている」

「……そっか…」

 ヒロはあからさまに安堵した表情になる。

「なんだ?」

「いや…優が心配していたからさ。槙原が疑われてんじゃねぇか、って…」

 確かに、半端に槙原さんを知っている奴なら、いの一番に疑うだろう。

「槙原さんならこんな焦ったように動かないよ。もっと上手くやる」

「……それも計算の内って思われるかも、とか言っていたけど…」

 疑われた私可哀想、だから同情してください。って策略も確かに疑ったが、それは寧ろ朋美とか楠木さんの方が得意そうだしな。

「だから、槙原さんの疑いを晴らしたいから此処に居るんだろうが。お前の彼女の友達の為だ。お前も協力しろ」

「……協力は吝かじゃないし、槙原云々関係無く、お前が協力しろっつうなら勿論するけどよ、須藤があそこに居るっつうのがファンタジー過ぎてどうもな…」

 ヒロは病院に居ると信じているし、脱走した朋美が連れ戻された事も掴んでいる。

 なので、実家に居るなんて考えもつかないんだろう。俺も夢で見ていなければ、わざわざ確かめには来なかった。実の所、ただの夢の可能性の方がデカいと思う。

 それでも俺は部屋を見続けた。

 単なる夢の可能性の方がデカいと言ったが、そうじゃない。あれは以前麻美と話したり、麻美と誰かの会話を聞いたりしたのと同種の物だ。

 証拠に俺は比較的簡単に受け入れている。ああ、またか。みたいな感じで。

 ヒロは飽きているのか、さっきから欠伸が絶えない。

「なあ隆、もうロードワークは諦めるとしても、そろそろ組のモンが出てきそうだぞ」

 時計を見ると、6時30分。家の中では朝飯の支度もしているだろうし、そろそろ誰かが外に出て掃除してもおかしくは無い時間だ。

 諦めるか。今日を逃しても毎日通えばいつかは…

 立ち上がろうとした俺。

 だが、それをヒロが肩に手を掛けて止めた。

「なんだ?」

「……お前の読み…ビンゴだ…」

 信じられんと言った顔で固まりながら、絞り出すようにヒロが言う。

 再び窓を見る。

「……カーテンが開いているな…」

 そうは言っても、拳一つ程度だが。

「あそこから何か見えたのか?」

 頷くヒロ。心なしか青ざめている。

「何つうか…幽霊か見間違えかと思ったが…」

 その情報で充分過ぎる。新学期が始まる前に、病院で朋美を見たときの、俺の感想と一緒だ。

「……やっぱ居やがったか…」

 ゾクゾクした。身体も小刻みに震えた。

 おっかねえ…って感じじゃ無い。

 漸く、後手に回らずに先んじた。

 その興奮と言うか、光明が見えたような感覚と言うか…

 俺は知らず知らずのうちに拳を握り固める。

 何とかやれそうだ。いや、やるんだ。その決意が、俺のバックボーンの拳に現れたのだ。

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