第二幕「狂死曲」

 はじめはほんの数人だったのだろう。何かしらの違和を感じとった彼らから端を発して、それは水面に立つ波紋のごとく広がる。

 どよめく不安の先に生まれたのは、カオスの計算から導かれた恐怖である。

 悲鳴が聞こえた。

 人が流れる。水が氾濫するように、人が蠢く。群れなして生きる動物の本能がただならぬ何かを察知して、数多に逃避を選択させる。その流れの超えた先、この混乱の中心にあったのは、一人分の輪郭であった。

 チカと僕はその場で足を止めてしまっていた。固まっていたと言った方が正しいだろうか。

その人影は何かが奇妙だった。

 上半身が、伸びきっていた。子供に壊された人形のように、ちぎれねじれ、歪に、天に向かって引き伸ばされていた。

 しかし、その姿に血はおろか、生傷らしきものは一つも見えない。

「アンドロイド…」とチカがつぶやく。

 僕は我にかえった。逃げなければ。

 異様な姿のそれがこちらを向いた。目が赤く光っている。おおよそヒトのものではない。

「逃げよう!」

 僕はチカの腕を掴み、強く引いた。彼女もこちらに向いて頷くと、僕ら二人は全力で駆け出した。

 アンドロイド。それはこの世界を脅かす、災害の類だ。昔こそアンドロイドは人の仲間だったりもしたらしいが、今は違う。

 我ら人類を滅ぼすべく、メカの母胎で生み出され、人に紛れてこれを内側から侵食する―人類都市の、ヒトにとっての脅威そのものだった。

 

 金属がひしゃげるような音が聞こえる。地響きがそれに重なった。振り返ると、今度は手足まで歪に伸ばした化け物が僕らを追いかけていた。

 顔はもはやヒトのそれではなかった。こめかみから裂かれて開く口には歪な牙が生え、赤く光る目は尚一層その殺気を増している。

 視線を前に戻すと、群衆が見えた。先程逃げた人々だろうか、しかしよく見るとその進みは止まってしまっている。人がもつれにもつれ、折り重なって栓を作ってしまっているようだった。

 僕はある一種の絶望を感じた。

 怪物は僕らのすぐ後ろまで迫って来ている。

僕の右手を掴む人―チカを見る。

 人の塊まで来ると僕はそこに、半ば強引に、彼女を押し込んだ。人を数人緩衝材にして、チカが転がる。

 僕の分の隙間は―なさそうだ。

 彼女を背にして、僕は怪物の前に立ちはだかった。

 怪物が僕の目の前に迫る。そして、首をこちらに伸ばしてきた。

 次の瞬間、僕の右半身を酷い痛みが襲った。

 怪物の吐息を感じる。どこかの隙間から空気が流れ込んできて寒かった。あの牙が僕の胸元をしっかり貫く。

 口に血がたまり、息をするたびにむせ込んだ。肺から空気が漏れているのだろうか、ヒュウヒュウと音が鳴っている。

 怪物はしばらくそのままにしていたが、その大口が満たされぬまで飽くことはないらしく、さらに深く噛みついた。僕の身を高く上に放ると、再び口に咥え、今度は引きちぎれんばかりに振り回す。

 肉を食う犬と一緒だ。

 自分の意識がだんだんと遠のいていることに気づいた。いよいよ目も開けられなくなってきたところで僕の記憶もまた、まるで電話のようにぷつりと途切れてしまったのだった。

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