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「夕くん、帰ろっ」
放課後の教室を出ると、横から佐々木さんがひょっこり現れた。
「うん」
ちょっと照れながら俺の手を指先で握る彼女は、時折恥ずかしさから手を離すものの、一緒にいる時は付かず離れず横にいて幸せそうな顔をしている。
「あの、明日は土曜日だよね」
「ん? そうだね」
「よかったら、一緒に過ごしませんか……?」
帰り道で佐々木さんが言ったのはデートのことだった。たしかに、付き合い始めてからそれらしいことはしてない。
「いいよ、どこか行きたいとことかある?」
「動物園とか、ダメかな?」
「動物園……」
恐る恐るといった感じで佐々木さんが提案したのは、中々にデートらしい場所だ。京といたら間違いなく行くことはなかっただろう。
「嫌なら、他のところでも全然大丈夫だから!」
「いいんじゃないかな、動物園」
「本当ですか?」
佐々木さんの表情がぱあっと明るくなる。よほど行きたかったのだろう、動物園。
「長いこと行ってなかったけど、面白そうだし良いと思うよ」
「よかったあ。じゃあ、細かいことは後で連絡するね」
「うん、よろしく」
別れ際の佐々木さんはいつも以上に楽しそうに手を振っていた。
独り帰る途中、何とも可愛らしいその仕草を思い出すと、幸せで埋め尽くされそうだ。
*
「結構、人多いんだな」
「天気が良いからかもね」
すっかり春らしくなった土曜日、朝の動物園は中々の賑わいぶりだ。所々で子どもが叫び声を上げながら走り回っている。
「好きなの? 」
「ふぇっ? 何がですか?」
「動物」
「あっ、はい。好きです、動物」
ふらふらと歩いているうちに動物が見えてきた。手前にはサイ、奥にはゾウがいる。
「のんびりしてて可愛いなあ」
「可愛い、かな?」
「えーっ、可愛いよ!」
普段は小動物のように生きている佐々木さんだが、このときばかりは食い下がった。手をぱたぱたと動かして、サイやゾウの可愛さを訴えるその姿はなんだかおかしかった。
俺たちは動物たちに合わせるかのように、のんびりと園内を回った。佐々木さんはどの動物も皆愛らしいようで、動物を見つけては「可愛いなあ」とうっとりしていた。
「そろそろ、何か食べようか」
「ちょうど半分回ったし、いいかもね」
「どこか近くにあるかな、食べるとこ」
「えっと、たしかこの先にあったはず……」
佐々木さんの言う通り、すぐ近くにフードコートがあった。中は随分と人がひしめいていて、うまそうな匂いが漂ってくる。
「すごい人だな」
「だねー、どこか空いてるといいけど……あっ」
佐々木さんはさっと脇から飛び出すと、人と人の間を滑るようにして、あっという間に席を確保してしまった。満面の笑みでぴょんぴょん跳ねながらこっちに手を振っている。
「びっくりした」
「えへへ、こういうの得意だから」
立ち並ぶ店の一角で頼んだピザは溢れんばかりの具が乗っていて、佐々木さんはこぼさないように慎重に食べていた。一口食べては幸せそうな顔をするので、何となくずっとは見ていられず、たまに大きなガラス窓の向こういるフラミンゴを見て心を落ち着かせた。
「本当に動物好きなんだね」
「うん、夕くんは好き?」
「久しぶりに来たけど、なんか和むね」
和むのは動物だけじゃなくて、幸せそうな佐々木さんを見ているからでもあるんだけど。
「みんな可愛いでしょ?」
「佐々木さんがクマ好きなのはよく分かったよ」
「えっ、わかりました?」
「だって、ずっと見てたから」
「あれー、そんなに見てたかな」
クマゾーンの前にいるときの佐々木さんは、熱気みたいなものがそれまでと違う感じだった。子どもたちと一緒に上げる歓声はそれまでより一オクターブくらい高かったし、見入っている時間も長かった。
「楽しそうにじーっと見てたよ」
「ほんとに? 変な顔とかしてなかったよね?」
佐々木さんが手で顔を覆って恥ずかしがる。本当はクマへの愛で顔が蕩けていたけど、それは内緒だ。
「クマのどこが好きなの」
「クマっていうより、ツキノワグマが好きなの。もちろん、クマ全体も好きなんだけど、ツキノワグマは特別好き」
