32話 本当の使い方
キエナが居なくなったわが家は大きな問題に直面していた。
非情に重大で、わが家の根幹にかかわる問題である。
「料理がまずい」
ある朝のこと。
コサメがぼそっと呟いたその台詞こそ、この問題をもっとも端的に表していた。
そう、料理が格段に不味くなったのである。
元々わが家の家事は3交代制で、私とコサメとキエナが交代で受け持っていた。
しかし、私たちはあることに気付いたのだ。
キエナが作った料理だけ出来栄えが圧倒的に違うことに。
それからというもの、日に日にキエナが料理を担当することが増えていき、最後にはほとんど毎日がキエナの担当になっていた。
そのため私とコサメはキエナの分まで掃除や洗濯を受け持っていたのだが、今となってはそれも過去のこと。キエナが居なくなった今、キエナに頼り切りだったわが家の食卓は危機に瀕していた。
「仕方ないだろう。キエナがうますぎたんだ」
「それにしても、これは」
目の前の皿には半分以上が焦げたベーコンに、黄身が完全に崩壊した目玉焼き、適当に保存していたせいでカビの生えかかったパン、という見事な面々が勢ぞろいしていた。
「嫌だよう。せめて料理くらいはまともな生活がしたいよう」
「そういわれてもな」
ちなみに今日の朝食を担当したのは現在進行形で駄々をこねているコサメだ。要するに私とカバネは何も言わずに食べていたというのに、作った本人が文句を言い始めたというわけだ。
「あー、キエナ帰って来てくれないかなあ。久しぶりにあったかい鴨のスープが飲みたい」
「あれだけ泣いて喜んでいたのにな」
「こんなことになるとは思ってなかったんだよう」
これも霧払いの弊害なのだろう。
霧を完全に浄化するには時間がかかる。そのため、霧の人はアレムクルスの館のような大きな施設に入るか、ここのような霧払いの家で暮らすことになる。
長い時間を共に過ごせば情も湧き、次第に家族のような存在にもなっていく。
特にわが家のような小規模なところだと、霧の人との距離が近いため尚更親密になってしまうものだ。
その結果、浄化を終えた霧の人が霧払いの家を巣立っていくと、送り出す霧払いの家はあらゆることを整理しなくてはならない。
料理の問題もその整理のひとつで、私たちはまだ整理が付いていないのだ。心も生活も。
「じゃあ、コサメがうまくなれば?」
「いやいや、それは無理だって。これ見てよ、この惨事を。無理だって思うでしょう、普通」
「何でも挑戦してみないと」
「やっぱり人間、得意不得意があるんだって。私に料理は壊滅的に向いてないの」
「コツさえ掴めば何とかなるかもしれない。魔法だってあんなに器用に使えるんだし」
「だったら、ヒソラがやればいいじゃん。私よりかはうまいし。私よりかは」
「いいの? なんでも甘くなるけど」
「それは嫌」
正直なところ、この問題は終わらない気がする。
私もコサメもお互いの料理の腕に難があることは分かっているため、どっちが料理を担当したところで結果はさほど変わらないのだ。
ゆえに、これから私たちは毎朝このような会話をすることになる。
そう思っていたときだった。
「私がやろうか?」
冬の風が通り抜けたようだった。
私とコサメは目を見合わせて一斉に声のした方を向く。
「保証はないけど」
提案したのは他でもないカバネだった。
「うん、そうしよう」
即答だった。
そこに迷う余地はなく、必要なのはただ背中を押すことだけだった。
「いいね! カバネちゃんならできるよ」
そうして私たちはカバネに料理を教えることになった。
* * *
魔法使いの家で料理をする、と言っても一般家庭との違いはそれほどない。魔法との共存が比較的進んだリベルならではの習慣もあるが、それも魔法を意識しない程度には日常に融け込んでいる。
ある程度注意点を守り、ちょっとしたコツさえ掴めば料理はできるようになる。まともな料理センスがあればの話だが。
「では、まずは簡単なスープを作ります」
そう言うと、コサメはキッチンの隅から小さな壺を取り出した。壺に入っているのは火虫と呼ばれる生物で、料理には欠かせないものだ。
火虫は赤いオタマジャクシのような外見をしており、押さえつけると高温で燃えるという特性を持っている。火虫は魔法使いに限らずリベルでは広く利用されており、どこの家庭でも火虫の入った壺もしくは箱を見ることができる。
「火虫を鉄板の上に置いて、すぐに手鍋で押さえつけます」
コサメが腕に力を込めると、辺りがたちまち熱気に包まれた。鍋の下を覗くと火虫の背中が赤く発光しており、熱を放出していることが分かる。
「抑えすぎると焦げるので注意です」
往々にしてコサメは火虫を押さえつけすぎる。あまりに強く抑えるものだから火虫が怒って、その度に肉が炭同然になってしまう。
「鍋に水を入れて沸騰するまで待ちます」
「出汁は取らないのか」
「出汁は沸騰してから取る」
