ガーデンメイド・チルドレン -飽食のセイレン-
扇智史
ガーデンメイド・チルドレン -飽食のセイレン-
配信を終えると、いつも死んだように眠る。たった1曲を全力で唄い、踊っただけで、体力を使い果たしてしまうから。ブラインドを閉ざし、窓をスモークにしたままの、常に人工の薄闇に染まる部屋で、時の経つのも知らないで眠る。夢も見ない。あるいは現実と区別がつかない。ワンパターンな環境、乏しい刺激、寝ているのか起きているのかさえ判然としない生活。夢は思考も記憶も整理したりせず、ただ静かに赤熱する感情だけがちりちりと脳みそを焼いていくかのような、苛立つ眠り。
重い物音がして、目が覚める。んっ、と、上半身を起こすだけで息切れがするし、立ち上がればふわりと頭がくらみ、ふたたびマットレスに倒れ込みそうになる。つかのまでも死に近づく感覚を得られるその眩暈は、血を見るようなジャンクな悦楽だ。
「……起きてるの?」
おずおずとした問いかけに苛立ち、
「起こされたんだよ」
しわがれた声で言い返す。母親はよけいに萎縮して、
「ご、ごめんなさいね……ただ、いつもの荷物が届いたから……」
自分の子どもにそこまで萎縮するくらいなら、生んでくれなくても良かったのに。どうせ【ガーデンメイド】で、遺伝病リスクを取り払って、顔かたちもそこそこ見られる、親が絶望も嫉妬もしないくらいに中の上……そんな子どもなら、誰の腹から産まれたって変わりゃしないじゃないか。
「ねえ、顔色、悪いわよ。大丈夫なの?」
「いつものことだろ。ほっとけよ」
この期に及んで”大丈夫”などと訊く無神経がほとほといやになる。
「さっさと出てけ」「あ、うん……」
一抱えほどのプラスチックの箱を置き、母親はドアの向こうへと逃げ出していく。そちらから、顔だけを出して、
「……ねえ、また、新しいお薬が」
「うるさい!」
精いっぱいの罵声は、しかしガラガラにかすれてか弱く、とうてい人に聞かせられない。お化けに出会ったような顔をして、母親は今度こそドアを閉めて去っていった。舌打ちをひとつして、私はよたよたと箱の前に這いずっていく。
薄く固くリサイクル可能な樹脂の箱は、現在の個人流通における貨物包装のスタンダードだ。紙のようにつぶれないし燃やす必要もない。そのままリサイクルしても、3Dプリンタに放り込んでもいい。冷ややかで画一的な箱の中には、原色で塗りたくられたパッケージ。ノーブランドのポテトチップやスナック菓子は、オープンソース種子から育ち、安全性保証のないイモや小麦を原料にした、健康志向になど目もくれない古式ゆかしいジャンクフードだ。
指が震えるのももどかしく、私はパッケージを引きちぎり、片端からスナックを口に放り込んでいく。舌を麻痺させ、乾きを助長する強い塩気。別の箱を開ければ、ボトルの水が所狭しと詰め込まれている。蓋を噛んで開けると、今にも前歯が折れそうだ。私や母親が産まれる前から、ボトルの蓋はこの形だ。もっと新しくすぐれた形を作れないのは怠慢だ。メーカーがさぼり続けるせいで私の前歯が傷物になる。いつか歯ぐきも傷ついて、口の中が血の味で染まればいい。無益な怒りに震える間も、ぐびぐびとポテチと水を口に流し込んでいる。どれだけ食べて、どれだけ飲みこんでも、熱量も滋味も感じられない。いつからこうなったのかも思い出せないし、この先どうなるのかも思い浮かばない。ただ、手と口だけを工場のロボットのように動かす。食べる快楽ではなく、繰り返す作業の法悦。もう生き物ではなくなりつつあるような不安が、つかのま私を苛んで、それを忘れたくて私は顔を箱の中に突っ込むようにして、また袋を引き裂いて、中身の半分をぶちまけて、底に落ちた破片さえもひっつかんで放り込む。滓で汚れた指が、唇に触れる。その瞬間、手が、ぴたりと止まった。私の中にある歯車は、ひとりでに動いては止まる。そして次に動き出した私の指は、ずるり、と自分自身の口中へと滑りこんでいく。慣れた行為に、しかし呼吸器は反射的なけいれんで応じた。獣のような音が漏れる。
食道の奥、胃の噴門がこじ開けられた。とたん、消化もされていないスナック菓子の破片と、唾液と、胃液が口から流れ出る。酸性の液体がのどと指を焼いて、刺すような痛みが走る。吐瀉物は、プラスチックの箱の底でびちゃびちゃと耳障りな音を立てて、跳ねた。ぐっ、うっ、と数度えずいて、空咳を繰り返す。肉の削げた体には、それさえ重労働で、このまま肺ものども壊れてしまえばいい。死ねそう、と頭をよぎった瞬間に、意識が遠退いて、私はそのままプラスチックの箱によりかかってくずおれる。