たしかに、言われてみればツキノワグマに視線が注がれてた気がする。
「ツキノワグマはね、耳が大きくてぺろってしてるの。特にここのツキノワグマは耳がまん丸で……好き」
佐々木さんがツキノワグマの世界に行っているのを見ていると、佐々木さんが動物園に行きたがったのも頷けた。
昼食を取った俺と佐々木さんは再び動物たちの中へと戻る。春の陽気とはいえ、午後の日差しは強く、じんわりと汗ばむようだ。ゴリラもみんなに見守られながら、日陰でぐうたらと寛いでいる。
「暑くなってきたね」
そう言いながらも、佐々木さんは猛禽舎のコンドルをまじまじと見ている。さすがの動物愛だ。
愛が暑さに負けてしまった俺は、日陰に隠れて遠巻きに佐々木さんを見ていることにした。
「……視線を感じる」
佐々木さんを見ているのは俺なのに、なぜか視線を感じる。辺りを見回しても、俺を見ているような人は見当たらない。
「ん? あっ、いた」
視線の主は全く目を逸らさず、じっと大きな目で俺を見つめていた。
「ホウ」
「ん」
視線の主の前にあるプレートには『ベンガルワシミミズク』と書いてある。名前通り、立派な山吹色をしている。
「ん」
「ホウ」
「んん」
「ホウホウ」
「んーんー」
「ホーウホーウ」
「なかなか話が分かるやつだ」
「何やってるの? 」
ミミズクとの対話に気を取られていたら、目の前に佐々木さんがいた。
「なるほど」
「ん?どうしたの? 」
「佐々木さんも目がまん丸だ」
「へっ? 」
佐々木さんの目はビー玉のように透明感があり、見ていると吸い込まれそうだ。光をいっぱいに吸い込んだその目は、くりくりとしていて丸い。
「可愛いものは目が丸い気がする」
「どういうこと? 」
「まあ、いっか。行こう」
ぽかんとしている佐々木さんの手を引いて歩き始める。振り向くと、ミミズクがウインクしていた。
*
動物園を出るころには、すっかり日は陰り初めていた。遊び疲れた子どもは父親の背中でぐっすり眠り、またある所では老夫婦が夕飯の話をしている。
「帰ろっか」
「そうだね」
佐々木さんはちょっと寂しげな顔をして、それからぱあっと微笑んだ。ぼんやりと、くすぐったいような色を纏ったその顔は、俺の胸にもぼんやりとした明かりを残した。
「よかったな、動物園」
「でしょ? よかった、夕くんが楽しんでくれて」
佐々木さんは大好きな場所を共有したかったのだろう。俺は佐々木さんが幸せそうにしているだけで十分で、佐々木さんを幸せにしてくれる場所は、俺にとっても大好きな場所になった。
帰りの電車を待ち時間は日曜日のような、少し違うような気分にさせられた。楽しかったことを思い出しては同時に寂しさも押し寄せてくる。また寂しくなると分かっていても、寂しいから手を握る。
「夕くんの手、大きいね」
「うん」
どこかで言われた言葉だった。いや、どこかなんてぼかさなくても、その光景ははっきりと思い出せる。そう、それは。
「あっ」
開いたドアの向こうには、思い出していた人がいた。
「京」
偶然会った友人は、驚きながらもにっこりと笑った後、少しだけばつの悪そうな顔をした。厳密に言えば、ほんの少し笑顔が陰っただけだったが、京は居心地の悪いときにはよくこんな顔をした。
「こんにちは、城ケ崎さん」
なんと言えばいいか考えているうちに、佐々木さんが京に挨拶をしていた。
「おう、久しぶり」
「もう足は大丈夫なの?」
「うん、もう大丈夫」
しかし、それっきり二人は言葉を交わすことなく黙ってしまった。結局、佐々木さんが電車を降りるまで沈黙は続き、気まずい時間が流れた。
「またね、夕くん」
「うん、また」
佐々木さんはいつものように手を振ったが、それを見ても寂しさより安堵感のほうが大きかった。
「ごめんな、変な空気にして」
電車が動き出すのを見計らったように、京は謝罪を口にした。
「いや、京のせいじゃないから」
「まあ、間が悪かったなあれは」
京が笑うと、ぎこちない空気は払われて、さっきまでの気まずさがまるでおかしなことに感じられた。
「佐々木さんとはどう? 順調?」
「まあ、順調なんじゃないかな。そういうのよく分かんないけど」
「あはは、私も分かんないや」
