第5話 鶴島 亀三

 翌日、土曜日の昼下がり。十一月下旬になった秋空の日差しが和らいでいて、冷たい冬の風が舞っていく。俺は冷たい空気に身をさらし、身震いしながら、亀三に会いに行くことにした。


 亀三の家は、この鶴亀荘から三軒置いた右隣にある一軒家であった。古い旧家を思わせる木畳平屋の黒瓦屋根の家。植木に囲まれた敷地は広そうである。俺は、立派な門をくぐり、玄関脇に設置されているインターフォンを鳴らした。


 軽快はインターフォンの音が家の中に響く。やがて、小走りに板張りを踏む音が聞こえ、引き戸から顔を覗かせたのは七十を過ぎたであろう、白髪交じりの髪を後ろに結った小奇麗なご婦人であった。


「あ、どうも、こんにちは。僕、鶴亀荘の二○二号に住んでおります、日沖っていいます。あの亀三さんは、ご在宅でしょうか?」


と、俺は他人行儀に言ってみたのだが、婦人は少々耳が遠いのだろうか、妙な面持ちで首を傾げている。俺はもう一度、少しだけトーンを上げ


「あ、あのう、鶴亀荘に住んでいる日沖と申します。ご主人、ご在宅でしょうか?」


と言ってみたのだが、婦人は意外な言葉を口にした。


「あのう、すみませんけど、主人はもう、この世にはおりません。主人に何か御用があったんですか?」


「えっ?それは、どういう事ですか?」


「ええ、ですから、亀三は三年前に病で亡くなったんです」


俺の頭の中は真っ白になった。


(そんな馬鹿な!亀三さんには、この春先に会ったばかりじゃないか)


俺は思わず、背筋に悪寒を感じた。


「いや・・でも、僕は、この春に亀三さんに、お会いしたばかりなんですけど・・」


「ああ、それは、アレですね。主人の霊です」


「えっ?!」


キッパリ言い放つご婦人に俺は絶句した。そんなハッキリ言うものなんだろうか、普通。


「な、なんで、そんなに、はっきり言うんですか!普通、入居者に隠すでしょ!それに、そう言う情報は、入居者に事前に話さなければいけない事項じゃないんですか!」


と、俺は甲高に叫んだ。だが、ご婦人は全くひるむことなく、


「それはありませんよ。だって、あのアパートで主人が亡くなったわけじゃないんですから。ただ、まれに主人の霊を見られる方がいらっしゃるんですよ。でも、そういう体質ですからね。こればかりは仕方ないですよね?」


「ああ、まあ、確かにそうですけど・・」


俺は口ごもる。婦人は不思議そうに俺を見つめながら


「それで、何か主人の霊に言われたとか、そういうことでいらしたんですか?」


「いえ、そうじゃないんですが、あの部屋について、ちょっと伺いたい事がありまして・・」


「ああ、二○二号室でしたっけ?あの部屋には、ちょっと変わったものがありましたね」


婦人は何か思い出したように頷いた。


「それって、押入れの壁に描かれた絵の事ですよね?」


「ええ、そうです。あの絵についてですか?」


俺は大きく頷いた。婦人は深い溜息を吐き出して続ける。


「ああ、あの絵はですね。ウチの主人が生前に描いたんですけどね。よりによって、何で借家のアパートに行って、あんな押入れの奥に描いたのか、私には全く判らないんですよ」


「えっ?そうなんですか?やっぱり、あの絵は、亀三さんが描かれたんですね?」


「ええ、そうなんですよ。だがら、三年前に主人が亡くなって、あんなところに変な絵を残すのも嫌じゃないですか。それで何度か、いろんな業者を呼んで消そうと試みたんですけどね」


深い溜息に包まれる。俺も息を潜めて聞き入る。


「これがまた、何で描いたのか判らないですけど、全然、消せないんですよ。もう、仕方ないから壁ごと壊してやろうかって思ったんですけど、隣の壁も壊れちゃうと隣に住んで居る方に迷惑が掛かるんで、諦めたんですよ」


