第三十八幕「Quem quaeritis?」
「どうされたのですか?」
その一言で我に帰る。見ると、チカが車の中から手をこちらに伸ばしていた。
「あ、どうも。でも結構ですよ」
自分の声にギョッとする。どうやらマスクに変声機能がついているようだった。なるほど、ドクターらはこの事実を知っていたようである。これならばチカに会おうと彼女には僕だと悟られない。
そうですか、とチカが手を引き戻し、奥の助手席に乗り込んだ。
それを見送ってから、僕はマスクの位置を今一度確認して、バン車に乗り込む。特におかしなところは見当たらない。いたって普通の乗用車だ。
「ごめんなさいね。彼、幼い頃事故で顔に火傷を負って以来、それを被らないと人前に出られないの。変でしょう」ベスが顔色ひとつ変えずに嘘をついた。
「ね、原野」と彼女は付け加える。僕は無言でそれに応じた。
「そうだったんですね。でも、変なんかじゃありません。苦労に打ち克つためのものです。私は素敵だと思いますよ」
そう言って笑うチカの笑顔が、とても懐かしく感じられた。きり、と胸の奥が締め付けられる。
「では、出発します。私たちの活動を快く思わない者もいますし、安心してお話ができる場所の方がよろしいでしょう」
彼女が運転席にいる人物に合図をした。
サングラスとジャンパージャケットの似合う男が後ろを振り向き、親指を立たせて見せてから車を発車させた。
富豪の家主が逝去し、その莫大な遺産を引き継いだ令嬢が、巷で有名となりつつある慈善団体に活動資金の援助を申し出ることにした。それにあたり、彼女は団体の活動を自分の目で確かめたくなった。
雑な筋書きだが、それが今回の約束に発展したらしい。
「私たちは普段、ナカノ地下街周辺を中心にして活動をしています」
そういう彼女の視線の先には、灰に佇む街が広がっていた。
「そこでは、古来より様々な価値観の人々が集っていたと聞きます」
手元で何やらごそごそと構いながらチカが話す。一方ベスはと言うと腕を組んだまま時折相槌を打っている。その視線はフロントガラスの先に広がる景色に向けられているようだった。
「そうした歴史のある場所だからこそ、私たちも様々な方に理解を得ていただいているのだとも思います。あ、でもこの先の道順は秘密なのでこれを着けてもらってよろしいですか」
そう言われ、目隠しが手渡される。
「原野さん、でしたか?どうしましょう、それでは着けられませんね」
「ああ、お気遣いは結構ですよ。原野、伏せっていなさい。いいと言われるまで顔をあげてはいけません」
こちらを見ずに、ベスは目隠しをつけながら命令してきた。
「では、そうさせていただきます」
シートベルトが腹の装甲と擦れるのを我慢して僕は前傾姿勢をとる。
実際はマスクの視野拡張機能によってさほど効果がないのだが、仕方がない。郷に入らば郷に従えという言葉にあやかってここは形だけでも誠意を見せるべきだと判断した。
それでも幾分か暗くなる視界に、僕の意識は思考に飲み込まれた。
ナカノ地下街。
それは、大災厄の際建造された、何層にも重なった大規模地下シェルターを再利用した商業施設だ。例そのものとしてはそう珍しいものでもない。大災厄以降不要となってしまった地下鉄群は往々にしてこのような運命を辿った。
ただナカノに至ってはメカによる被害が比較的小さかったためにシェルター施設の整備が上手くいったらしく、他と比べても大きいものとなったのだ。
元は地上にあったものがそのまま地下に埋め込まれたものらしいが、現在はかつての地上にあった前身よりも賑やかだと聞く。
あくまでも話で聞くのみだ。
というのも、ナカノ地下街はある程度のツテがなくては入ることを許されない。それはこの場所がいわゆる闇市的な側面を持ち合わせるために、人の出入りを制限していることに起因する。信頼する客のみ相手に商売をし、それ以外に関しては一見さんお断りというわけだ。
加えて居住施設も併設する故、ここは非常に狭いコミュニティを構築している。
このために、ナカノ地下街はこれとなんの関係も持ち合わせない一般人にとって半ば都市伝説的な存在となっているのだった。
何度も螺旋状のトンネルをくぐり、寂れたオレンジ色の照明に目が慣れてきた頃、自分たちを取り囲む空間が今までのそれとは異なったものに変化していることに気がついた。
「まだかしら。こうも長く目を塞がれていると、不安になってしまうわ」
ベスも何か感じたのか、急に口を開く。
「ええ、もう大丈夫ですよ。目隠しを外してください」
チカの声がして、僕ら二人は車内から周りを見渡した。
「ようこそ、高田ノ園第一施設群へ。きっと気に入りますよ」
その景色に、思わず息をのむ。
そこは、地下とは思えない―
―青空の広がる草原であった。
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