かくしごと
今日の夫は、珍しく苛立っている。とはいっても、そこまで分かりやすく態度に出るわけではないので、微細な変化に気付くようになったのは最近のことだ。
夫の明が千歳に向ける顔には、いつも通りの飄々とした笑みがはりついている。しかしわずかに硬い。日中の出来事を面白おかしく語るのは相変わらずだが、常よりも口数が少なかった。
今日の酒はいつも出しているものより甘い。千歳はこれぐらいのほうが飲みやすいのだが、辛口の酒を好む明にとっては少々もの足りないのかもしれない。
いつもより夫の酒がすすんでいるのは、酒の味のせいか、それとも不機嫌のせいか。
ふと話が途切れ、沈黙が訪れたところで尋ねる。
「何かありましたか?」
明は手を止め、苦笑をにじませ頭を掻いた。
「……ん、そやなー。なかった言うたら嘘になるわ。聞きたい?」
「私が聞いてもよい話なら」
千歳の返答に、明は少しだけ迷う素振りを見せる。だが、話せないようなことなら、何でもないと即答してみせるはずだ。そういう男なのだ。つまり今回は、千歳が踏み込んでも許される話のはずである。
明は空いた盃に酒を注ぎ、一気に呷って、それから口を開いた。
「昼間、店にお義父さんが来はったんよ」
それだけで、大体の流れは想像できた。
千歳の父は、娘婿の明を目の敵にしているのだ。父にとって明は、影であれこれ画策して、店と一人娘を強引に掻っ攫った極悪人である。実際のところは、父の商才のなさを見かねた祖母が、明と千歳を引き合わせたわけだが、仔細は省く。
「まあ、大方予想通りのこと言われただけやけど……聞いとったらだんだん腹が立ってきてなあ」
「どんなことですか?」
「……どこぞの息子は金があっただの、家柄が良かっただの」
「あら」
何かと思えば、千歳のお相手の話だったらしい。以前父が持ってきた縁談の相手は、どれも金持ちのドラ息子ばかり。千歳にとっては忌避すべきものだった。しかし、父は未だにそのことでぶつぶつと文句を言ってくる。
「挙句の果てに、千歳は見る目がないだの、何も分かっちゃいないだの」
「父からすればそうなのでしょうね。私は、きちんと見極めてあなたを選んだつもりですけれど」
「分かっとる。それでも身内を悪う言われて怒るんは当たり前やろ」
「ありがとうございます」
「……別に」
一通り吐き出してすっきりしたのか、尖っていた口調が幾分か柔らかくなる。
「あかん。見苦しいとこ見せた」
「いえ、そろそろお休みになりますか?」
「そやな。そろそろお開きにしよか」
お盆を片付け、立ち上がる明の後ろに着いていく。結構な量を飲んでいたはずだが、彼の足取りは案外しっかりしていた。
部屋に戻って寝床を整えたところで、「千歳」と不意に名を呼ばれ、手招きされる。近付くと、耳元で囁かれた。
「俺がおらへんときに誰か来ても、家に入れんでええからな?」
言葉通りの意味だけではない、妙に含んだ言い方だった。まるで、そういう事実があったことを知っているような。
「ほんまに、隠せると思うてた?」
「……思っていませんよ。それに、家に上げてはいません。知らない方がご一緒でしたので」
観念して答えると、明は不機嫌そうに息を吐いた。
今日の昼間、家にも父がやって来たのだった。明が仕事でいないときを見計らい、しかも千歳の元縁談相手だという男を引き連れて。主人の許しがない人は家に上げられないと突っぱねれば、しばらく門の前で文句を垂れ流していた。
明がどうやってそれを知ったのかは分からないが、千歳の隠し事をよくは思っていないのだろう。髪を掻きあげる動作が荒い。
「やっぱりなあ。『千歳のほうに直接行く』て言わはったから。そら、普通は御し易そうなほうに行かはるわなあ」
「簡単に思い通りになりはしません」
むっとして言い返すと、そんなん分かっとる、と宥められた。
「分かっとるけど、お義父さんしつこいやろ。万が一、なんかあったら心配やから言うてる」
ため息とともに、強引に身体を抱き寄せられる。背中に回された手が熱い。肩に乗せられた頭をどうするべきかと悩んで、恐る恐る撫でてみる。嫌がるような素振りはなく、むしろ甘えるように距離を詰められた。
「……もしかして酔っていますか?」
滅多にない近さに動揺して問えば、耳元で小さな笑い声があがる。髪先や吐息が首や耳を擦ってくすぐったい。しかし、こちらが逃げ腰になったのが伝わったようで、身動きできないように抱き締められた。腕の力が強すぎて少し苦しい。
「さあ? どうやろ。慣れてへん酒飲んだからな」
その皮肉めいた言い方を聞いて、ようやく全てに納得がいった。
今日出した酒は、千歳の父が好む銘柄のものだ。明は、千歳の実家に出向いたときの酒の味を覚えていたのだろう。
「家に上げていないのは本当ですよ? お酒は、同行していた方から手土産だと渡されましたので、それだけ受け取って帰っていただきました」
千歳の答えを聞いて、腕の力が少しだけ緩む。未だに逃げられそうにない力加減だが。諦めて背中に手を添えると、明がふてくされた声でこぼした。
「よう出したなあ、そないなもん」
「お酒に罪はありませんから。明さんだって分かっていて飲んだのでしょう?」
「そら、酒に罪はあらへん……でも腹立つわぁ」
旨かった、と不本意そうに付け足された一言に、噴き出しそうになった。誰の土産だろうがいい酒はいい酒だ。明も千歳もそういう感覚は似ている。
それはそれだと留守中のことを何度も念押しされ、大人しく頷いているうちに、明にようやく普段の調子が戻ってきた。声から刺々しさがなくなり、険しかった表情も今は随分穏やかだ。
「やっぱり酔っていましたか?」
「さあ、どうやろな」
先程と同じことを問えば、先程よりも軽い口調ではぐらかされた。明確な答えを聞く前に唇が合わせられる。未だに不慣れな行為に翻弄され、それ以上の追求はできなくなった。
「俺は、いっぺんもろたもんは返さへんからな」
繰り返される口付けの合間に、低く呟くのが聞こえた。すぐにまた口を塞がれたから、返事は求めていなかったのかもしれない。
それでも一言、はいと答えれば、明は満足そうに笑んだ。
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