チョコレートケーキ
俺が京と一緒にいるようになったのは、半年ほど前からのことだ。
中学は一緒だったが、話す機会はなかった。高校では知らない人ばかりだったため、「数少ない知っている人」として認識はしていたものの、キャラの違いもあって関わることは全くなかった。
ある日を境に京は学校に来なくなった。周りから否応なしに流れてくる噂によると、ソフトボール部の試合中に怪我をしたとのことだった。
俺にとって京の怪我は遠い外国の紛争みたいなもので、大変そうだとは思うものの、助けてあげようとか胸が痛くなる程悲しいとかは思わなかった。
「おい、中村。城ケ崎と家近かったよな?」
担任に声をかけられたのは、そんなことを考えていたときだった。
「まあ、方向は同じかと」
「じゃあ、城ケ崎の家にこれ持って行ってもらえるか」
先生が俺に渡した封筒には紙の束が入っていた。おそらく、休んだ間の課題とかだろう。
「場所はわかるか」
「じゃあ、これも渡しとくな」
それは城ケ崎家の場所が書かれた地図だった。
京の家は駅からしばらく歩いた住宅街にあり、俺の家からでも歩いていける距離だった。
「じゃあ、よろしくな。頼んだぞ」
「はあ」
関係ないことに巻き込まれた気分だった。
もっと他の、仲の良さそうなやつに頼めばいいのにとも思った。
「はい、城ケ崎です」
京の家のインターホンから聴こえてきた声は、若い女性の声だった。
「京さんと同じクラスの中村と言います。プリントを届けに来ました」
「あら、ありがとね。ちょっと待ってて」
程なくして玄関のドアが開き、そこから女性が出てきた。
外見はお姉さんのようでもあり、その落ち着きぶりはお母さんのようでもあった。
あとで分かることだが、この女性が京の母親の春乃さんだった。
「あの、本当にできたらでいいんだけど」
春乃さんが差し出したその手にはメモ用紙が握られていた。
「それ、京が入院してる病院の名前と病室の番号だから。良かったら、会ってあげて。あの子、暇してると思うから」
その頼みには困惑した。ほとんど面識のない女子の見舞いに行くなんて。行ったとしても気まずくなるだけだ。行っても仕方がないだろう。春乃さんの目の前では、分かりましたと言ったけど、本当は行かない方が良いんじゃないかと思っていた。
次の日、授業中に京の席を見ていると、ベッドで独りぼうっとしている京の姿が目に浮かんだ。
俺にとって、京が怪我をしたことは関係の無いことで、京の心配をするのはもっと仲の良さそうな、毎日充実してそうな人たちの役目だった。
でも、京が抱いている感情を、俺はよく知っていた。
「関係なくなんてない」
そのたった一つの共通点さえあれば、俺が見舞いに行く理由には十分だった。
俺は京のいる病院へ向かった。
俺にその資格があるかは分からない。もしかしたら、拒絶されるかもしれない。
悪いことが次々と浮かんでは消え、消えた所には京が独りでいる姿だけが残った。
「初めまして、中村夕です」
京の前に立った時、俺がかけた言葉はそれだけだった。色々考えすぎて、それしか言えなかった。
「へえ、ゆうって言うんだ」
京が俺の方をちらと見たとき、身体の奥底から何かが溢れ出してくるようだった。
「えっと、夕方の夕でゆうって読むんだけど」
「ふっ、そのまんまじゃん」
京が笑ったその顔は、普段教室で見る城ケ崎京とはまったく違っていて、俺はどこか儚げなその顔をただ茫然と見ていた。
それから、俺は京に毎日会いに行った。他愛もない話をしたり、勉強を教えたりもした。初めはおどおどしながら通っていたが、京が自然な様子で話すのを見て、段々と緊張もしなくなった。
「中村」
リハビリも順調に進んで、もうすぐで退院できそうな頃、京は小さな声で俺を呼んだ。
「なに」
「辞めようと思うんだ。部活」
いつもは平然としている京が感情を殺していた。悲しみを抑えるために、無感情を装っているようだった。
「そっか」
「ああ。医者に言われてさ、退院しても走ったりはできないって」
「残念だね」
「だからさ、相手してくれよ。キャッチボールの」
「うん」
俺と京が交わした約束はそれだけだった。別に、友達になってくださいとか付き合ってくださいとか、そんなはっきりしたものじゃない。でも、京が退院してからも俺は毎日のように京と一緒にいた。一緒にいることに対して、特別な感情はなく、ただなんとなく一緒にいるだけだった。
いつしか、俺は「城ケ崎さん」から「京」、京は「中村」から「夕」とお互いを呼ぶようになった。
「なあ、夕―これやるから代わりにチョコレートケーキくれよ」
「は?」
その年のバレンタイン、京は円錐形のチョコをくれた。先がピンク色のやつだ。
「いや、なんか私だけがあげるのっておかしくないか? 私もチョコ食べたいし!」
「おかしいもなにも、そういうもんだろ」
「えーっ、食べたいなあー夕のチョコレートケーキ」
京のよく分からない理屈で俺は京にチョコレートケーキを作らされた。京は無茶ぶりのつもりだったんだろうが、お菓子作りはたまにするし、なんてことはなかった。
「いや、まさか夕がケーキ作れるとは思わなかったなー」
「俺も京が甘いもの好きだとは思わなかった」
