水面の少年

高岡ミヅキ

第1話 水面の少年

 水面の少年のお話をしましょう。

 彼は、今ではそう呼ばれているけれど、私がまだ小さい頃は、真っ暗森の池に住む悪魔と呼ばれていたのよ。悪魔を恐れた町の人々は、誰一人、真っ暗森には近づかなかった。でも、池に住むという悪魔がどんなものか見てみたいじゃない。だからある日、テテという女の子が悪魔に会いに真っ暗森に行ったの。


 真っ暗森はどこまでも真っ暗で自分の足元さえ見えないの。それに音もしない。暖かくも寒くもない。だから自分がどこをどうやって歩いているのかわからない。テテは本当に怖くてたまらなかった。

 それが突然、明るい場所に出たと思うと、そこに池があった。テテは「これだ!」と思った。でも悪魔の住むような池には見えなかった。だって、池の水は底まで見えるほど透明で、水面の波紋が鈴の音を立てて柔らかく広がっていく。それは美しい池だった。

 すると、池の水が静かにテテに向かって波立てて集まってきた。それが立ち上がると、水は人の形になってテテを見下ろしたの。水だから、体の向こうが透けて空が見えるし、森が見えるの。

「君は誰?」

 人の形をした水の喉にポコポコ泡が立って、そこから男の子の声が聞こえたの。この人がしゃべっているのね。テテはそう思った。

「私はテテ。あなたが池に住む悪魔さん?」

「確かに、町の人は僕を見ると悪魔だ!って言いながら帰ってしまうんだ。でも僕は悪魔じゃないよ。悪いことはしないもの」

「じゃあ、あなたは何をするの?」

「雲になって、雨になって、虹を作るんだ。そうしていつも一人で遊んでる」

 それは寂し気な声だった。ポコポコと泡立つ音も、池の水がちゃぷんと鳴る音も、一人でずっとこの池の中だけで過ごしてきた心の音のようだった。

「それなら、私と一緒に遊びましょう。私と秘密の友達になって、悪魔さん」

「僕はウォルタ。一緒に遊ぼう、テテ」

 こうして二人は秘密の友達になったの。

 それから二人は毎日一緒。お日さまの光が池に差し込む間だけ、二人きりで遊んでいたの。ウォルタは池の水を集めて玉を作ったり、小さな雲を作って、シャワーみたいな雨を降らせて虹を作ったわ。とっても楽しくて素敵な時間だった。

 テテはウォルタと遊んで帰ってくると、いつもびしょびしょに濡れて帰ってきたわ。すると、テテの妹が

「またびしょびしょになって帰ってきた!汚いお姉ちゃん」

 そう言って笑ったの。それが毎日毎日続くと、テテはお家にいるのが嫌になった。

 ある日、テテは小さな荷物を持ってウォルタのところに遊びに行った。初めて家出をしたの。テテはウォルタに言ったわ。

「これからは、一緒にここに住む」

 ウォルタはとても喜んだ。その日もいつものように二人で遊んでいたけれど、夕暮れ時になって、ウォルタがテテにこう言った。

「一緒にいられることはとても嬉しいけれど、やっぱりお家にお帰り。妹もママもパパも、何も言わずにテテがいなくなったら寂しくて、不安になるから」

 そう言うと、ウォルタはテテの荷物からコップを出して、池の水をすくって入れた。コップの中の水は、池に立つウォルタのようにもこもこと集まって小さな人の形になった。

「小さな僕と一緒にお家に帰ろう」

 テテは喜んで、コップを持って真っ暗森を出ていった。もう日も沈んでいたから、外は森のように真っ暗だった。すると、ママやパパ、大人の人たちがテテを探し回っていたから、テテは森を出てすぐに町の人にお家まで送ってもらったの。

 家に帰ると、ママやパパは「心配したじゃない」「どこに行ってたの」と怖い声でテテを怒鳴った。テテはそんな言葉も聞かずに、すぐに自分のお部屋に入って、窓際にコップを置いたの。そこでコップの中の小さなウォルタとお話をしたわ。家族のこと、生活のこと、好きなものや、将来の夢なんかをね。テテはウォルタと楽しく過ごしていたかった。

 そんなテテをママはとても心配していたの。なぜなら、テテの様子がとても変わってしまったから。

「テテ、今日は誰とどこで遊ぶの」

「誰にも教えないよ」

 そうして夕方に帰ってくると、テテはずぶぬれ泥だらけで、そのままお部屋に一直線。夕飯の時以外、お部屋からは出てこなくなった。お部屋で何をしているのかこっそりのぞいてみると、テテはお部屋の中で一人でコップとお話しているの。お家ではコップについだお水を飲まなくなったし、雨の日は外で誰かとおしゃべりをしながら一人で踊っているの。

 ママは、テテの帰りが遅かった日、最初にテテを見つけてくれた人に話を聞きました。

「テテはどこで見つかりましたか」

「真っ暗森の方から一人で歩いてきたんだよ」

 それを聞いて、ママはとても怖くなりました。真っ暗森には池があって、そこに悪魔がいるから町の人は誰も近づかないのだと、ママが小さい頃から聞かされていたからです。

 次の日、ママはパパと一緒にテテが遊びに行くところを後ろから静かについて行きました。テテは町を抜け、川を越え、そして真っ暗森へ入って行きました。パパもママも怖い気持ちを我慢して、森に入ります。

