20話 赤い雪
そのあまりにも血が似合う女は私を見て笑っていた。
カバネは人を殺した後にしてはあまりに動揺がなく、罪悪感など微塵も見当たらない。
かと言って、肌を刺すような殺気もその白い肌にはない。微笑だけが美しいほどに赤く色づいていた。
ぴちゃり、と水音が鳴る。
カバネは足元に広がる血だまりを黒い靴でいたずらっぽく叩いた。
血が弾け、横に転がった女性の顔にかかる。女性の頬に付いた赤い斑点はさっと滑り落ち、栗色の髪に滲んで消えた。
「ねえ」
カバネは血だまりを鳴らしながら男の方へぴしゃり、ぴしゃりと近づいていく。
男は床にへたりこんだまま後退るが、身体に力が入らないのかあまり進んでいない。がくがくと四肢を震わせて逃げようとする男をカバネはつまらなそうに追い詰めていく。
「どうしてそんな顔をしているの」
黒い靴が弾いた血が男の頬に飛び散った。べっとりと血の付いた黒い靴は板張りの床に赤い足跡をつけながら一歩一歩淡々と進んでいく。
カバネの目には男の姿しか映っていないようだった。
真っ黒な瞳は夕日を浴びてくすんだ光を宿している。その瞳には死と向き合う際の複雑な感情は見えない。
「あ、ああ」
黒い瞳は純粋な悦楽を宿して男を見据える。男を恐怖に取り込みながら。
このままでは男は死んでしまうだろう。
カバネは右手にある厚いナイフで男を刺し殺し、淡々と特別な感情もなくこの場を立ち去るのだろう。
私は何をすべきかを知っている。
アレムクルスは死神の力を使うことはできないと言った。
私はそんなことはないと思った。アレムクルスと会ったとき、私は人を愛し、人を救うことができると思った。
死神の力を使うことで救える人がいるのなら使わないという選択はあり得ない。私のような人間でも救える力があるのなら使わなくてはならない。使わないなんて許されない。私は力を持っているのだから。
このちっぽけな手で目の前で繰り広げられる惨劇を救わなくてはならない。
私は足を踏み出した。使命を果たすために。
カバネはひたひたと男の方へ歩み寄っていく。赤く彩られた黒い靴、残酷なまでに鮮やかな血の付いたナイフ、そこに転がった死を踏みつけても微笑を湛え続ける赤い唇。それらすべてが男を恐怖へと覆いつくし、奈落へと突き落とそうとしていた。
「カバネ」
黒くくすんだ瞳が私に向けられる。
見ていると捉えどころのない不安に覆いつくされそうな瞳だ。ナイフなどなくても死を突きつけられている気分になる。
しかし、カバネは私を一瞥するとすぐに男の方へ向き直った。まるで私のことなど興味がないとでもいうかのようにカバネは男だけを見据え、微笑みをたたえていた。
「私はわがままだから」
それだけを言って、カバネはナイフを男にかざした。
もうその瞳には男しか映っていない。カバネは私のことなど意にも介さず男を殺すことだけを見据えている。
「カバネ、その男から離れて。あなたも殺し屋なら霧払いのことは知っているでしょ」
カバネの動きが止まる。「霧払い」という言葉を聴いた瞬間、彼女の纏う空気が変わったように感じた。
一切の動きを止めたまま、カバネはその場にただ立っていた。
静寂の中、この場にいる誰もが動けずにいる。逃げることも、襲い掛かることもできずに。
カバネの身体がわずかに揺れる。私は身体が強張るのを感じながらその襲撃に備えた。私ではカバネの攻撃を防ぐことはできないかもしれない。それでも、人は目の前に死がそびえているにも関わらず命を差し出したりはしないだろう。
「そうね」
カバネの手からナイフが放たれる。予備動作はなく、迷いも無駄もない動きだ。
ナイフはコサメの方へと放たれ、壁に鈍い音を立てながらナイフの先が突き刺さっていた。壁に深々と突き刺さったその姿はまさに命を一撃で刈り取ろうとしたものであり、とても細身の女性が放ったものとは思えなかった。
カバネの攻撃をすんでのところで回避したコサメは、部屋の奥へと転がって距離をとっていた。だが、カバネは寸分の狂いもなくコサメの方へとナイフを放つ。
「さて」
カバネは放ったナイフの行方を確認することもなく、次の襲撃を開始するべく床を蹴った。一度目に投げたナイフを回収すると、カバネは速度を緩めることなくコサメの方へと距離を詰める。
コサメは横に転がってナイフを避けると、手に持っていた箒を構えた。
一気に距離を詰めたカバネは特に力んだ様子もなくナイフ振りかざす。躊躇いなく振り下ろされるナイフは箒に受けとめられながらも強い衝撃を与えた。
ナイフは次から次に振り下ろされ、金属音を響かせる。コサメは踏ん張りながら箒でナイフを受け止めていたが、度重なる攻撃に箒はみるみる曲がっていった。
そして、カバネが真正面からナイフを振り下ろしたとき、遂にコサメの箒は真っ二つに破壊された。
「くっ」
防戦一方のコサメは破壊された箒をカバネの方へと放り投げる。カバネが箒を払いのける隙にコサメは横に飛び去り、再びカバネと距離をとろうとする。
からん、と床に叩きつけられた箒の残骸が音を立てる。音とともにカバネの身体はコサメへと跳びかかり、その脚に向かってナイフを振り下ろした。
脚に当たることなく空を切ったナイフは、床に深い傷を残した。