しかし、まだ目が覚める。あっけない死を死にたいのに。生きたいと渇望する人々のもとには、つまらない事故やありふれた病によるかんたんな終末が訪れる。死を願い続けるほどに、越えるべき関門が上がっていくように思えて仕方がない。うんざりするような矛盾だ。暗い憎悪が過ぎ去ると、まだ食べたりない、という衝動がこみ上げる。私は新しい箱を開け、菓子を食い散らかし、また吐く。原色のパッケージをよどんだ嘔吐の色に染め変えていく作業をひたすらに繰り返す。
日に何度そうしているのか、見当もつかない。1日が何時間だったのかさえ忘れてしまったし、どれほどの時間を私が目覚めているのかも判然としなくなって、それから何日過ぎたのかなんてもう夢の中のように感じられる。
吐いて、汚物の真ん中に顔を突っ込むように前のめりに崩れたまま、しばし。よろよろと身を起こし、悪臭を放つ箱に蓋をする。抜けた髪が蓋に挟まって、くにゃりと折れる。昔は伸ばしていた髪も、吐瀉物で汚れないように短くしてしまった。
しかし、アバターで着飾れば、髪などいくらでもごまかせる。朦朧としたまま、手探りでクリップフォンを探すと、運良く耳元に引っかかっていた。塩と食べかすで汚れた指で起動させ、さっきの配信ログを呼び出す。配信映像の中で踊る私は、スレンダーで活発な少女だ。キラキラしたホロアクセを身にまとい、声も変調させ、顔立ちや髪質すらもリアルタイムで整えている。おそらく、じっとしているだけでも広告モデルでアフィリエイトの小銭くらいはもらえるだろう。踊る挙動だけが、痩せて体力のない私のなごりを残して、危うげで不均衡だ。縋るように両腕を前にかざしてステップを踏めば、ぐらりと上半身が崩れ、歯を食いしばって支える。しかし次の瞬間、体重をかけた左足がずるりとフローリングの上をすべった。右足だけでは体勢を保てず、どしん、と床に手をつく。手首に痛みが走り、顔をしかめ、それでも左腕をバネにして懸命に立ち上がり、カメラへ挑みかからんばかりの視線。
[おおおお][すげえええ][八八八八八八八八]コメントの拍手喝采の裏、アバターに隠蔽されて、【はッピィ】は死にそうな顔色をしていたはずだ。まともなアイドルの健やかな懸命さからかけ離れた、それは不穏な翳り。【はッピィ】の内面に潜む、偶像に似つかわしくない闇が、彼女に異様な生々しさを帯びさせている。アバターアイドル【はッピィ】は、その際どい挙措の魅力で、そこそこのファンと小銭を稼いでいる。
「……くふ」
咳のような、笑いのような、奇妙な呼気が口からこぼれた。
コメントに混じって、ダイレクトメッセージがポップする。【まふぃん】だ。〈[愛][素敵]今日のパフォも最高だよ~[優良][結婚]〉タグの過剰装飾がかえって真実味を失わせる、いつものように空疎なメッセージは、私の胸を高鳴らせもしないが、ざわつかせもしない。
と、今度は音声通話の呼び出し。【
「うう……」
うなりながら、私は通話を開く。「おあ」としか聞き取れないだろう音を『おはよー』とアレンジしてくれる。
『おはよっ。今朝の配信も良かったよー』
闊達さと人なつっこさと、紙一重の媚びを漂わせた【麗音】が私の前に現れる。男受けしそうな少女のなりで、長い金色の髪を揺らし、小首をかしげるその仕草は、大手にプロモーションされる正統派アイドルの装いだ。これで、”彼”の仕草の大半は素だというのだから、空恐ろしい。リアルに会ってはいないので知らないが、声もわざわざ手術でいじっているという噂もファンの間には流れている。まだ性器を改造していないのに違和感があるほどだが、本人が言うには、その一線を越えてしまうと、かえってアイドル性が失われるのだという。そうまでして”彼”は【麗音】であり続けようとするのだ、偏執的に。
「んな当たり前のこと、わざわざ言いにきたのか?」
『褒めてるのにぃ』
しなを作るのが自然になっている【麗音】の態度によけいに頭に来るが、私の感情の発露はアバターが覆い隠す。彼にも他の誰にも、本心をさらけ出す必要はない。
『ね、ね、今度のあっきゅんのライブ見に行かない? たまには生ドル見るのもいいと思うよぉ』
「お断りだ」
【麗音】をはじめ、アバターアイドル仲間の誰も、私が過食症の引きこもりだとは知らない。体力が足りないとは思われているだろうが、そんな【麗音】の予想よりずっと私は痩せて、肌にも血管が浮いている。生々しさは回線の中で剥奪されるから、空想はいつだって実態よりきれいに漂泊されている。私たちが出会ったって、きっと不幸になるだけだ。
『そういうと思ったよ、しょうがないなぁ。他の子を誘うよ。それか【まふぃん】ちゃんみたいにファンを誘おうか』
「やめとけって。ていうか、会ってどうすんだよ、いっしょにステージ見るだけじゃすまねぇだろ」
『そこまで【まふぃん】ちゃんを真似るつもりないよぉ』
「んじゃ【コール】といっしょに行きゃいいじゃねえか、よくコラボしてるだろ」
『あの子を外に連れてければ苦労ないってぇ』
「わがままばっかだな」
