旧市街の死神

22話 カミツレ

 ひとりでいるリビングは妙に広くて、寒い。

 ソファのひじ掛けにもたれながら本をめくる。冷え切った指はかさかさと紙の上で滑り、中々綺麗にめくれない。

 いい加減、薪を割らなくては。

 そんなことを考えながら何日が経っただろう。

 どこにいても落ち着かず、落ち着かないのに何もしたくない。そうしてこの部屋は益々冷え切り、眠ったようになっている。


「ぐぁ」


「そっか、お前もいたな」


 アンドレイが白い羽を振りながら私の膝へと潜り込む。じわりと体温が染み込むのを感じ、思わず私は本を持っていない方の手でその白い体を抱きしめた。


「あたたかいなあ」


 口から魂が漏れたような一言だった。「本当にそう思ってる?」と訊きたくなるほど心の籠っていないその言葉は、間違いなく私の思いそのものだった。たしかに今、私は暖められたのだ。

 私がアンドレイの羽に埋もれていると、扉を叩く音が聴こえた。


「ちょっとごめんな」


 膝からアンドレイを下ろし、扉へと向かう。

 冷たくなった扉を押し開けると、そこには知っている顔が立っていた。


「お久ぶりです」


「おう、元気か?」


「ええ、まあ」


 人好きな笑みを浮かべるその人は私とともにリベルに来た男、セーハであった。


「あの女の子は? どうしてる」


 セーハは果物が入ったかごを私に手渡すと、大きな身体を屈めながら扉をくぐった。


「部屋で寝てるみたいです」


「どこか具合が悪いのか?」


「ええ、そうですね」


「ま、あれだけの傷を負って具合がいい方がおかしいか」


 リビングで立ち尽くすセーハの背中からは近寄りがたい空気が垣間見えた。

 きっと、怒っているのではない。やり場のない思いをどこにしまえばいいのか分からない、そんな様子でセーハは上着のポケットに手を突っ込んだ。


「でも、生きていてよかったよな」


「はい」


 カバネと遭遇したあの日、私とコサメはセーハに助けられた。セーハによると、カバネが現れたという情報を聴きつけて湖のほとりにあるあの屋敷に入ったところ、「思い出したくもないような景色」が広がっていたらしい。

 それからセーハはコサメに応急処置を施し、街まで連れて帰ったのだそうだ。私はセーハによって手配された警察に保護され、気が付いたときには病院のベッドに寝かされていた。

 負傷していなかった私はすぐに退院できたが、深手を負ったコサメは入院を余儀なくされた。コサメが退院したのは三日前のことで、我が家に戻ったコサメはとにかく眠り続けた。

 起きているのは一日のうち数時間ほどで、目を覚ましたコサメは少量のパンと大量の薬を口に流し込んだ。

 生きるためにパンを口に入れ、しばらくするとランプが消えたように眠り始める。この三日間のコサメは何かを取り戻すように、生き続けようとしていた。


「会いますか?」


「いや」


「いいんですか?」


「一目会えたらと思ったが、起こしたら悪いもんな。また今度にするよ」


「そうですか」


「起きたらそいつをやってくれ。病人にはそういうのがいいだろう」


「喜ぶと思います」


「だといいな、はは」


 セーハは口を歪めながらソファに座った。ゆったりと足を組んで座っているが、目の下には薄っすらとくまができ、靴には無数の傷がついている。私はポットに入った紅茶を注ぎ、セーハの前に置いた。


「ありがとう」


 染み入るように紅茶を口にしたセーハはふっと天井を見上げた。


「冬は色々考えてしまってよくないな」


 自嘲気味に笑うと、セーハはもう一度紅茶に口をつけた。持て余し気味にカップを持つその長い指は、セーハの吐く息とともに小さく揺れていた。


「ヒソラ」


「はい」


「これからどうしたい?」


 思わず言葉を飲み込む。

 私はどうしたいのだろう。

 カバネの姿が頭に浮かぶ。あの、赤く彩られた笑みとともに。


「どう生きてもいいさ。俺としてはもうカバネとは関わって欲しくないけどな」


 セーハの言う通りだ。あんな殺人鬼なんて、二度と見たくないと思うのが普通だろう。


「でも」


 セーハが私をじっと見つめる。

 琥珀色の目は私を貫き、ずっと遠くを見つめているようだ。


「俺にヒソラを止める資格はない」


 揺らぎのないその瞳に、私は確信した。

 セーハが本当に伝えたいのは、私のことなのだと。


「ヒソラのお母さんを殺したのは、カバネだったんだろ」


 身体中にぞわりと波が立つ。

 思い出したくない、出来るだけ思い出さないようにしていた記憶が白昼夢のようによみがえる。もう会うことのできない人との記憶を引き連れて。


「ヒソラはカバネをどうしたい?」


 私はカバネを救おうとした。

 私の本心はどこにあるのだろうか。

 普通の人間なら、刺し違えてでも殺してしまいたいと願うのだろうか。

 どんな手を使ってでも消し去りたい、そう願う人間こそが真に人間らしい人間なのだろうか。

 少なくとも、大切な人を殺した人間を救おうなどとは思わないことだろう。普通で、善良で、真に愛のある人間は。


「救いたいと願うのはおかしいことでしょうか」


 なぜ私はこんなことで悩んでいるのだろう。

 それまでの、あの薄暗い部屋にいた頃の私なら迷わず殺すことを選んでいただろうに。どうして私はあれほど憎かった人間を救おうともがき苦しんでいるのだろう。


「ヒソラはいいやつだな」


「それはお人好しということですか」


「そう思う人もいるだろう。だが、それでもいいだろ」


「私は」


 言葉が詰まる。この期に及んでも私は人にどう見られるかを気にしている。そんなこと、無意味だって分かっているはずなのに。


「いいんだよ。ヒソラが納得いく過程がそこにあるなら」


「納得、ですか」


「ああ、そうだ。俺はヒソラが納得いけばそれでいい。そのために、カバネを救いたいと思うのなら俺は手を貸そう。ま、俺でいいなら、の話だけどな」


 この人は自分のことを「警察と探偵の間」だと言った。でも、それは違う気がする。


「まるで悪魔ですね」


「それならそれでいいさ。俺はもう軍人でも警官でもないんだからな」


 晴れ晴れとした表情で笑うセーハは私の中に溜まった黒く歪んだ思いを吹き飛ばすようだった。

 どうなるかは分からない。

 でも、私は前に進める。歩き始められる。


「セーハ」


「ん」


「私はカバネを救います。今、そう決めました」


「そうか」


 ひとつ頷いて、セーハはソファから立ち上がった。


「じゃあ、また来るわ」


「はい」


 セーハはこの部屋に残った痛みや悲しみを少しだけ洗い流した。

 まだ傷は癒えてはいない。でも、セーハの姿が見えなくなったこの部屋には薄っすらと光が差し込んでいた。

 さあ、薪を割って火を起こそう。

 起きたコサメを迎えられるように。

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