第4話 どう足掻いても勝てない相手

『――――テロリストが現れました! 指定区域内の皆様は迅速に避難してください!』

 というような旨の避難指示が、周辺を駆け回る車がスピーカーを通して喧伝していた。【十二使徒】の仕業だと公表するわけにもいかないから、テロリストという名目にしてあるようだ。

 どうせ訓練だろ、なんて危機感の薄い者など一人としていなかった。何故なら、護国寺の逃げてきた北の方では轟音が立て続けに鳴り響き、加えて光の柱が天を切り裂いているのがはっきり見えた。異常事態であることを知らしめるには充分過ぎた。

 ムサシが救援要請を出して既に三十分以上が経過している。もともと人口が少なかったようで、避難自体はスムーズに進んでいるみたいである。彼も今しがた足の悪い老人を移動用バスまで背負って送り届けてきたところだ。

「この辺りにはもういないか……?」

 周囲を見回して人影の有無を確認していると、不意に持たされていた小型通信機が鳴った。教えられた通りに操作し、向こうと連絡が通じる。

「はい、こちら護国寺」

『おお、出てくれたか! こちら入谷、そっちの現況は?』

 野太い声の男――支部長の入谷昴であった。彼は興奮した声音で捲し立てるようにして尋ねてきたので、護国寺はこれまでの一部始終を報告する。

 突如【兵隊王】と接敵したこと、ムサシが【兵隊王】を倒したこと、その後四体もの【十二使徒】が現れ、彼はまだそこで独り戦っているということ。

 入谷はただ相槌を繰り返していたが、護国寺の話が終わるや否や、

『なるほどな……。あの莫迦(ばか)が、命を大切にしろとあれほど…………!』

「すいません、俺の責任です。俺が、どうしようもなく足手まといだったから……」

 互いに嘆くような声色だった。いち早く気を持ち直したのは入谷である。

『過ぎたことは仕方ない。柳生の奮闘に期待しよう。近くにいた言霊師は既に先行させているし、第二陣の部隊を編制中だ。間もなく支援できる』

「……こっちの避難はあらかた完了しましたし、俺は一度ムサシさんの元まで戻ります。やっぱり、あのまま放っておくわけにはいかない」

『止めておけ。柳生の目利きは確かだ、あいつがそう判断したのならきっとその通りなんだろう。俺は現場にいないから、はっきりと断言はできんが――――』

 彼らの言う通り、護国寺が単騎で駆けつけたところで戦局が大きく変わるとは思えない。ここは援軍を待ち、合流して敵と当たるべきだ。それが最良の策であることは理解している。

 だが感情がまるで納得していなかった。死を美談とする気は毛頭ないが、それでも役に立ちたかった。ムサシたちがどう言おうと、自分が納得の行く選択をしてみたかった。

 入谷に自身の決意を伝えようと、口を開いた直後。

 磁石の力が働いたかのように、護国寺の視線は背後に現れた人物に半ば強制的に注がれる。圧倒的な存在感が、彼の眼を釘付けにしたのである。

 黒装束に、帯刀。強く印象に残っているそれらは、その人物が遠目からでも柳生武蔵であることを示していた。距離にして二十メートル先に、彼は商店街の入り口を示す門を潜ってきたところだった。

「ムサ…………っ!?」

 袴が所々傷んでいるものの、五体満足な姿を見て安心した護国寺は急いで駆け寄ろうとしたが――――止めた。足が勝手に止まった。

 電話越しに聞いていた入谷は、ムサシという単語に反応して、

『何っ!? 柳生が戻ってきたのか!? 勝ったにせよ負けたにせよ、生きていてくれたならそれで――――!』

「…………支部長、すいません。一度切ります」

 おい、と呼び止める声を無視して、護国寺は一度通信を切った。

 その間にもムサシは近付いてきていて、今ではもう細かい所作も認識できるほどの距離になっている。結っていたはずの長髪が解けて、表情を読み取ることはできなかった。

 彼はゆっくりと手を掲げて、

「よう、護国寺。心配かけたな、俺はこの通り無事だ」

「…………………………………………………………………………………………、」

 変わらぬ柔和な声音。紛れもなくムサシのものだ。

 しかし護国寺は彼の顔を指差して、顔に怒気を滲ませながら言った。

「違う……! ムサシさんはそんな悍ましい殺気を放ったりはしてなかった!」

「――――――――」

 ムサシに似た何かが俯いた。それからクク、と小さく笑って、

「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!」

 まるで舞台役者のように、大仰に笑い飛ばした男。長髪をかき上げ、ようやく顔全体が露わになる。ややつり目気味の双眸に、小麦色の肌。まさしくムサシそのものである。ただ表情が獰猛な獣を連想させる笑みに染まっていた。