『だから【はッピィ】ちゃんを誘ってるのにぃ』
《ぷんぷん》と自分でサウンドをつける【麗音】。
『ともかく【はッピィ】ちゃんが来れないならしょうがないや。またいつか会おうねぇ』
「そんな機会は永遠に訪れねえ」
私の捨て台詞より前に【麗音】は通話を切っていた。結局、あいつも自分の都合しか斟酌しない傲慢な人間だ。
ふたたび灰色が充満した部屋で、私はうんざりと横になろうとしたが、頭に血が上ってめずらしく目が冴えていた。汚物の臭いがまだ室内にねばっこく充満しているし、これではゆっくり出来ないだろう。本当に、死なないかぎり安寧なんて訪れないらしい。せめて、その代わりに、私は視界の端に浮かんだアイコンをなでて、視界をフリップさせる。
一瞬にして、灰色の天井は澄み渡った青空に、荷物でぎゅうぎゅうの床は緑色の海と岩礁に、そして私の体は人ならぬもの、大きな翼とかぎ爪の足を持った異形の獣へと変貌する。海面は不必要なほどリアルに波打ち、私の立つ岩のそばには、緑豊かな島が広がっている。巨大すぎる葉を持つヤシの亜種がこゆるぎもせずに屹立し、枝の先には巾着袋のようなものがぶら下がっている。ときどき、中から芋虫が這い出して、ヤシの葉を刻んで巣を作り、またぶら下がる。
[ガーデン]の片隅では、しばしばこうして世界が忘れられている。実験のために設定したはいいものの、何らかの理由で【ガーデナー】に放置され、抹消さえされずに捨て置かれた領域。ただ、この世に現れ得ない【ガーデンメイド】だけが、数万世代を経て棲息している。
暇に飽かせて[ガーデン]のコミュニティに手当たり次第アクセスし続ければ、たまにこういう棄損領域に行き着く。この海と、そして、岸辺で転がっているアルマジロの出来損ないのような生き物が気に入って、私はよくここにアクセスしている。
……くちびるから、声が滑り出る。こういう時に歌うのは、配信用にウグモさんが作曲してくれた商売用の歌ではない。懐かしいアニメの主題歌だったり、時には【ジェットスケーター!】だったりする。みーなは嫌いだが、曲に罪はない。
醜さを隠すアバター、手堅く構築された歌とダンス、それと挑発的な語りで客を賑わすパフォーマンス――そういう【はッピィ】としての活動に疲れると、私は、この[ガーデン]の隅で人知れず歌う。こうしている間だけは、たとえ聴くに堪えなくても、自分の声を偽りたくはない。たとえ、歌っている自分自身にしか需要がなくても、歌うことには意味があるはずだ。そんな、いくらか信仰じみた感覚に支えられながら、私は歌い、また唄い疲れて、海の色に似た、青くてほのかに安らぐ眠りへと沈み込んでいきそうになって、
『あなたが、ここのコミュ主?』
目を開けると、海の真ん中を小舟がやってくる。海どころか小川さえ渡れなさそうな丸木舟なのは、単なるロマンティシズムだろう。舟を操っているのは、おだやかな雰囲気の青年、のアバター。
『そこの変なの、あなたが作ったの?』
「……いいえ。ほったらかしにされてたのを、勝手に占拠してるだけ」
『そっか、じゃあ借りてもいい? 出て行けなんて言わないからさ』
「どうぞ」
気の遠くなるほど広い【ガーデン】の、こんな辺境に偶然辿り着く人が私以外にいるとは思わなかった。
もし、この離れ小島をこねくり回し、よそのコミュニティと接続させ、私の安寧を奪おうというのなら、即座に逃げ出すつもりでいた。けれど、青年は島をぶらぶらとほっつき歩いて、偽アルマジロや袋状の芋虫なんかを眺めているばかりだ。どうやら害のない人らしい。
だから、私も気の向くまま、鼻唄なんか唄い始めたりする。なかば寝ぼけたような心地で滑り出した旋律に、青年が振り返った。
『聞いたことある気がする。それ、誰の歌?』
「さあ、誰だっけ。検索すれば?」
私は適当に空とぼけたが、すぐ見つかるだろうとも思った。あいまいなメロディだけあれば、最近の検索エンジンはあっという間に原曲を見つけてくる。しかし彼は『んー、まあいいや』と首を振って、アルマジロもどきの観察に戻った。私はしばらく彼の背中を見つめて、何か言おうとしたけれど、どうしても言葉が出てこない。
【ブルーブルーム】――さっき配信で披露したばかりの、まっさらの歌。あれを知っているなら、きっと、彼は私の配信を見ているはずだ。ネットの奥を這いずる、地下アバターアイドルの歌を。ウグモさんも喜んでくれるだろう。もちろん、私も。
けれど、そのことを彼に伝えるべきかどうか分からなくて、私はぼんやりと岩礁の上に立ち尽くす。彼はヤシの下に座り込み、葉をちぎり取って空中に二重螺旋を展開する。芋虫が羽化し、死に、そしてヤシの葉裏の卵から次の世代が生じていく。[ガーデン]の時間は、どこか狂っている。
〈それはレアな経験でしたね〉
ウグモさんのコメントが空中に浮かぶ。
