21話 出題者・S
身体とともに息が震える。胸の奥に溜まった感情が濁流となって喉へと押し寄せる。感情は眩暈がするほどの白や黒の靄となって視界の中心に居座り、口には刺すような苦さが広がっていく。
『俺は無理だと思う』
声が鳴り響き、頭を揺らす。
『無理』という言葉が何度も頭の中で鳴り響き、それに反響するように目が奥から潰されていくような激痛が襲ってくる。
視界にはいくつもの雷が落ち、黒い靄はちかちかと点滅をくり返す。
「助けないと」
頭の中で鳴り続ける『無理』に反論するように私は声を漏らした。
助けないと。
私は、助けないといけない。
『何を?』
何を助ける?
助けないと。助けないといけない。
私は、自分に宿る力を使って助けると決めたのだ。
『なんで助ける必要があるんだ』
目の奥がずきずきと痛む。もう目の前の景色はほとんど見えず、視界の周辺に僅かに見える光と皮膚の感覚だけでそこに広がっているはずの恐ろしい光景を探っていた。
コサメはどこにいるのだろう。
私一人ではここは寒すぎる。一緒に手をつないでいれば寒さもしのげるはずだ。
「コサメ」
私はコサメのために人を救おうとしているのだろうか。
あの、恐ろしい殺し屋を。
コサメを刺した殺し屋を、私が救えるというのだろうか。
「ひっ」
からん、と音が響いた。
よく見えないが、今の怯えたような声はすぐそこでへたり込んでいた男の声だろう。もしかしたら、今にも殺されそうになっているのだろうか。
私は救わないといけない。死神の力で。
それが義務だから。
生まれてから今まで一度も何も出来ず、ただ生きてきただけの私にできる唯一の責務だから。
『無理だろ』
無理かもしれない。
だけど、私に選択権なんて初めからないのだ。
「やるしかないんだ」
私は音のした方へとゆっくりと足を進めた。
視界のほとんどが黒い靄に埋め尽くされ、一体私がどこにいるのかも不明確だ。だが、私の先にはカバネがいるはずだ。嫌というほど皮膚に伝わってくるざらついた感触が、そこにカバネがいるとはっきりと伝えていた。
目がまともに見えなくてもそこにいるのが分かる独特な空気。私にはこれが殺気なのかも分からない。
「こんなものかしら」
景色を覆っていた黒い靄が消え、視界が鮮明になる。
その景色が見えた瞬間、私は見えなかった方が良かったかもしれないと思った。
床に座り込んだ男はカバネに首をつかまれ、逃げることができないままもがいている。そして、カバネはその様子を愉しげに口を緩めながらくすんだ目でじっとりと見つめていた。
「た、たのむ、たす、たすけ」
どうしてそんな顔をしながら人の命を奪い取ることができるのだろう。
少しずつ、確実に、命が削られていくその様に、私は息を震わせた。
「救う」とはどういうことなのだろう。
私はカバネと男を救おうとしている。きっと、この場を収めることができれば後は霧払いの誰かが後処理をしてくれるだろう。カバネと男は浄化され、時間はかかるだろうが少しずつ霧はなくなり、今彼女たちを覆っている罪の衝動も消えていくことだろう。
そうしてカバネたちはどこかの霧払いに見守られながら、新たな人生を歩み始めるはずだ。
私の中で何かが折れる音がした。
「もうこれくらいでいいかもしれないわね」
カバネが男の首筋にナイフの刃を押さえつける。
「あ、ああ」
たちまち血が流れだし、ナイフを伝って床へと滴り落ちていく。
今助けなければ男は殺されるだろう。そして、助けられるのは私しかいない。
「カバネ」
足音が部屋に響き渡り、カバネは私の方へと目を向けた。
その時、私の身体は奇妙な感覚を覚えていた。確かに床は軋んでいるというのに、私は自分の身体から重さが限りなく零に近い形でなくなっているようだ。おそらく、傍から見ている分には何の変化も起きていないように映るだろう。しかし、板張りの床を鳴らしている私の足も一度力を抜けば、あっという間に宙へと飛び上がってしまいそうだ。
それと、もう一つ私の身に変化が起きていた。
さっきまで私の皮膚に痛いほど伝わってきていた、カバネの殺気めいたものがぴたりと止んだのだ。
これが死神の力なのだろうか。
苦しくて堪らなかった私の胸の底にあふれていた感情は息をひそめ、まるでこの部屋の時が止まったかのようにあらゆる騒めきが消え去っていた。
「何、それ」
「さあ」
カバネが私に警戒の眼差しを向ける。
だが、不思議と私はそれを恐いと思わなかった。
足は滑るようにカバネの方へと進み、荒れ狂っていた感情の波は凪いでいる。
一歩、一歩と私はカバネに近づいていく。
ああ、これが死神というものなのだ。
私は、救う存在になれたのだ。
『そいつを愛することができるのか』
何もないはずの暗闇の中から、突然声が鳴り響いた。
とてもなく強い力で押さえつけられ、一歩も動くことができない。
身体が重い。カバネが動き始めても、逃げることも追うこともできない。
さっきまで小康状態だった感情の波は再び荒れ狂い始め、視界は不安定に揺れている。
『無理だろ。お前にはな』
身体中の体温が失われ、四肢に力が入らなくなっていく。
視界が揺れる。
私はなぜここにいるんだろう。
こんなところにいても、何も出来はしないのに。
どうして私なんかに力を背負わせたんだろう。私ではなく、もっと強い人だったなら、多くの人を救えただろうに。
「無理だよ」
コサメの姿が揺れる。
私には救うことはできなかったよ。
コサメ、ごめん。
カバネが男の首を切り落とす。
私はぼやけた景色の中、違う世界の出来事のように思いながらその光景を見ていた。
揺れ続ける視界の中で、カバネは黒いスカートを翻して部屋を去っていった。
私は、私だけが残ったこの部屋で天井を見上げていた。感覚の失われた指先を震わせながら。
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