 テテは慣れたようにとんとん進んで行く。すると、突然明るいところに出ました。そこには、人の形をした水が立ち上がる池があり、それがテテを両手で抱きしめているのです。

 二人はウォルタを見て驚きました。池に住む悪魔を初めて見たのですから。そしてパパがテテを掴んでウォルタから離し、町へと帰って行きました。テテはわんわん泣いてパパを叩きました。ママも泣きながらパパに手を引いてもらってお家に帰ります。ママは一言、

「テテが悪魔に取りつかれていたなんて」

 そう言いました。

 テテはそれからお家を出してはもらえなかった。テテはずっと自分の部屋の中で泣いていた。コップの中のウォルタだけがテテを優しくなでてくれたの。

「もう二度とあなたに会いに行けないかもしれない。そんなの嫌だ。ウォルタと遊びたい。会いたいよ」

「僕もまたテテと遊びたいな。一人は寂しいもの」

「ママがあなたのことを悪魔と言ったわ。ウォルタはとっても優しい私の友達なのに、ひどいことを言って、ごめんなさい」

「ありがとう、テテ。僕は大丈夫」

「私はウォルタが大好きよ」

「僕も大好きだよ」

 月明かりに照らされる窓際で、二人は小さなキスをしたわ。とっても冷たくて、優しい秘密のキスを。

 その頃、テテの知らないところで、町の大人たちがそれぞれ武器や松明を持って真っ暗森に向かっていた。パパが皆に声をかけてウォルタを退治しに行こうとしていたの。もちろん、テテには内緒にしていた。

 真っ暗森の中では、松明の火は明かりにならない。パパが先頭を歩ていくけれど、大人たちは、自分がどこを歩いているのか何もわからなかった。周りに何があるかも見えなくて、誰かの松明が木に火をつけてしまっていたことも、誰も気づかずに歩いていた。

 すると突然明るい場所に着いた。そこには池があり、ウォルタが池から立ち上がっていた。大人たちはとても恐ろしかった。

「僕は悪いことは何もしていないよ。これからは、一人でここで静かにしているから、どうかいじめないで。テテを外に出してあげて」

 大人たちはウォルタの声を信じません。悪い悪魔だと思っているから、嫌がるウォルタに剣を振り上げたり、松明を向けたりした。

 その時、森から真っ黒な煙が上がり始めた。木々が燃えだし、池の周りにも徐々に火が広がっていく。大人たちは帰る道を失ったと思った。

 その時、ウォルタがぐるっと大人達を囲むと、そのまま大人たちを水の体の中に入れ込んで森から外へと流し出した。大人たちはびしょびしょに濡れたが、森の外に出ることができて安心した。しかし、森の火はどんどん大きくなっていく。

 その日は森の奥から町に向かって風が強く吹いていた。このままでは、火は町まで燃え広がるかもしれない。それに気づいたテテのお部屋にいた小さなウォルタは、体を森の方に向けていた。

「テテ、森で火事が起こってる。このままだと、町にも火がきてしまう。早く家族の皆とお逃げ」

 テテのお部屋にあるコップの中の小さなウォルタが言った。

「森の池は、ウォルタは大丈夫なの?」

「森は僕の友達なんだ。だから、僕は池の水を全部使って火を消そうと思うんだ」

「そしたらウォルタはどうなるの」

「池の水が全部川に流れていくから、一緒に川に流れていくんだよ。少しの間、テテとはお別れだ」

「お別れなんて嫌だよ」

 テテはコップを持って外へ走り出した。ママが掴んだ手を強引に引き離し、武器や松明を持ってびしょびしょになっ大人たちの横を走り抜け、町を離れ、川までくると、森に火が広がっているのがよく見えた。風は熱くて、燃えた木の葉が舞っている。

「お願いウォルタ。どうか行かないで。私はあなたが大好きなの」

「テテ、僕も大好きだ」

 すると森の上に大きな水が立ち上がり、空いっぱいに傘のように広がると、一気に森へと落ちていった。

 バシャーン、ジュワジュワと音がすると森からは黒い煙が立ち、テテのいる川の方へ大量の水が押し寄せてきた。

 水はものすごい勢いでテテを飲み込んだ。けれど、テテが川に押し流されることはなかった。水の中で、テテはウォルタに抱きしめられていた。

「ウォルタはこれからどうなるの」

「川に流されたら、いつか海に着くと思うんだ。そうしたら、雲になって、雨になって、虹を作るんだ。そして、いつかあの池に戻るんだよ」

「川にも、海にも、空にも、虹にも、ウォルタはいるのね」

「そうだよ。ずっとずっといるんだよ。そうして少しずつ、あの池に戻っていくんだ」

「じゃあ、私と約束して。池に戻ったその時は、また一緒に遊びましょう、ウォルタ」

「約束しよう。それまで、少しだけお別れだ。許しておくれ」

「いいよ。いってらっしゃい、大好きなウォルタ」

「大好きなテテ、ありがとう」

 テテを抱きしめるウォルタはいつもより暖かかった。ウォルタはそのまま川へ流れていった。森を見てみると、火は消され、裸の黒焦げ木々が広がるばかりだった。

 テテの握るコップの中は、空っぽになっていた。


 それから大人たちは森を綺麗にして、木々を植えた。あんなに恐れていた池だけど、大人たちは池の跡を残しておいた。そうしてテテが大人になる頃には青々とした明るい森になっていた。

 それから、ウォルタは火事から人々を救った「水面の少年」と呼ばれるようになり、ウォルタのいた池の跡は何十年経った今でも、大切に守られているのよ。


 森の池は、今も少しずつ、雨水を貯めこんでいるの。

 私はすっかりおばあちゃんになってしまったけれど、いつかきっと、ウォルタとまた遊ぶのよ。

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