エピローグ 溝の口で会いましょう

 春。新生活への期待に胸を膨らませる人が増える季節だ。学生であれ社会人であれ、この時期はどこか浮ついた気持になる。最近は船江が「そろそろ桜が咲くって老嶺さんが言ってたぞ」と言っていただけあって、この溝の口にも道路の至る所に桜の花びらが落ちているのが見れるようになった。


あれから、意識を失った山火さやは救急車で搬送され、病院に連れられた。僕と船江は通りすがりの一般人という体で話をしたので、彼女に付き添う事は無かった。明日香に聞いたところ、どうやら無事に目を覚ましたらしい。完全に記憶喪失の状態だったようで、答えられるのは自分の名前だけ、といった有様だったそうだ。だからと言って僕に出来ることは何もないし、何かをしようとも思わない。


 そして、僕の日常も変わらなかった。西萩相談事務所は相変わらず人外と怪異の相談事に耳を傾けているし、船江は僕に憑いているらしい何かを平手で祓ってくる。殴ってくると言い換えてもいいかもしれない。行方不明になっていた怪異たちは、みんな帰ってきたらしい。ゆきちゃんがしろさんと挨拶に来てくれて安心した記憶がある。つまるところ、溝の口にはいつも通りの平和が戻ってきたわけだ。


 で、僕は今、事務所までの道を全力で走っていた。イヤホンマイクからは船江の説教が聞こえてくる。


「お前は仕事する気あるのか」

「ごめんって! だって目が覚めたら昼だったんだよ!」

「それを寝坊って言うんだよ馬鹿」

「今急いで向かってるから!」


 閉まりかけの踏切をくぐり、足を止めずにひたすら動かす。直す暇のなかった寝癖が後頭部で跳ねた。その間にも、船江の小言は続いている。


「大体な、目覚ましかけてたら起きるだろ普通」

「昨日夜更かししたから……」

「お前は学生か? 何してたんだよ」

「ホラー映画見てた」

「もうお前社会人辞めろ」


 溝の口の喧騒の中を駆けながら、僕は春の日差しに目を細めた。きっとこれからも、溝の口の西萩相談事務所はこうやって続いていくんだろう。


 奔る視界の隅で、黒い長髪が躍った。


「っとと」


 思わず立ち止まり、その主を目で追う。何処にでもいそうな、見知らぬ女学生だ。隣に立つ友達と思わしい少女と仲良く談笑している。僕は目をこすって、事務所に急いだ。


「あ、そういえば今日バイトの子の面接予定なんだけど来てる?」

「は?」

「あれ、言ってなかった?」

「聞いてない」

「言ったと思ったんだけどな……」


 雑居ビルの階段を登りながらそう言うと、船江は明らかに苛立った声でため息を吐いた。扉を開ければ、イヤホンと船江本人の声がシンクロして耳に届く。


「遅い」

「ごめんってば。まだ来てない? セーフ?」

「来てないがアウトだ馬鹿。バイトなんて聞いてないぞ俺は」

「すっかり忘れてた」

「ふざけんなポンコツ」


 酷く不機嫌そうな船江に、僕は誤魔化すように笑うしかない。鞄とジャケットを自分のデスクに置いた時、事務所のインターホンが鳴った。


「あ、はーい」


 小走りになって扉に近付き、ゆっくりと開く。そこには、緊張した面持ちの少年が鞄のストラップを握りしめて立っていた。


「あ、あの、お電話したバイト志望の川越です」

「君がバイトくんか。





ようこそ、西萩相談事務所へ」






 結局のところ、不可思議な事件も多いけれど、基本的に溝の口は平和なのだ。

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