〈でも、ネームカードも交換しないなんて、はッピィさんは奥手ですね〉
〈ほっといてください〉
右手でエアロキーを打ちつつ、私の左手は脇に置いた袋からスナックをわしづかみにしている。
あれから何度か[島]に顔を出しているが、彼とはち合わせたことはない。コミュニティのログには足跡が残されているので、単にすれ違っているだけだと分かる。メッセージさえやり取りしない、ただ互いの存在だけで通じ合う仲というのも、まあ、悪くはない。
〈さっきのも、見ててくれたかしら〉
〈きっと見てくれてますよ〉
思わずそんな三文芝居のような会話さえしてしまう気分だ。今日の配信を見返せば、大量のコメントが動画を彩り、花を添えてくれる。この中に、彼のコメントが紛れていたとして、探し出せるわけもないけれど。
袋を探る手を止めないまま、私は箱に背中を預けて天井を見上げ、
〈今日の私、ウグモさん的にはどうでした?〉
〈いいと思いますよ。僕のイメージした曲想をよく表現してくれてますし。〉
コメントが一瞬途切れて、〈ただ、少し不安です〉
〈まずいとこ、ありました?〉
〈いつもより、よけいに危なっかしい感じでした。つまずいてたの、演技じゃないですよね〉
「……ああ」
ちょうどその場面が映像で流れる。ステップを踏んでいてバランスを崩し、お尻から床に打ちつけられた。アバターが追いつけず、一瞬揺らぐ。激痛だったが、何でもないという顔で立ち上がった私を、アバターはいっそう攻撃的に装飾した。しかし、ウグモさんの目はごまかせない。
〈体調、悪くなってるんじゃないですか?〉
〈まだまだ大丈夫ですよ〉
〈気をつけてくださいね……つぶれたら、元も子もないです〉
過食のことはウグモさんにも話していないが、おそらく何か察しているのだろう。ウグモさん自身、病気か何かでキャリアを諦めたことを匂わせる発言をしたこともあるし、作り出す歌にもどこか憂鬱や死の影がつきまとう。その闇が、私と引き合って、【はッピィ】が誕生した。
私に限らず、【まふぃん】も【麗音】も【コール】も、他のアバター系・ネット系のアイドルには、どこか病んだ空気がつきまとっている。光明寺水南のようなリアル系のアイドルが持つ、パフォーマンスの精度やポジティブな魅力とは一線を画した、私たちは薄暗いアイドルだ。崩壊と紙一重の病を抱いてこそ、私はウグモさんの歌を唄える。だから、今更お為ごかしを並べたりして欲しくない。そんなに優しくして、私の熱を奪わないで欲しい。冷めてしまえば、あなたの歌を唄う資格を失うのだから。こうして、コメントを返しながら、のどが詰まりそうなほど菓子を飲み込んでいるのが、私の本性なんだから。
〈ウグモさんは、歌を作ることだけ考えててください〉
〈分かりました〉
その一言を返すのに、ウグモさんの指がエアキーボードの上でどれほど迷ったのだろう。
どちらからともなく、接続を切った。薄闇の部屋に沈み込むような姿勢でつかのまたたずむ。次の瞬間、腹の奥からまた嘔吐感が迫り上がってきて、まだ中身の残っている菓子袋に吐き出した。己のおぞましさを憎悪するように、長く長く吐く。吐き気がおさまると、ずるずると床に横たわる。起き上がるのも億劫だ。食べた端から吐き出してしまうから、体力は衰える一方。ダンスはむしろ痩せたくて始めたほどで、今でも踊り続けているのはもはや中毒でしかない。それに、摂食障害による低カリウム血症は、筋力の低下を引き起こす。ものを持ち上げるのにも苦労するほどにやせ細った手足で、全力で唄い踊るのもそのうち限界だ。このままじゃ、いずれ……憂鬱が胸を抉り、私はまた、箱の中に手を突っ込んでいる。自分では止められない。機械のような運動に疲れ果てて、横になる。
呼び出しのアイコンをなかば無意識で開くと、配信が流れてきた――【まふぃん】だ。私と違ってやたらに体力が有り余っている彼女の声は、クリップフォンのスピーカでは音が割れてしまって、内容が耳に入ってこない。代わりに目に入ってくるのは、礼賛と罵倒が入り交じったストリーム上のコメント。何しろ【まふぃん】の言動は過激だ。苛烈な世間への批評、生ドルへの痛烈な中傷、そして私生活に関するあけすけな暴露――その中には、退廃した性生活まで含まれている。【まふぃん】は平気でファンにリアルを晒し、出会い、誰とでも寝る。己を切り売りして、身も心も傷つけられるリスクを負って【まふぃん】は何がしたいのか、それはまったく分からない。尊敬できる気もするが、やっぱり恐ろしくて、不気味で、だから私は【まふぃん】が嫌いだ。映像を埋め尽くす欲望と嫉妬にまみれたコメントも嫌いなら、その中で平然としている【まふぃん】自身も大嫌い。それなのに彼女とのつながりをほどかず、配信をこうして流しているのは、自分の欠損に【まふぃん】が引き合わせる忌々しい自傷行為で、私はそれをやめられない。