京は実にうまそうにチョコレートケーキを食べた。どうして大量のケーキを食べてもあの細身を維持できるのかは、今でも不思議でならない。
「なあ、これってどういうチョコなんだ? 義理か?」
「んー? 夕、友チョコって知らないのか? 友達はお互いにチョコをあげるんだぞ?」
この時、俺は京と友達になっていたのだと気付いた。よく分からない成り行きの関係に名前が付いた。俺は友達がどうやってできるのかを初めて知った。
*
「京!」
街路樹の立ち並ぶいつもの道を走る。どこにも京らしき人影は見つからない。今にもひょっこり顔を出して、へらへらと笑って現れるのではないか、そんな気がしたが京はどこにもいなかった。
「どこに行ったんだ」
息を上げて走っているうちに駅まで来てしまっていた。駅前にはぽつぽつと人の姿があるものの、車の走る音だけが響き、寂しげな雰囲気に包まれていた。ここで待っていれば、いつか来るのだろうか。しばらく、立ち尽くしていると携帯電話が震えた。
「もしもし、夕くん?」
「はい。春乃さん、見つかりましたか?」
「ううん。でも、もう遅いし夕くんは帰ってゆっくり休んで。大丈夫、あの子ならすぐ帰ってくるから」
「いや、でも」
「いいから、無理しないで。ちゃんと帰りなさいね」
言い返す間もなく電話は切られてしまった。俺は帰るべきなのだろうか。京は今もどこかに独りでいるかもしれないのに。
意地みたいなものがあるのかもしれない。京を俺が探し出したいという意地が。
京はどこにいるのだろう。きっと、俺なら見つけられるはずだ。俺なら分かる場所に京はいる。根拠はないが確信があった。
「行ってみるか」
再び駅から走り出す。京の携帯電話にはさっきから何度もかけているが、一向に繋がらない。繋がらないのか、繋げたくないのか。
走り続けたせいで、汗がじんわりと滲む。日頃の運動不足がたたって足はさっきよりも重くなった。でも、止まるわけにはいかない。京はきっとそこにいる。俺が、俺が見つけ出さないと。
「はあっ、あと少し」
河川敷を真っすぐ走り抜け、目的地が見えた。目の前に見える大きな橋の下、きっとあそこに京はいる。
「京!」
息も絶え絶えになりながら叫んだ。願いを込めるように、思いが形になるように。
「夕」
橋の下から京が驚いた顔をして出てきたとき、何かに押し出されるようにして俺は駆け寄り、抱きしめた。京から微かに匂うレモンの香りはいつもと変わらないはずなのに、まるで初めて嗅いだ香りのようで、どきりと身体が強張った。
「おい、夕、どうしたんだよ。なんでここに」
「京の方こそ、なにしてたんだよ」
「あー、なんか家にもいたくないし、とりあえずここなら壁当てくらいはできるから」
京の手にはグローブとボールが握られていた。橋台の側壁にでもぶつけていたのだろう。
「でも、なんでこんな時間まで。春乃さん心配してたぞ」
「そっか、連絡してなかったもんな。うん、あとで謝っとく」
京からいつもの元気が消え失せていた。なんでそんなに元気ないんだよ、どうしたんだよ、訊きたかったが訊けなかった。手を握りたい、でも握れない。さっきは抱きしめたりしたのに。今は何も出来ずに家へと戻る京の後ろ姿を眺めることしかできなかった。
*
「はぁー、相変わらず空は青いなあー」
「ちょっとー、ため息つくなら、もうおかずあげないよ」
佐々木さんといるのに、頭の中は京のことばかり考えていた。今朝の京はいつも通りただの明るくて騒がしいやつだった。なんで昨日はあんなことをしたんだろう。あの夜の京が頭から離れなかった。
「夕くん? どうしたの?」
佐々木さんが顔を覗き込む。少しぼうっとし過ぎたかもしれない。
「いや、なんでもないよ」
「そう?」
本当は今にでも京と話をしたかった。なんであんな所に独りでいたのか、訊きたかった。
「今日の帰り、ちょっと用事があるから一緒に帰れない。ごめん」
「用事?」
「うん、ごめん」
「いいよ、謝らなくて」
学校を出ると、駅まで向かって京を待つ。しばらくすると、京の姿が見える。男子と変わらない身長に短い髪。遠くからでも京はすぐに目に付いた。
「あれ、どうしたんだよ。佐々木さんは?」
京は不思議そうな顔をして首をかしげている。
「佐々木さんは一人で帰ったよ。京、今いい?」
「ん? あー、いいけど」
帰りながら、昨日のことを訊こうと思ったが、中々訊けないまま電車は目的の駅まで着いてしまった。京が明るく振舞うから、昨日のことは忘れてしまった方が良いように思えたのだ。
「なあ、夕」
駅から家への帰り道、京は真剣な表情で俺に話しかけた。
「もう、一緒にいるのやめた方が良いと思うんだ。だから、私のところに来るの、やめてくれないかな」
予想外の言葉に血の気が引いたようだった。寂しげな目をしながらも、はっきりとした京のその言葉は、確固たる京の意思を物語っていた。
「じゃあな、夕」
京が去っていくというのに、俺は返す言葉も見当たらずただ茫然としていた。なんで、なんでこうなった。俺はどうすればいい? 何と言えば、何と言えば良い?
言葉が指と指の間を滑り落ちていく。
また独りになった。そんな心地がした。
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