19話 黒の少女
「こりゃあ、怒られるなあ」
ようやく視界が晴れた私たちは植木鉢や空き瓶が身を寄せて並ぶ路地に立ちつくしていた。もうあの男はいない。痛いほどの眩しさをこらえて目を凝らした頃には、もうすでに男の姿はどこにも見ることができなかった。
「始末書もの?」
「そういうのはないけど、バレたらいっぱい小言を言われる」
コサメが大きなため息をつく。余程男に逃げられたことが悔しいのだろう。コサメは男が居なくなったことに気づくと心底がっかりした顔をしていた。それも、追い詰めた後だっただけに、尚更悔しいだろう。
「一度ちょっとミスしただけでもここぞとばかりに色々言われるからなあ。ライラなんか本気で怒りだすし」
「それは大変だ」
「困ったことだよ、まったく」
霧払いは罪人を捕まえて浄化し、更生させなくてはならない。罪人と対する仕事である以上、少しのミスも許されないのだろう。
「それで、どうするんだ」
「追いかけるよ。全力で」
コサメは懐から羽を取り出すと、ふうっと息をかけた。
すると、羽は空中でくるくると回り出す。その白い羽は段々と回転が遅くなり、最後には路地の先を指し示した状態で止まった。
「よし」
「この先にあの男がいるのか」
「こいつが向いている方に行けば男がいるところにつけるというわけだよ」
「追いつけるのか?」
「ふふん、まあね」
再びコサメが懐に手を入れると、今度は黒い棒のようなものが現れた。水筒を思わせるその棒にはボタンが一つ付いており、それ以外はただの筒だ。
カチ、とボタンが押される。すると、途端に筒は金属音をたてながら細長く伸びていく。私たちの身長ほどまで伸びた黒い棒は、突端にブラシを生やして立派な箒として私の目の前に姿を現した。
「これで移動するのか」
「正解。金属製だからあんまり高くは飛べないけどね」
コサメは黒光りする箒を押さえたり叩いたりして箒の安全確認をする。箒といえども、壊れることもあるのだろう。
「よし、行こう」
「ああ」
「後ろに乗って。しっかり掴まないとだめだよ」
コサメが箒に跨る。こうしていると、服装こそ魔法使いらしくないものの、かなりそれらしく見える。いい歳の女の子が箒に跨っているというだけで、十人居れば八人が魔法使いだと疑うだろう。
私はそんな魔法使いに続いて箒に跨る。まだ宙に浮いていないため、今の状態ではただ股の下に箒を通して立っているだけの高度な変人だと思われる事だろう。
「じゃあ、飛ぶよ。しっかり捕まっててね」
「うん」
私がコサメの身体にしがみつくと、コサメはグッと足に力を入れて地上から跳び上がった。
コサメが跳び上がるのと同時に箒が私の股にめり込む。めり込んだ箒の柄は途轍もない力で私の股に食い込みながら身体ごと宙へと跳ね上げた。
身体がとても自力では届かない高さまで持ち上げられていく。普通なら落ちる高さになっても宙を舞い上がり続けるというのは何とも奇妙で落ち着かない。
「ヒソラ、大丈夫?」
「大体は大丈夫」
私はコサメの服を強く握りながら声を漏らした。
宙にぶら下がった足、箒に持ち上げられた身体、頬を微かに撫でる風、何もかもが不安定で命の危険と同居している。きっと、こういう時には余計なことは何も考えない方がいいのだろう。例えば、箒から振り落とされて硬い石畳に頭をぶつけるといったことは絶対に考えない方がいい。
「よっと」
コサメが宙を軽く蹴り飛ばす。箒はそりのように空気中を滑り出し、前へ前へと進んでいく。走り出した箒は速度を増しながら空気を切り裂く。突風が私の頬をはたき、髪をかき乱した。
「この箒、金属製だからお尻が痛いんだよねえ」
「ああ、跳び上がった時は最悪だった」
「あはは、後部座席は股が裂けるもんね」
箒は私たちを乗せて建物の間を潜り抜けていく。脇に立ち並ぶ朱や白の建物が目まぐるしく視界に現れては消えていった。
高速で積み木のような建物を縫っていくと、前方に浮かんだ白い羽が右に向きを変える。それを見たコサメは右足を宙に投げ出して身体を右へと傾けた。
まるでそこに地面があるかのように、コサメの右足は宙を削りながら箒の速度を減らす。箒は私の身体を外へ放り出そうとしながら向きを変え、コサメの足の動きに合わせて再び加速した。
「いやあ、今日は中々に魔法使いらしいね」
「こんなに速く飛べるのに、どうして普段は使わないんだ」
「疲れるからねえ、それなりに」
「なんだかもったいないな」
「箒は速いけど、走るより疲れるんだよ。一時間も走ればもうぐったり」
魔法使いも大変だ。魔法が使えても、何でもできるわけではないし色々と代償を払わないといけない。初めてコサメと会ったときは、魔法使いなんて凄いと思っていたが、今ではその「凄い」の意味も変わってきている。少なくとも、そこに羨ましさはなくなってしまった。