吐き気を感じ、とっさにそばの菓子袋をつかみ、中にもどす。ぜえ、はあ、とため息をついて、配信の方に意識を向けると、ストリームのコメントが爆発していた。ものすごい速度で流れていくコメントを見やれば、祝福と罵倒が半々というところか。何事か、と動画を巻き戻して再生すると、【まふぃん】がしなを作りながら曰く『赤ちゃんデキちゃいました!』……荒れて当然だ。嘘でも本当でも問題発言には違いなくて、何にせよ注目を集めたがる【まふぃん】の常套手段だ。しかし、そんな手法に視聴者はあっさり乗せられて、浮かれた頭でぽんぽんと募金している。低額決済を利して小銭を集めるのは、クラウドファンドと称してライブや握手会の所場代をふんだくる生ドルと似たようなもので、体の良い詐欺だと思う。誰も彼も同じ穴の狢だ。
疲れ果ててごろりと寝転がり、意識が落ちかけたところでメッセージ。
〈【愛】聞いててくれた~?【衝撃】〉
【まふぃん】のうざい感じのコメントが視界の端に浮かぶ。挨拶もめんどくさくて、
〈妊娠したって?〉
直球で問い返す。
〈【照】【照】【恥】【恥】【喜】【喜】そうなんだよ~〉
〈で、本当なの?〉
〈【怒】【癇癪】ほんとだよ~【ぷん】【ぷん】〉
怒りらしきコメントと同時に、重たいデータが飛んでくる。開いてみると、部屋のてっぺんまで届く二重螺旋が展開した。添付したネームカードの名前はまだ空白。
〈うちの子だよ~〉
タグのないコメントに、逆に【まふぃん】の胸に満ちた愛情が伝わってくる気がした。
〈[ガーデン]で開いたら、かわいいお子ちゃんが育つんだからね~〉
こんなもの捏造なんてしないだろう。
〈何ヶ月?〉
〈実はもう7ヶ月なのです【不安】〉
「はあ!?」
思わずリアルに声を出してしまい、しばらく咳き込む。ゲホゲホ言いながら、何とかエアロキーを打ち、
〈それ体大丈夫かよてか全然見えねえ〉
〈【歓喜】ここぞとばかりアバターを駆使してるのです~【自慢】〉
言われてみればそうに決まっている。私がやせ細って青ざめた肉体を隠すのと同じ意味で、【まふぃん】はボテ腹を隠蔽している。
〈バレねえもんだな〉
〈【はッピィ】ちゃんの外見だってよく隠れてるよ~【笑】〉
添えられた軽いタグに、ひやりと背筋に走るものがある。
〈老化も劣化もしないようにアバターを使うんだよ~生ドルなんか蹴散らすために~〉
【まふぃん】のコメントに、私はうなずかざるを得ない。彼女と思想は同じはずだが、それを認めたくないのだ。
〈そういえば、子どものことはもう調べたの?〉
内心から目をそらすように、私は話題を変える。
〈隅から隅までね~【照】〉
〈それじゃ遺伝子診断とかもうしたのか。ひょっとして【ガーデンメイド】にした?〉
〈【肯定】〉
〈父親は誰なの?〉
〈【拒否】ひみつでう~【拒否】〉
自分でも分からないんじゃないか、と想像しつつ、
〈ともかく気をつけろよ。大事に〉
〈【愛】【愛】【愛】ありがと~【感謝】【感謝】【感謝】〉
あまりのうざったさに、また吐き気がして、少し吐き、寝転がる。
……あんな、優しい言葉かけるんじゃなかった。【まふぃん】のことだ、愛しすぎて子どもを押し潰してしまうに違いない。犬を禿げさせる飼い主のように。子どもに【ガーデンメイド】の遺伝子を与えるのを愛情と勘違いしている、押しつけがましい母親のように。ゲノムさえすぐれていれば真っ当な子どもが育つなんて勘違いして、レールから外れそうになるとそれを否定して力ずくで押し戻し、窮屈な価値観ですべてを決めつける暴力を無慈悲に行使して、ついに子どもを粉々に破壊するのだ。生まれつきだけで、命が決まるはずもないのに。今からでも【まふぃん】の元に駆けつけて、彼女の腹を蹴飛ばして、かわいそうな子どもを救ってやりたくなる。私の惨めさを他人に味わわせたくはない、と思うが、それもおこがましい話だし、今の私は部屋を一歩たりとも出られない、指先さえも動かせない。
「……」
唇から歌がこぼれる。すっ、と背中に力が滑り込んできたような感覚。膝に力を入れ、立ち上がる。今なら踊れるかもしれない。荷物の入った箱とゴミ袋であふれた部屋の隅に、真っ赤なペンキで線を引いた区画がある。天井に3つのカメラを固定して、配信映像を映し出すための、私の聖域だ。ここに踏み入れば、私は【はッピィ】になれる。いつもそうあり続けてきた。そうなれるはずだ。着の身着のまま、何を唄うかも決めないまま、私はカメラの前に立つ。アプリが起動し、空中に[開始]パネルが浮かぶ。一瞬だけ、頭がくらむけれども、今このときだけは心地よい緊張だ。指先にうっすらと冷えを感じながら、パネルに触れる。