今日はエルが送ってきてくれたヒバリがある。下処理は昨日のうちに済ませてあるから、後は骨を鍋に入れて出汁を取るだけだ。肉は焼いて食べればいい。
「それでは、カバネちゃんには野菜を切ってもらいます」
「いいの?」
その疑問符はナイフを握っていいのか、という問いに違いなかった。
あれだけナイフで人を殺したのだ。触ってはいけないと考える方が自然だろう。
「大丈夫、手は添えるから」
「そう」
コサメが床に備え付けられた保冷庫を開ける。中には水や野菜類がびっしりと敷き詰められており、凍りつかない程度の温度で保存されている。
魔法によって凍りつかせることも可能だが、それだと体力の無駄なため魔法は極力使わないらしい。
キッチンにずらりとタマネギ、ニンジン、カブ、ポロネギ、パセリといった野菜が並べられる。こういった野菜たちは私とコサメが買いに行くのだが、大量の野菜を持って坂を上るのは一苦労だ。この街の住人の多くは坂との格闘を重ねながら生きている。
「ほれ、ナイフ」
「うん」
コサメからナイフを受け取り、刃先を見る。
正直、不安がないわけではない。私だって死神の力を完全に信用しているわけではないし、カバネの殺意が勝ることだってあり得る。
でも、これは今のカバネに必要なことだ。
「カバネ、握ってみて」
カバネの後ろから手を回すようにしてナイフの柄を向ける。
真っ白な指が私とナイフの隙間に滑り込む。冷え切った指の感触が手の平に広がった。
「大丈夫?」
「うん。大丈夫」
瞼に力を込め、死神の力をカバネの手に纏わせていく。指の形をした影が手からナイフの柄に巻き付いて白い手を黒く染めた。
近頃は実体がないと思っていた「死神」も、その姿が徐々に見えるようになってきた。影が伸びて人に纏わりついて行くのは奇妙でもあるが、自分の力を目視できることは決して悪くはないように思える。形が見える分、カバネと対峙した時のような力への不安は多少和らいだ。
「じゃあ、切ってみようか」
まな板の上にタマネギを乗せてカバネの左手を添えさせる。こうやって誰かと一緒に料理をしたことはなかったから新鮮な気分だ。それも後ろで手を添えながら料理をするなんて滅多にないことだろう。
「左手で固定して。うん、そう。ナイフを真ん中に置いて」
ストン。
ナイフをタマネギの上に置いた次の瞬間には、まな板の上には真っ二つに切られたタマネギが転がっていた。
「これで、いいの?」
「うん。もう一回半分に切って、それからみじん切りにしようか」
「分かった」
それからもカバネは軽快にナイフを使いこなし、みるみるうちに野菜の山を築き上げていった。
「ふふっ」
「料理、おもしろい?」
「なんだか不思議だから。こんな風にナイフを使っているなんて」
「そっか」
ついこの間までこの道具で人を殺めていたのだ。こんなところで呑気に野菜をみじん切りにしているのがおかしかったのだろう。
「でも、これの本来の役割は料理だからな?」
「知らなかったわ」
カバネはまたくすりと笑った。私もつられて笑う。
料理を始めるまでの不安はなくなっていた。カバネがそうさせたのだ。
彼女は気付いてないのだろう。自分が心から穏やかな顔をしているのを。
「おいしくできるかなあ」
「さあ。そもそも、料理ができない人間が料理を教えるのに無理があるから」
「それは言わないの」
切り終えた野菜たちをヒバリの出汁を取ったスープに投入していく。今の状態では中々にいい香りが漂ってきて美味しそうに見える。
「これ、普通に成功じゃない?」
「何だか物足りない気もするけど、これで十分だろう」
「そうそう。ヒソラはいつも余計なことをして失敗するんだから」
「そうかな」
「だって、すぐに角砂糖入れるじゃん」
「うん」
「うん、じゃないよ! そのせいで食べられなくなるんだからね?」
コサメは何やら文句を言っているようだが、今日のスープは無事美味しく出来上がった。今日の感じなら私が付いている必要はあるものの、カバネに調理を任せても良さそうだ。
「カバネちゃんなら切るのも上手だし、すぐにできるようになるんじゃない?」
「そう」
「後は、カバネが楽しめるかどうかかな」
「それは、よく分からない」
「まあ、やっていくうちに目覚めるかもしれないし。しばらくやってみたら?」
なにより、料理をしているときのカバネは楽しそうに見えた。
やはりナイフを握っている方が落ち着くのかもしれない。部屋で私と話しているときよりも、ナイフを振るっているときのカバネは凄く集中していた。
「しばらく一緒にやってみようか」
「ええ」
こうした日々を重ねることはカバネには浄化よりも大切なことのように思えた。
彼女はこれからも生きるのだ。だから生き続ける道を知らないといけない。
また死に埋もれる道を選んでしまわないように。
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