前に飛び出してきた鳥を急降下して避ける。箒は地面に当たりそうになりながら体勢を立て直し、低空を突き進む。地面が私の足を掠め、道べたで寝転がっていた猫は慌てて飛び退く。
コサメが地面を蹴り上げると、箒は建物の四階ほどまで上昇する。ひねりながら羽の指す方へと突き進む箒は、木々のように積み重なる建物をかいくぐりながら奥へ奥へと潜っていく。
路地を抜け、空中回廊をくぐり、飛び交う鳥の群れを避けながら石の迷路を進む。奥に進むにつれ、段々と建物の形は複雑になり、積み上げられた石と石の間を何度も曲がりながら進むのは一本の糸を手繰るようだ。
本当にこの道でいいのだろうか。私が不安に思い始めた時だった。
ざあっと目の前から建物が消える。
積み上げられた石の先には、森と湖が広がっていた。
「まぶしいな」
西に傾いた日差しが湖に反射して白く輝く。その光景は照りつける夕日とともに私たちを迎えているようだった。
私たちが地面に足を下ろすと、冷たい風が髪を揺らした。思わず身体を震わせてしまう寒さだ。
「ヒソラ、あれ」
コサメが指をさした先には見覚えのある人影があった。人影は浮ついた足取りで湖の傍を奥へと進んでいる。
「あいつだな」
「あの家に向かおうとしているのかも」
コサメの言う通り、男の進む先には一軒の屋敷が建っていた。そこそこ大きめの屋敷ではあるが、レンガはひび割れ外壁にはツタが張り巡らされているようだ。
「あそこで誰かと落ち合うのかもしれないな」
「そして、作戦の成功を祝って酒を飲んで騒ぐと」
「あの様子だと、もう逃げ切れたと思っているんだろうな」
男は走ってこそいるが、とてもその足取りからは切迫感は感じられない。頭の中では私たちを出し抜いたことへの快感に浸っていることだろう。
「男が共犯者と落ち合ったところを捕まえようかな」
「それが良いだろうな」
屋敷へ近づいていくと、その朽ち果てた姿が余計に目に付く。その大きさからかつては相当の人物が住んでいたことが伺えるが、今となっては人が住んでいるかも怪しいような姿になっている。犯人の男たちは空き家となったこの屋敷を見つけ、勝手に住処にしているのだろう。ここなら街から離れているため、人の目にも付きにくい。
「入るか」
「慎重にね」
私が屋敷の扉を押し開ける。鍵はかかっておらず、簡単に開けることができた。
しかし、屋敷の中は妙に静寂が張り詰めていた。人の話し声どころか物音ひとつしない。
コサメも同様に感じたのだろう、神妙な顔で屋敷を見回していた。
「おかしい」
屋敷の玄関口には灯りの一つもなく、暗がりに覆われている。私とコサメは神経を研ぎ澄ませて屋敷に足を踏み入れていった。
足音が響き渡る程の静寂。もうここには誰もいないのではないかと思うほどに物音がしない。私は息を呑んで足を一歩一歩進めていくが、どこにも人は潜んでおらず、気配すら感じられなかった。
「こっちにいるかも」
コサメの前に浮かんだ白い羽は屋敷の一室を指し示していた。
他に手掛かりはない。私は音を立てないよう、白い羽の示す扉へと近づいていく。
一度息を吐いて扉に手をかける。もし、この先に男がいるのなら襲い掛かってくることもあり得るだろう。それに仲間が潜んでいる可能性も高い。何としても命だけは守らなくては。こんなところで一生を終えたくはない。
カタン、と音がした。
その奥は扉の奥から聴こえてきた。何かが倒れたような音のようであった。
それに続いて男の声が響く。くぐもっていて何といっているかは分からないが、焦りを孕んだ口調だった。
「開けて!」
コサメに促され、勢いよく扉を開ける。
そこには床にへたりこんだ男と、ひとりの女がいた。
私はその女の姿を見た瞬間、血の気が引いていくのを感じた。
鼓動が激しく体を揺らす。
恐ろしさとともに記憶が胸の底から湧き上がってくる。
「ああ」
周囲の風景も、音も、何もかもが私から遠ざかり、私の皮膚に宿る感覚が縮こまっていく。男が叫んでいることも、女の後ろに血を流して倒れている人の姿も何もかもがガラス一枚を隔てた向こうの出来事のように思えた。
女が口元を緩ませる。
赤い唇は雪のように白い肌に色づき、その身体は黒に包まれている。太い刃の付いたナイフは窓から降り注ぐ夕日に照らされて美しいほどに銀と赤を光らせている。
「カバネ」
私は直感的に死神だと思った。
あまりにも当然に血液と死がその女の前にはあり、今まさに人を殺めようとしているのも何ら不自然でない行為のようであった。
私の鼓動が感覚を揺らす。
私と外界を隔てたガラスが少しづつ揺れ動き、ヒビで覆われていく。
鼓動がガラスを揺らし、一瞬にして崩れ落ちる。
そのとき、ようやく私は目の前に「カバネ」がいると理解した。
死を引き連れた本物の「死神」がいるのだと。
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