【はッピィ】の配信開始情報はあらゆるSNSを通じてファンにプッシュ告知され、すぐに拡散。目の前に〈来たああ〉〈待ってました〉〈乙〉といったコメントが大量に流れる。画面の中に取り込まれたような酩酊感が、私を鋭くさせてくれる。たとえ私がやせっぽちのみすぼらしい小娘でも、私は【はッピィ】だ。
『みんな、お待たせ! 【はッピィ】ちゃんのギラギラライブ、始まるよ!』
いつもの台詞で気合いを入れて、私は手元のパネルを叩く。とっておきの新曲、【宿業フラストレート】。
一歩踏み出し、両腕を翼のように広げ、
『あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!』
のどの割れそうな叫びをアバターがさらに拡大する。息が途切れた直後、がくん、と体を前に折り曲げ、一瞬のインターバル。そして、次の瞬間には私は床を蹴って跳んでいる。着地と同時に、次の声。
荒々しく禍々しい歌詞に合わせ、ダンスも激しい振り付けが与えられた。ステップは大きく、ターンは鋭く、ジャンプの高ささえふだんより高さを求められた。これもウグモさんが私に与えてくれた使命のように思え、私は限界まで体力を振り絞る。あっという間に汗だくになり、弱った筋肉がしびれるように痛みを訴える。回線を通せばかき消えるその痕跡は、しかし私の内側にじくじくと骨身に染みついていく。
踏ん張らなくては――思ったその時、足首からいやな音がした。このところ、ずっと右足に違和感があった――思い出したときにはすべて手遅れで、重く鈍い音がして、腰骨から脳天まで響くような激痛が走り、私はたまらず床に仰向けに倒れた。思わずついた左手から、ぴしっ、と、不吉な音が、脳裏に突き刺さった。折れたかもしれない。カルシウムが欠乏し、骨粗鬆症だと診断された私の体が、とうとう耐えられなかったのだ。
立ち上がらなくちゃ、と思うが、動けない。ひねった足首も、打ちつけた腰も、手首も、触れることさえままならない痛みで、むしろ焼けるようだった。私の意志は、どうあっても、体の悲鳴に逆らえない。
倒れた私の頭上を、コメントが流れる。
〈神新曲〉〈これ手抜きか?〉〈斬新!〉
顔をゆがめたまま、視線操作で配信画面を表示する。そこに映っていたのは、ほとんど伏せった状態で顔を持ち上げ、唄い続ける私の姿だ。動けない私、唄う【はッピィ】、矛盾を解消するためにアバターの構築した折衷案が、それだった。コメントは賛否両論だが、怒濤のような盛り上がりは映像を圧倒するかのようで、それに拮抗するかのように【はッピィ】はいっそ禍々しいほどの表情で唄う。その空間で、私ひとりだけが置いてけぼりだった。
アバターが唄い、コメントが盛り上げるなら、私は必要ないじゃないか……ひび割れたかに思える手首から、激痛が侵略してくる。胃の奥から吐き気がこみ上げ、床の上に戻した。
「ちょっと!!」
ドアが開いた。同時に配信が途切れる。親の乱入を検知して動画を止めるのは、古くから実装されているストリームアプリの標準機能だ。回線の向こうは非難囂々だろうが、そんな場合ではない。部屋の入り口で、母が泣きそうな顔をしている。母は恐る恐る、菓子の入った箱を避けて、しかし着実に入り込んでくる。私の部屋から響いた震動、倒れて嘔吐する私、真っ赤に腫れた手首、すべてが侵入を許す口実だ。理由を見つけたことに、むしろ母は、喜んですらいるようだった。
「こっち……くんな」
私のか細い拒絶に、母は耳を傾けもしない。
「ほら、言ったじゃない、だから、ちゃんと普通に食べなきゃ駄目だって」
普通に、という単語が、私のやせ細った全身をさらに過酷に締め付ける。
「ねえ、新しい治療法が見つかったの、今度こそ治るのよ」
母がそう言って持ち込んできたものは、たいていろくなものじゃなかったし、私を回復しはしなかった。金と時間と信用をドブに捨て続けたことを全部忘れて、取り憑かれたように母は、何もかもきれいに解決してくれるありもしない魔法を探し続けている。
「痛い? 痛いの? 病院に行きましょう、だってほら、表に出て日の光を浴びれば大丈夫、元気になるわよ。お薬もちゃんと飲んで、そしたらまた学校にだって行けるようになるし、お友達とだって遊べるし、ほら、あなたはほんとは出来る子なんだから」
鬱なんて家で治せると言ってずっと病院も向精神薬も拒絶し、成績が落ちたと言って私の放課後を奪い、まともな遺伝子を持たせたのにどうして何も出来ない子になったの、と言って私の尊厳を削り尽くしたその口で、母は切々と訴える。
私がものを食べなくなってから慌てふためき、過食と嘔吐を繰り返すようになった私を次々に怪しげな医師に連れていっては、あやしげな治療法でいじり回し、刹那的な自己満足に溺れた母親の表情は、あくまで慈愛に満ちている。感動的すぎて、殺したくなる。
