15話 ある霧払いの一生
まだこの街から地平線が見えたころ、一人の男が移り住んだ。
その男は腕の良い魔法使いで、まだ魔法が今ほど知られていない当時としては画期的な魔法を次々と生み出していた。
特に物質を変化させる魔法は他の魔法使いと比べても抜きん出ていた。
地面から家を生やし、何もないところから水を湧き出させる魔法は彼の境地であった。
男は暇を見つけては子どもたちに魔法を教えるようになる。
どうしたら魔法が使えるようになるのか、人によって使える魔法が違うのはどうしてなのか、では自分にはどんな魔法が使えるのか。そもそも、魔法とは何なのか。
男は子どもたちに知っていることを次から次に語った。
子どもたちは男の話に聴き入り、みるみる魔法が使えるようになっていった。
しかし、男は妙な違和感を覚えていた。
子どもたちの中にひとり、暗い顔をしている子がいたのだ。
その子は、たまに顔を出すと隅の方でひっそりと男の話を聴いていた。
決して誰とも話さず近づこうともしないその子は、男が話し終えるといつの間にかいなくなっていた。
ひょっとしたら仲間外れにされているのかもしれない。
そう考えた男は子どもたちにこう言った。
「お前たち、勉強熱心なのはいいが、真っ当な人間として生きる方がよっぽど大切なんだぞ」
すると、子どもたちはこう口々に言った。
「じゃあ、一番駄目なのはニハルだね。あんなの全然真っ当じゃないや」
「父さんも言ってたよ。あの家の子どもとは口をきくなって」
「だよな! あんな卑怯者、ここに来るのも嫌だよな」
男は驚いて子どもたちに訊いた。
ニハルとは誰なのかと。
「いつもこっそり座ってるやつだよ。いっつも暗い顔してさ」
子どもたちの反応に男は驚いた。
自分は子どもたちに人として大切なことを説いたつもりなのに、子どもたちはあの子こそ間違っていると言う。それも堂々と。
「いや、おかしいだろ。あの子が何をしたっていうんだ? ただそこにじっと座ってただけだろ? あの子はなんにも悪いことはしてない。どうして仲間外れにするんだ」
子どもたちは男の言葉を不思議そうに聴いていた。
ひそひそと話し声が広がる。
その反応はどことなく冷淡なものだった。
意に介さない者、苦笑する者、首をかしげる者、怪訝な顔をする者。
子どもたちは男の方がおかしいとばかりにざわめきたてた。
「先生、悪いのはあいつだよ!」
中でも一際元気のいい子どもが立ち上がって、男に意見した。
「ニハルの家族はいっつも悪いことばかりしてみんなからお金を盗むんだ。このあいだも酒場から一番高いお酒とお金を盗んだって、みんな言ってるよ」
その言葉は男に衝撃を与えるには十分だった。
まさかあの子が悪事に手を染めていたなんて。
男はそれからというもの、毎日空を見上げながら悩んでいた。
「どうしたらあの子を救えるのだろう」
男が広場に座り込んで悩んでいると、白いローブを着た男が目の前で足を止めた。
「お悩みですか」
白ローブの男はどことなく怪しげではあったが、男はすべてを話すことにした。
白ローブの男は興味深げに話を聴くと、こう言い出した。
「なぜ人が罪を犯すのか知っていますか?」
「何のことだ」
男は怪しげな話に顔をしかめたが、白ローブの男は構わず話を続けた。
「人は時々酷く落ち込んだり、絶望したりすることがあるでしょう。そうすると、どこからか霧が立ち込めてくるのです。その霧に包まれた人は忽ち思考が悪に侵され、悪しきことばかりを考えてしまう。罪を犯すのは決まってそのような人です。きっと、その子もそのご両親も深い霧に包まれているのでしょう」
その話を聴いた男は半信半疑であった。
普通なら眉唾だと一蹴する話だ。しかし、男はそれと似たような話を文献で見たことがあった。
「で、その霧を無くせってわけか」
白ローブの男はにっこりと笑うと二つの青い石を取り出した。
「これを使ってください。あなたならきっと救えますよ」
笑みを崩さずに白ローブの男は半ば強引に石を渡した。
「これに力を込めてください。そうすれば霧は払われるでしょう」
白ローブの男はそう言い残すと、その場を颯爽と立ち去っていった。
男は怪しく思いながらも、白ローブの男が言っていたことを信じてみることにした。
程なくして男は霧を浄化する魔法を作り出す。
ニハルを救うために。
このどうしようもない世界を少しでも変えるために。
男はいつものように子どもたちに魔法を教えた後、立ち去ろうとするニハルを呼び止めた。
「ちょっといいか?」
ニハルは怯えたような顔をして男を見上げていた。
「大丈夫、悪いようにはしない」
男はニハルを自分の家へと連れて行き、ニハルに浄化魔法をかけた。
それほど難しくはない魔法。
だが、男はその石が放つ青い光にすべての神経を注いだ。
青い光が二人を包んだとき、男は二つの鼓動を耳にした。
ひとつは自分の鼓動。
もうひとつはニハルの鼓動。
男は浄化を終えた後、眠りについたニハルの横で涙を流した。
何も知らない子どもが生まれてくる場所が悪かったばかりに身も心も汚されていく。
他の子どもたちは当たり前のようにニハルを蔑み、除け者にする。
あまりにも残酷で抗いがたいような運命。
だが、男はこのとき初めてそれに抗う力を手に入れた。
人を変える。
街を変える。
世界を変える。
強くなりたい。みんなを救うことができるくらい、強く。
男は涙を流しながらそう願った。
そして誓った。
人を救う魔法使いになると。
男は誓いを果たすため、あらゆる立場の人を助けた。
そこに犯した罪は関係ない。
ありとあらゆる霧に包まれた人を救い、また罪のない人の支えにもなった。
「アレムクルス・ラヴラウド!」
男の名前は街中に響き渡った。
男が結婚した時、街中は歓喜に沸いた。
王子でもなく、侯爵でもない。何でもないひとりの魔法使いを街中が祝った。
相手の女性の名はスピカ。
詐欺師の集団に雇われていたのを男が救ったのが出会いだった。
「俺は幸せだ」
歓喜の中、男は呟いた。
「こんな日が来るなんて。生きていてよかった」
この瞬間、男はようやく自分の人生を肯定できるような心地がした。
この日まで生き、人を救い続けたこと。
人を救うために限りある命を削ってきたこと。
男はすべてを肯定した。幸せと涙の中で。
だが、男の回想はいつも最悪な結末で終わる。
そこにあるのはあまりにつらく悲しい光景だ。
男は暗く空っぽになった部屋にいる。
その腕には血を流し冷たくなった妻の身体が横たわる。
辺りは物音ひとつせず、ただ降りしきる雨音だけが鳴り続ける。
男にはそのとき自分がどうしていたのか思い出せない。
思い出せるのは、激しく苦しい憎悪。
そして、運命に対する怒りだ。
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