第十三幕「アイロ二ンジャ」

 目の前の機械が、蛇のような、乾いた音を立てた。暗く、狭い路地裏。僕はそこで、機械と一対一で対峙していた。

 季節に遅れ気味の雪が、ふらふらと彷徨いながら落ちていく。

 無音の先には赤く光る双眸。耳の後ろまで避けた口には、ぬらりと光る金属製の牙。雪が溶け、濡れた髪がかつて、人を偽っていた肌に張り付いていた。

 歪に伸びた胴体が前に投げ出され、同様に狂った両腕が地面をつく。四つん這いになった、人のふりをした獣。いや、獣ですらない、呪われた悲しき偽物。

 すでに熱を放ち、雪を蒸発させ続けていた右腕を構える。

 怪物が一歩、前に進み出た。

 今だ。火焔に包んだ拳を、その眉間に叩き込んでやる。

 意を決して殴りかかった。生身ではない、無機質な重音がした。確かな手応え―渾身の一発が入った。

 しかし、怪物はビクともしない。

 腕からは、全く焔が出ていなかった。

 怪物が顎を大きく開く。勢いのまま進む僕は、慣性に導かれて、怪物の虚な口の中に呑み込まれた。

 顎が閉じる。金属が軋み、カーボンが砕ける。服を突き抜けた牙が肉の筋を骨から噛み削ぎ、無防備な臓腑が破裂した。血が吹き出て、残った二つの手足から温度が抜け出し、去っていく。

 朧になった意識で、僕の胸に再びあの、凶悪なる牙が沈んでいくのが見えた。


 

 汗だくで飛び起きた。目頭が熱い。胸を確かめて、全てが夢だと知り、力が抜け倒れこむ。

 焼けた鉛を肺に流し込まれたような感覚だ。息を吸うのも、吐くのも、足りない、足りないと体がせがむのに、押さえつけられているようで、苦しくて、熱くて、痛い。

 倒れ込んだ背中が、ぐっしょりと濡れている。

 ああ、また、あの悪夢か。

 闇が怖くて、腕で目を覆い隠した。するとすぐに、目の裏で、あの怪物の顔が現れるのではないかと恐怖して、目を開けた。

 フットライトに照らし出された僕の影が、部屋の向こうでいやに不気味な姿をしている。

 目に入る全てにビクつきながら、僕はベッドから立ち上がり、照明をつけた。明るくなった部屋から、幾分か不安の種が消えた。

 ベッドの脇にある時計を見る。今時珍しい古風な格好をした時計の針が、午前三時くらいを指していた。起きるには早い時刻だが、再び眠りにつく気もない。ベタつく汗を流すため、浴場に向かうことにした。


 浴場に着くと、そこは昨日からのままだろう、湿気た暖気を保っていた。湯船に手を突っ込む―ぬるい。流石に風呂までは沸かしていないか...諦めるまま、シャワーで我慢することにした。

 少し熱めの設定にしておき、勢いよく出るシャワーに頭をくぐらせる。少し軌道の逸れた水滴が、人間でなくなった腕や足に当たり、硬質な音を鳴らした。

 また、あの夢だ。後頭部に集中して叩きつけられる水滴を聞きながら、僕は先程まで見ていたそれを思い出す。

 あの夢を見るのは、これで何回めだろうか。忘れたが、その発端は決まっていた。

 クルードとのあの一件以来、僕は自分の結論に対して、疑問を抱くようになっていたのだ。

「感情を持つ―機械メカ...」ポツリとこぼす。実際に口に出して見ると、その考えのあまりの恐ろしさにゾッとしてしまう。

 僕が出した人が機械に勝る力、感情からくる意思で、自分の運命を掴む力という結論が、いともたやすく論破されてしまった。

 実際に、サトウと呼ばれたあのアンドロイドは、人を殺すという本能プログラムよりも、愛しさから死にゆく老人と最期を共にするという運命を選んだ。それは確かに、感情による意思の選択、そして運命の実現でもあった。ヒトではない機械メカでも、そう出来るのだと見せつけられてしまったのだ。

 矛盾という名の審判が、僕の信じるものを破り捨ててしまった。

 途端に、僕は恐怖をこの胸に宿すことになる。再び機械メカと相まみえた時、その時僕に、この腕の力がまた使えるのだろうか。

 振り出しに戻った気分だ。

 シャワーを止め、後頭部を撫ぜる。少し水圧が強すぎたようで、むず痒くなっていた。感覚のない手がそれを掻く。

 膨らむ泡が僕のこの不安まで洗い流してくれることを淡く期待しているうちに、朝の湯浴みが終わってしまった。

 ぼおっと、ドライヤーの風を髪に受けながら、僕は鏡に映るいかにも薄幸そうな顔をした青年を見つめていた。かのナルシウスは自分の美しさから鏡を見つめ続けて力尽きたとされるが、僕ならきっと自分の無様さに絶望して死ぬのだろうな、なんて想像したりする。

 後ろから引き戸の開く音が聞こえた。更衣室に誰かが入ってきたようだ。人に見られるのも嫌なので、僕は私物をまとめ始める。しかし、ものやことはそう簡単にもいかないようで、

「あなた、ここで何してるの?」と、女性の声がした。ぎょっとして後ろを振り向く。相手の背が高く、思わず見上げる格好となってしまった。そこにいたのは、紛れもない女性だった。

 あれ、なんで女性が―流したばかりの汗が額を濡らす。顔がどんどん熱くなっていくことが分かった。考えられる可能性を総括して、導き出された答えは。

 女風呂だ、ここ。

「す、すみません!間違えました!」

 頭を深々と下げて、更衣室から文字通り飛び出した。

 走り帰る途中、そういえば妙に整理整頓が行き届いているなとは思った―なんて僕は意味のないことを思い出していた。

 同様に、あの麗人の特異な点も、見逃してはいなかった。

 すらりと伸びた腕。その両腕が、黒く光っていたことを。


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