けれど、人を殺す力なんてないから私は「来るな」とつぶやいて、どうにかこうにか身を起こす。積み上げられた宅配の箱に背中を預けつつ、ずるずると、私は母から逃れ、カーテンを閉めたままの窓へとにじり寄っていく。
母は心底ふしぎそうな顔で、
「なぜ逃げるの? 親子でしょ?」
あなたなんか子どもじゃない、と先に言ったのは母の方だ。それも忘れてしまったんだろう。大人はたいてい、子どもに突き刺した自分の言葉なんて覚えていない。それが心を殺すような言葉でも。
私は、もう何も言わずに首を振る。その時には、私はすでに窓際にいて、カーテンといっしょに窓を引き開ける。陽射しが室内を浄めるように照らして、吐瀉物と食べかすで汚れた床の惨状をあからさまにする。空気が入れ替わる。
「ちょっと、何を」
うろたえる母に背を向け、私はベランダに駆け出す。4階だが躊躇はない。何せ5度目だ。ネットを張って最悪の事態を防いでいるのも知っている。つるつるの手すりを乗りこえ、身を乗り出す。骨や筋が痛むがかまっていられない。
母の悲鳴を背に、飛び降りる。3階の高さに張られたネットが私を受け止め、そのまま絡め取ろうとする。誰かの叫びが聞こえた。目撃者だろうか、知ったことか。ずるずるとまといつくネットを逃れ、私はさらに落ちる。今度は庭先の観葉植物がクッションになった。そこからさらに滑り落ち、背中をしたたか地面に打ちつけ、呼吸が止まる。なおも私は身を起こし、裸足のままの足を引きずり、違えた筋の痛みをこらえ、マンションの敷地から逃げ出す。
何年ぶりか覚えていないけれど、久方ぶりの外だ。心地いい空気と熱は、しかし一瞬で痛みに取って代わられる。手首も足首も、ほんとだったらきっと歩くことさえ難しい状態だろう。いよいよ深刻な腫れが手首を握りつぶさんばかりで、それでも私はここから離れないといけない。熱っぽい衝動が、私を突き動かす。どこへ、とか、何を求めて、とか、そんなことは考えつきもしない。ただ、逃げなくちゃいけない。足の裏にちくちくと刺さるアスファルト、よろけてガードレールに太ももをぶつけ、街路樹にもたれる私を、誰も彼もが奇異の目で見つめ、声をひそめる。コメントよりも陰湿で、他愛ない悪意に満ちた、自然すぎて醜悪な言葉がささやかれる、その中を私はよろよろと進んでいく。陽射しはまぶしく、外気の熱に目がくらむ。右も左も分からないまま、心の赴くままに歩いて、私はいつしか市街地まで来ていた。
眼前に、異様な姿が出現する。
体の半分を緑色に塗りたくられ、首元でピクピクと鰓のような何かが蠢き、痩せた手足をゆらゆらさせる、みすぼらしい服を着た女性――
ビルの窓ガラスに映った、私自身だ。
日光から栄養を摂れるように皮膚に葉緑体を取り込み、食べ物を口以外から摂取できるように首に口とも鰓ともつかない器官を植え付けたのは、母が見つけた遺伝子デザイナーだ。拒食と過食を克服するという名目の、フリーキーな人体改造。
母の望んだ、「普通」の成れの果てだった。
母の持ち込んだ治療法が何であれ、それは私の遺伝子をもてあそぶ怪物的な手法に違いなくて、そんなものにこれ以上、私の体を食い物にされるつもりなんてなかった。でも、母の手の中から離れ、どこに行けばいいというのだろう。
血が足りない。葉緑体が酸素と栄養を作ってくれるといっても、人ひとりを支えるにはまだまだ少なすぎる。ガラスに手をついて歩みを進めても、目まいは強くなるばかり。路上に嘔吐し、醜い痕跡を残しながら、私はいよいよ足を引きずり始めている。足首がみしみしと、割れそうだ。
そうして、いつしか私は、道の片隅に倒れていた。避けて通る人々を、恨みも怒りもない虚ろな視線で見上げたのを最後に、私の意識は途切れた。
目覚めたのは、ひんやりとした空気の中だった。床に設置された間接照明がうっすらと、白い天井に色をまぶしている。ベッドから起き上がろうとすると、左手に違和感がある。見れば包帯で固定されていて、手首が動かせない。右足も同じようだった。誰かが私を保護し、この部屋に寝かせた。そう気づいて、ふと自分の着ているものを確かめる。いつもの室内着ではなかった。そのことに、奇妙なくらい感情が動かなかった。まるで、体が心から切り離されてしまったかのよう。常に私を突き動かしている食欲の衝動さえも、今は感じない。
ぎこちなくベッドから降りようとした時、ドアが開く音がした。とっさにシーツで身を隠しながら振り返ると、見知らぬ女性が私に目を留めて、微笑んでいる。
「意外と元気そうね。痛くない?」
「……はあ」
親以外の人とリアルに向き合うのが久しぶりで、つい、声がよどむ。
女性の後ろから、部屋をのぞき込む子どもの姿――いや、子どもなのだろうか? 巨大すぎて不安定に揺れる頭と、その下の胴体がアンバランスで、今にも倒れそうなその姿からは、年齢が判別できない。彼も、いわゆる【NS】だろうか?
