第二十二幕「福は内」

 不意に、風が吹く。それは潮を含んでいて、生臭かった。

 もう何年もの昔に置いてきた生命いのちを求めるように、曇天無地の黒い夜空に染まった腕が、うねりとなって岸を舐める。自らの子宮に宿した世界の罪を、自らが生み出した汚れを、力なき虚無が求める。

 しかし、その試みは文字通り海の泡となって消えてしまう。それでもあきらめず、彼の腕はなんども打ち寄せてきた。

 旧名―東京湾。

 ここは、極東人類都市シンジュク郊外アウトブランチ、人類に残された数少ないを後世に伝える巨大な水溜まりだった。その胎盤に命は存在せず、あるのは幾多にも重なった汚染と、大災厄以来増え続けている屁泥のみ。

 かつては広大で、地平線の果てまで続いていたとされた姿も今はなく、そびえたつ防壁の外側は例のように機械に侵されている。そのもっぱらの用途は有機いのちを育むことから、無機きかい電気発電まんまづくりにとってかわられた。

 皮肉なことだがこのように防壁だけで機械の進行が抑えられているのも、機械の守護者がまだ存在せぬこの発電施設のみが拡大しているからであった。

 公式で発表されたものでは、地球上に存在する海洋のうち六割がこの状態ザマらしい。アカデメイアの観測結果ではほぼ九割弱。それに加え、いつ守護者が現れてもいいとのことだ。

 電子滅海―それがこの悲しき海につけられた名だった。

 そんな海に一際背の高い建物が一つ、雲の上まで顔を伸ばして生えていた。足元や、円柱状のその腹には赤い飾りがあしらわれ、一定間隔で光っている。規模は他に類を見ず、現状残っている人間の建造物では最大級の一つとして数えられている。

 風で脱がされた雲のフリルが、それまで隠していた文字を露わにした。

『うみほたる』

―シンジュク政府が統括する巨大食料プラント―ウミホタルが、地上から伸びる照明に照らし出された。


『では、もう一度作戦内容を確認したく思う』マスク内部に、ドクターの声が響く。他も耳に取り付けられたイヤピースに集中しているようだ。

『食料プラントウミホタルの周囲に、妙な集団が寄り付いているとの報告があった。監視の薄い深夜間に集会を行っているそうだ―これがただの集団だったらば君たちの出番もなかろう。だが、この集団にアンドロイド疑惑の掛けられている人物が複数人含まれることが判明。前代未聞の重要案件として機械化班が出動することとなった。まずは集団の様子を調査、スキャンしてからの流れはいつも通りだ。備考として、前回同様弐型が現れることが予想される。その際は、随時”ハンドグレネード”を使用するように。―健闘を祈る』

 いつもより音声が鮮明だ。そういえば、ジャミング対策に通信をリレー式にしたとか聞いた気がする。

「うし、じゃあ各自もってけや」そういって、クルードが武骨なコンテナを開ける。中には、銃といった武器とともに緩衝材に綺麗に収まる円柱が並んでいた。

 一つ取り出すと、それは小さめの缶ジュースほどの大きさにも限らず、ずしりと重かった。ぼんやりとした輪郭の中に、真鍮色が浮かび上がる。僕はそれをロングコートの腰部にあるホルダーに二つ押し込んだ。よっぽどのことがない限り作動することはないと言われているが、少し不安を覚える。絶対にここは殴られないようにしようと、心に強く決める。

 そんな僕を尻目に、クルードは六つほどロングコートに詰め込んでいた。どうやらそれぞれコートの収納場所が違うようで、それに応じて要領キャパが決まっているようだった。インは八つ腰に巻き、ベスは少なめの一個である。

 それぞれの武装したくが整ったところで、作戦開始となった。

 


 反動化マナ理論。

 それは、世界を形作る全ての現象の源である、マナの性質を反動化させるというものだ。言うなれば、この世に存在するものすべては、その場に”在る”という現象のもとで成り立っている。それを反動化させるということは、その”在る”ということと逆―つまり、存在そのものを否定することになる。

 具体的に言えば、その場にあるものをのだ。

 物質の流転を阻み、その消滅を成す悪魔の所業との引き換えは、空間における存在の崩壊とそれに連なる爆発を意味する。

 衝撃を受け付けないのであれば、存在ごと破滅させてしまおうという発想から対弐型用として作成されたこの武装は反動化マナ理論式手榴弾―略して反動ハンド榴弾グレネードと名付けられた。

 有効範囲は半径二メートルに調整されていますわ。気を付けて使って頂戴、と会議室で言っていたミスシュガープラムの笑顔を思い出す。


『白いバンが数台に、乗用車が五台―リムジンもある』通信の向こうから、ベスの声が聞こえた。

「人は?何人見える」クルードがハンドルを握ったまま、それに答える。助手席にはイン、後部座席に僕が乗る。深夜の出撃ドライブは狭めの装甲車で出かけていた。直進道路の向こうから、ウミホタルが近づいてくる。

「おおよそ十人ほど。車のキャパも考えるならば、最大でも三十人くらいかしらね」

 ベスは今、狙撃場所スナイパーポイントで待機していた。彼女に遠距離からの援助バックアップと情報の収集を任せ、一方前衛部隊は車で乗りこむという配置だ。

 道路を踏むタイヤの足音が変わった。頭上を幾層かの道路が通る。ウミホタルの搬送用分岐道路まで来たようだ。夜間灯の冷たい照明に照らされた道路が広がった。

 ウミホタルは現状、シンジュク政府最大の食料プラントだ。人類都市の食料のうち七割強を担うその内部で生産されるものは食肉、穀物、野菜類と多岐にわたる。この側面だけを見ればウミホタルの存在は称賛されるべきものだ。

 しかし、膨大な量の食料を供給し続けるために、これには自動化がなされていた。それは、災厄以来禁忌とされるものの一つだった。人工知能とも似通う複合的な機能を持つ機械への恐怖は拭い切れておらず、結果としてウミホタルはこの虚無の海に一人孤独を強いられることになる。

 人間がかかわる行程は最小限にとどめられ、搬送や整備といった直接的な役割を持たぬ者は、どうやって作ったものかもわからぬ食べ物にありつくのみ。自分の最も恐怖する機械メカの作ったものだということを皆忘れるようにしているのだった。

 黒というには粗末なほどの皮肉ブラックジョークの出来上がりだ。

 そんな誰も寄り付かぬ場所にうろつく集団。挙句にはアンドロイドが混ざっているとなれば、きな臭いことこの上なかった。

 頭上の道路がほどけ、それぞれの搬送口へと延びだした。

 ひらけた視界の向こうには、ウミホタル専用の巨大駐車場―そして、ウミホタル自身の足元が迫ってきていた。ベスの報告通り、人影が小さく見える。車内の沈黙が、鋭いものに変わった。


 この時感じた妙な緊張感を、僕は生来忘れることがないだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る