思えば、京からそういう話を聴いたことがない。まあ、そういうキャラじゃないし。色気より食い気だし。
「でも、良かったよなーあんな可愛い子と付き合えてさー」
「いや、俺も夢だと思ってるよ」
「大事にしろよなーああいいう子は繊細だから」
「いや、京基準だったらみんな繊細だろ」
「いやいや、私だって繊細だからな? か弱い乙女だし?」
最寄り駅で一緒に降りた俺と京はいつもの帰り道を歩いた。何もかもいつもと同じに見えるけど、どこかがいつもとは違って。
「ちゃんと、あの子のそばにいてやれよな」
「ああ」
「じゃあな」
結局どこが違うのかは分からず、俺は京の背中をぼんやりと見ていた。
*
「夕くん、お昼一緒に食べない?」
佐々木さんがそう誘ってきたときは少し驚いた。佐々木さんのキャラクター的に積極的に誘ってくるとは考えていなかったからだ。
「夕、行って来いよ。ヒューヒュー」
一緒にいた京が囃し立てる。
「うん」
教室にいるのもばつが悪いから、屋上に行こう。ここにいたら、京に遊ばれるだけだ。
「えへへ」
教室を出るとき、佐々木さんはお弁当箱を抱きしめながら幸せそうな顔をしていた。何か大事なものをぎゅっと抱えているようだった。
「これから、いつも一緒に食べる?」
屋上で弁当を食べているとき、気になって訊ねてみた。
「ダメですか?」
「いや、ダメじゃないけど」
言った瞬間、少し後悔した。ダメな理由なんてない。でも、なんで引っかかる言葉が口から出たんだろう。
「ん?」
「あー、いや、良いよ。嬉しい。一緒に食べよう」
「いいですか? よかったあ」
佐々木さんは心配そうな顔をしたけど、それを飲み込むようににっこりと笑って喜んだ。
「じゃあ、これあげるね」
はい、と佐々木さんはタコさんウインナーを差し出す。
「いただきます」
ぱくり、と差し出されたウインナーを口に入れる。その様子を佐々木さんがまじまじと見るから、思わず笑ってしまいそうだ。
「うまい」
「えへへ、よかったあ」
「これ、佐々木さんが作ったの?」
「そうだよ?」
ウインナーは意外と辛口で、スパイスの風味が口に広がる。ご飯が進む味付けだ。
「辛いの好きなの?」
「うん、よく意外って言われるけど」
「たしかに」
結構、見た目のイメージと中身が違う人なのかもしれない。さっきも、積極的だと思ったけど、そもそも告白したのは佐々木さんだし、デートに誘ってくれたのも佐々木さんだ。そう思うと、何もしてないな、俺。
「何か食べたいものとかある?」
「食べたいもの」
「食べさせたいなあって。夕くんに」
「うーん、ハンバーグとか」
「ハンバーグ! うん、わかった!」
なんだか張り切った様子の佐々木さんは小さく腕にぐっ、と力を入れていた。申し訳ない気もしたけど、むしろ断る方が悪い気がした。
*
佐々木さんと他愛もない話をして家へ送る。それから、家へと帰って本を読んで、その合間に出された課題を終わらせる。そろそろ腹が減りそうな気がしたら、料理を作る。もう長いこと両親は仕事で家を留守にしているため、家事は慣れっこだ。出来た豚の生姜焼きとキャベツ千切りを皿にのせて炊いておいたご飯をよそい、インスタントの味噌汁にお湯を注げば夕飯は完成だ。飯を食い、風呂に入り、また本の続きを読み、甘いものが欲しくなったため冷蔵庫から乳酸菌飲料を取り出す。
『prrrrr……』
携帯電話が鳴ったのは、乳酸菌飲料をグラスに注いでいる途中だった。画面には「春乃さん」と表示されている。
「もしもし」
「夕くん?」
「はい、どうしました?」
妙な胸騒ぎがした。春乃さんの声が張り詰めているように感じられたからだ。
「京ちゃんがまだ帰ってなくて。夕くんのとこには来てない?」
「いえ」
時計を見ると、もう10時を回っていた。
「いつもは遅くなると連絡してくれるんだけど、こっちから電話しても繋がらなくて」
「とりあえず、俺も探してみます」
「ごめんね、私も心当たりのあるところを探してみるから」
電話を切る。悪い想像が頭を駆け巡る。
「京」
なぜだろう。家を出るとき、俺の脳裏には京がいなくなった未来がよぎっていた。
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