ご婦人は、やれやれと言った感じのため息をついた。ただ、壊してやろうとまで思い詰めるとは、よほど、嫌な思い出でもあるのかもしれない。


「なるほど、そうですか。あの、大変、不躾ぶしつけな質問なんですけど」


「なんでしょう?」


「あの絵の他に、背が高くて長髪の男性がフットサルをしている絵って、ご存じないでしょうか?」


と、俺が聞くとご婦人は思い当たる節があるようで


「ああ、あの絵ですか?アレなら、クレンザーで落としてやりましたよ」


「えっ?その絵は消せたんですか?」


「あれは簡単でしたね。多分、嫌いだったんでしょう」


「へっ?誰がです?」


「主人が、です」


俺の中に疑問符が沸いた。


「それは、つまり、亀三さんがその絵を嫌いだったから消せたと?」


「ええ、そうです。アッチの消せない女の絵にしか興味が無かったんだと思います」


「なるほど・・、ちなみにその絵は何処に描いてあったんですか?」


「確か、あの絵は女の絵の奥側に描いてありましたよ。もう、真っ白になってませんでした?」


俺は大きく頷き、得心した。引っ越した当初、クレインの絵が描かれた更に奥の壁が、やたらと白い事が気になっていたのだが、そういうことなのだ。


「ああ、確かにありましたね。判りました。どうもお忙しい中、有難う御座いました」


「どういたしまして」


 俺は婦人に礼を言うと、そそくさと自分の部屋へと戻り、夜を待った。そして、深夜二時半。俺が襖を開けると、何と、そこには亀三さんが正座して座っているではないか。


「わっ!亀三さん、一体、どうしたんですか!」


俺は心臓が口から飛び出るほど驚いた。


「ああ、君か。悪いなぁ。ワシがハッキリさせんかった、ばっかりに迷惑かけてもうて」


「いや、そりゃ、どういうことです?」


「それがなぁ、ほんまはなぁ、ワシが君に乗り移れるか試してたんや」


「はあ?どういう事です?」


 俺の頭の中は雀の巣のようにクシャクシャになっていく。


「だから、ワシが君に乗り移ってやな、この壁に絵を描こうと思ってんねん」


「ああ、なるほど・・・って!何で俺に乗り移るんですか!」


「そうせな、描けんがな。じゃあ、そろそろ時間無いんで、乗り移るで」


「何を勝手な事を・・・。ああっ!」


 俺の意識が遠のいていく。ああ、このまま、何処へ行くんだろう。俺は薄れゆく意識の中で、クレインの事が気がかりだった。


 暫くして、俺は意識を取り戻した。両手に油絵の具がベタベタとまとわりついている。俺が顔を上げると、目の前にはフットサルをする背の高いカッコいい男性の絵が完成していた。右の壁に描かれたクレインが俺に話し掛けてくる。


「ああ、拓真。ほんま、おおきに。ようやくダーリンに再会できたで」


「ああ、それは良かったな」


「あ、これ、ほんの御礼や」


そう言って、クレインは色とりどりに編み込まれたミサンガを差し出した。


「これ、クレインが織ってくれたの?」


「ああ、まあ、そうや。これなぁ、こうやって願いを込めながら手にはめて、もし切れたら願いが叶うねんで」


 クレインは両手で拝む仕草をしながら、俺に手渡した。まあ、ミサンガは知っているが、クレインの仕草が可愛く思えた。


「確かに、そうかもね」


「ほんじゃ、まあ、ありがとな。これでお別れや」


「えっ!クレイン、何処へ行こうっていうんだ?」


「今からダーリンと二人で新婚旅行するんや」


 そう言って、隣のダーリンの絵と手を取り合うと、絵の中の荒野の彼方へと揃って消えていった。


 いくら絵とはいえ、あまりに素っ気ないことだ。俺は、数か月に及ぶクレインとのやり取りの数々を走馬灯のように思い出し、正直、絵にフラれるというショッキングな感傷に浸りながら、頬は涙で濡れていったのである。

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