「新しい友達ですか?」
問う声は少年のもので、
「それはこれから訊いてみないと」
女性は優しく答えて彼のほおをなでる。小さく会釈をして、少年はドアの向こうに去っていく。居残った女性は、部屋にあらためて足を踏み入れ、
「ごめんなさい、」
そう告げて、私の本名を呼んだ。
「少しだけプロフィールをのぞかせてもらったわ。だから、あなたの身元や病歴も把握しているの。申し訳ないけれど、こうしないと、保護できなかったから」
「……いえ」
私は首を振って、
「でも、保護って、いったい」
「別に監禁しようとか、そういうんじゃないから」
女性は自分のプロフィールを開示する。
「
福祉とカウンセリングに関連する国家資格の肩書き。
「遺伝子的・生物学的な虐待の疑惑がある子どもたちを保護するのが、私の仕事。ここはまあ、セーフハウスみたいなものね。民間の払い下げだからぼろいけど、れっきとした国の施設」
「虐待、なんて、私は」
「本人の意志がはっきりしない状態での遺伝子改変は、虐待に当たる」
きっぱりした三嶋の言葉が、私のあやふやな記憶を呼び起こす。私が過食症になったころ、投薬によってとにかく異常な食欲を抑えて欲しい、と母親が医者に怒鳴り込んだころ。
医者が出した、[ガーデン]の最新の成果から作られた、という未認可の薬は、ドーパミン系を阻害することで過剰な食欲を抑止するという名目だった。それ自体は効果があったものの、私は喜怒哀楽をほとんど喪失し、食事どころか日常生活にすら事欠く状態となった。
さらに混乱した母親が頼ったのは、ウェブで名を知られた”独自のセンス”で知られる遺伝子デザイナーだ。
彼は、経口以外の摂食器官によって過食を克服しようと言いだした。金銭的にも、道義的にも、尋常な方法ではなかった。もちろん保険も効きやしなかった。しかし母親は惜しげもなくその治療法に金をつぎ込み、そのたびに私の体はパッチワークじみて変貌していき、とうとう私は外に出られなくなった。
自室のカーテンを閉め切っていたのも、半分は、自分の皮膚が光合成するという事実から逃避し、見ないようにするためだ。
けれど残りの半分は、過食と同じ理由――自分をわざと壊そうとしていたのかもしれなかった。丁寧に作り込まれた小綺麗な体を壊すために異常な食行動を繰り返し、頑丈で健康すぎる体を壊すために部屋に閉じこもり、ギリギリまで体を酷使するダンスに耽溺した。
自分で自分の体を崩壊させて、緩慢に死のうとしていた私は、それなのにあの部屋を逃げ出した。結局、土壇場でこうも浅ましく生き延びようと欲するような、陳腐な生き物だったということかもしれない。
吐き気に襲われた私の、その肩に三嶋がそっと触れる。
「もしも、自分の家に帰りたいというなら、その意志は尊重する。強制はしないわ。ただ、うちの組織は警察力ないから、一度帰ったのを強引に連れ出したり、そういう介入は出来なくなるかも」
どこか頼りないようでもあり、しかしじんわりとおなかに沁みる三嶋の声は、つかのま、私の中の重い熱を冷ましてくれるようだった。
「あなたの障害とも、うまく向き合えるか分からない。それでも、出来るかぎりのことはさせてもらえれば」
彼女の指が、シャツの上から私の鎖骨をなぞっていく。慣れない感覚に、ぞくっ、と背筋が震えた。口をついて出たのは、
「……しばらく、ここにいます。少し考えたいから」
そんな言葉だった。
考える――久しく忘れていたこと。
「そう」
安堵のため息を漏らした彼女は、微笑んで、
「もしよければ、話をしましょ。データだけじゃ分からない、あなたの言葉を聞きたい」
そう言って、三嶋は自分のクリップフォンに軽く触れて、
「どこか、行きたい所はある?」
私はちょっと言いよどみ、それでも、
「……[ガーデン]」
一瞬後、私と三嶋は森の中にいる。
私のアバターは、いつも[ガーデン]で使っている羽の生えた化け物のそれ。かたわらにいた三嶋は、男の姿――見覚えのある、安らかな面差しの青年。
「あなた、」
「会ったことあるね、一度」
いつかの青年の声で、しかし三嶋の口調で、三嶋は言った。
「あの【島】、行く?」
「いいえ……ここでいい。また、そのうちに」
「そう」
三嶋は、嬉しそうなそぶりでうなずく。無言で腰を下ろし、木々の間を飛び回るモモンガみたいな生き物を見上げた。話をしたいと言ったのは彼女の方なのに、私の方をもう見もしない。
だけど、それでもいいような気がした。
私は立ったまま、[ガーデン]の梢を渡る風に聴かせるように、かすかな声を紡ぐ。自分の歌を唄う気になれなくて、口ずさむのは誰でも知ってるメジャータイトル。
三嶋も、[ガーデン]の生き物も、静かに聞き入ってくれているかのよう。
しばらくして、誰かが部屋に入ってくる気配がする。目だけそちらに向けると、さっき顔を見せた大きな頭の少年だ。彼は、私の方をひと目見、
「【翼ハンドメイド】ですか?」
「……まあね」
いつのまにか【みーな】の歌を唄っていたのに気づき、苦笑いがこぼれる。しょせん、こんなものだ。
[ガーデン]をログアウトした三嶋が、
「あ、もうごはんの時間?」
「はい、皆さんの分……」
言いよどんで、少年は私に目を向ける。私のこと、病状のことをどれくらい知っているのか、彼の視線はこちらの感情を窺うような怯えの色がある。
「……私は」
「いっしょに行きましょ」
後ずさりかけた私を、三嶋の手が押しとどめた。
「え?」
きょとん、と、私は三嶋を見つめる。私の体の形を思い出させようとするみたいに、背骨を折るような強さで、三嶋は私の背中を叩き、
「どれだけ食べてもいいし、吐いてもいいから」
がつん、と、私の頭の中がショックで真っ白になっているうちに、三嶋は私の背中を押して、ぐいぐいと外に押し出した。
雑然と、汚れやホロ落書きの残る廊下を歩く。彼らのダイニングはどうやら、いちばん奥の部屋にあるらしかった。まだぼうっとする私の耳元に、三嶋が唇を寄せる。
「人間の血をジュースみたいに飲む子どもも、おなかに虫を飼ってて石やコンクリを食べる子も、あたしは知ってる。あの子たちも知ってる。だから、あなたぐらいはなんてことないんだよ」
冗談めかした言葉に、私は笑い返したつもりだった。だけど、すこしだけ、涙が落ちた。
「さ、行きましょ。びっくりしないでね」
「……はい」
うなずいた私に、三嶋は凛々しい視線で強くうなずき返し、ドアに手をやる。扉の開いた向こうに、私の新しい食卓が待っている。
ガーデンメイド・チルドレン -飽食のセイレン- 扇智史 @ohgi_
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