カバネの攻撃は切るというより、殴るようなものだ。ナイフは鈍く尖った背を向けて振り下ろされる。壁や床に当たった時の衝撃は重く鈍いもので、カバネは軽々と扱っているが相当な重さのナイフだと思われた。
カバネは床に当たった反動を利用して、もう一度コサメに殴りかかる。赤い唇にはまだ薄っすらと笑みが浮かび、目の前の命を刈り取ることに悦びすら感じているようだ。
「残念」
カバネがナイフを振り下ろさんとその腕に力を入れた時だった。コサメは懐から小瓶を取り出すと、そのままカバネの方へと投げ捨てた。
ガラスの割れる音が響き、部屋はしんと静まり返る。
カバネは白い煙に覆われ、飛び散ったガラスの破片が光を反射しながら落ちていく。
「いいわね、魔法使いは」
消えていく煙の間からカバネのナイフが滑り落ちる。ナイフは床に当たると、音を立てて割れた。
カバネは凍った自分の右手を興味深げに眺めていた。ただ、そこには焦りの色はない。カバネは特別な驚きもなく、どこか他人事のように白く氷の張りつめた自分の手に息を吹きかけた。
「魔法は初めて?」
なんとかカバネの攻撃を掻い潜ったコサメは体勢を整えながら、相手の動きを窺っていた。睨むような目つきで少しの動きも逃さないように気を張り巡らせている。特に予備動作無しで放たれる投げナイフはそう避けられるものではない。コサメにとっては少しも気を許すことはできないだろう。
「そうかもね」
凍り付いた右手がパキパキと音を立てながら動き出す。氷の膜は崩れ落ち、カバネの右手は白い蒸気を立てながら元のしなやかさを取り戻していった。
「でも、何も変わらないわ」
カバネはスカートをたくし上げると、脚に着けられたナイフを取り出した。何事もなかったかのように右手でナイフを握ると、カバネはコサメの懐目掛けて跳びかかった。
息をつく間もなく繰り広げられる二人の攻防を、私はただ見ていることしか出来なかった。逃げた方がいいのは分かっている。しかし、私は一歩も動くことはできなかった。
コサメとの攻防の最中、カバネはくすんだ瞳で私をじっと見ていた。身体の熱が奪われ、今にも寒さに震えそうになる。そのくすんだ目には見たものの生気を吸い取り、死へと誘うような力が宿っていた。
「いい商売だね、殺し屋なんて」
「そう?」
ふたりは今にも千切れそうな、細く脆い糸を懸命に辿っていた。カバネのナイフさばきも、コサメの回避行動もすべてが最適解を紡ぎ続けている。
反撃を食らわないよう、最適な箇所に最適な力でナイフを刺す。それを瞬時に読み切り、皮一枚のところでかわす。ふたりの攻防はその繰り返しだった。
「だって、しばらくはなくならないでしょ?」
「しばらく?」
コサメが背後に跳ぶ。空を切ったカバネのナイフはすぐさまコサメの喉元を突きにかかる。
「私たちが無くすから。近いうちにね」
再びコサメが小瓶を投げた。
しかし今度はカバネに当たらず、その先にある窓に当たった。
「おもしろいことを言うわね」
「まあね」
ナイフがコサメの肉を抉る。
ただし、抉ったのは喉元ではなく左腕だった。
喉を突かれそうになったコサメは身体をよじり、わざと左腕をナイフの刃に当てて致命傷を避けたのだ。
「あーあ、コートが台無しだよ」
コサメはコートを脱ぎ捨てると、何事もなかったかのようにカバネに向かい合った。
先ほど投げた小瓶のせいで窓ガラスは凍りつき、ひびが入っている。白く凍ったガラスは暗くなった夕日を浴びて、ぼんやりと寂しげな灯りを映していた。
「魔法使いは何をしているの?」
「うーん、強いて言えば人助けかな」
「なにそれ」
「いい仕事でしょ?」
「ええ、素敵ね。でも誰を助けるの?」
「だれだと思う?」
「恵まれない子どもたち?」
「君だよ」
盛大な音を鳴らしながらガラスが崩れ落ちた。
凍ったガラスが勝手に割れたわけではない。割れる直前、どこからか氷がガラス目掛けて放たれたのだ。
氷はカバネの頬を掠めると、背後の窓に突き刺さった。凍らされてひびが入っていたガラスは雪崩のようにカバネに降り注いだ。
ガラス片はカバネの身体に突き刺さり、白く透き通った肌を赤く染めた。
しかし、カバネは微動だにしなかった。
血に染まった黒づくめの女は、いまだに薄っすらと笑みを浮かべながらコサメをじっと見ていた。
「赤く染まった雪は元には戻れない。過去は変わることなくそこに在り続ける。明日も明後日も、同じ風景が流れていくだけ。そうでしょう? 魔法使いさん」
黒い靴が床を鳴らした。
その空っぽな音は部屋を埋め尽くし、寂しげにこだました。
幾重にも聴こえる足音の中、カバネの姿は次第におぼろげになっていき、どこにいるのかも分からなくなっていった。
「え」
足音が消え、冬の風が割れた窓を鳴らす。
おぼろげだったカバネの姿はそこにはっきりと見ることができた。
カバネとコサメの姿が重なり合う。
その束の間、金の髪がふわりと宙に揺れた。コサメの身体が崩れ落ち、カバネの奥から消える。
カバネが手にしたナイフは赤く色づき、足元に横たわる金色の髪にぽたりと滴り落ちた。
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