 体格も、声も。間違いなくムサシのものだ。けれど細かい部分でムサシではないことが何より明確に伝わってくる。

 何が何やら分からぬ状況下において、護国寺はされど本能で察していた。先んじてそれを、ムサシ本人が口にした。

「――――この器(ムサシ)は【言霊王】に敗れた。そして今は、私が動くための依り代となっている」

 ムサシが、負けた――――! 【兵隊王】でさえ圧倒してみせたムサシが、よもや敗れたというのか。

「無論、サシの勝負でな。私たち【十二使徒】はその誓約を破れない。窺っていたが、無様なものだったよ。最後の最後まで、自分が勝てると信じて疑わなかった。身の程知らずの人間に相応しい結末だ」

「……」

「ただまあ、他の塵芥に比べれば幾分マシだがな。良い器をもらった、これなら任された日本を粛正することも容易いだろう」

 任された、ということはこの【十二使徒】が脱落した【兵隊王】に代わり日本を滅ぼそうというのか。よりにもよってムサシの肉体を使って。

 ムサシは正しく『護国の剣』だった。剣なき民の剣だった。その気高き護り人を汚そうというのなら、それは全霊を賭して阻止せねばならない。

「止める」

 今、この場で。【十二使徒】の目論見を潰えさせてやる。護国寺は自ら一歩前へと踏み出して、戦闘の意思を示す。

 その素振りを見て、男は心底ガッカリした風にため息を漏らした。

「貴様の言霊は器の知識を共有して把握済みだ。それに、貴様は一度この器に手も足も出なかったそうじゃないか。加えて私の介入によって基礎能力が大幅に向上している。……これだから人間は愚かだというのだ」

「……黙れ。いい加減耳障りだ。その声、その姿で、お前がこれ以上何も語ってくれるなよ……!」

 グッと腰を落とす。全身に霊力を巡らせて、言霊を発現させる準備を整える。

 男の言う通り、溢れ出る霊力量からして元のムサシとは比べようもないほどの差がある。【一刀両断】の力がかなり強化されているのは容易に想像できる。

 しかし、護国寺もムサシに自身の言霊について話したわけではない。言霊名と、何回か手合せした程度の情報しか持っていないはずだ。それにムサシの実力は彼も把握している。それほど不利になったとは思っていない。

 男は抜刀し、切っ先で宙に十字を描いた。

「どれ、少し相手をしてやろう。言霊師というのなら試運転にもちょうどいいだろうしな」

 彼の挑発を無視して、護国寺は意識を集中させ体内を巡る霊力をコントロールする。霊力が身体に馴染んだ感覚を得てから、彼は唱えた。

「【風林火山】――――ッ!」

 彼は両腕を炎で包み込み、さらに掌から炎を噴射することで爆発的な推進力を手に入れる。視界の端の景色が急速に流れていく。

 護国寺の言霊【風林火山】は、それぞれ【風】【林】【火】【山】と四つに分かれた能力を使うことが可能で、その汎用性の高さは言霊師の中でも随一だ。ムサシもかなり強力だと太鼓判を押してくれた。

 今彼が発現したのはその中でも【火】に該当する。範囲は両腕のみと限定されるが、筋力増強も付いてくるので【風林火山】の中でも最も攻撃的な能力である。

 一秒にも満たない時間で『ムサシ』へ肉薄した護国寺。炎を宿した腕は厚く霊力で保護しており、たとえ刀と衝突しようとも簡単には傷つかないように設定してある。彼は勢いそのままに右拳をフルスイングする。

 その強烈な一撃を、男は苦もなく弾き返してみせる。手にした刀を横薙ぎに払い退けると、お返しと言わんばかりに鋭い突きを放つ。

「く……!」

 剣尖が肩を掠める。焼けるような痛みが走る。だが護国寺は怯まずに、打ち終わりの隙を狙い今度は左拳を顎目掛けて突き上げた。しかしまたもや刀に阻まれる。一瞬で刀を引き戻していたのだ。

 ズガガガ!! と激突は百を超え、音は一体となってもはや凶器と化す。

 攻めるは護国寺。強烈な破壊力を秘めた両拳を休む暇なく振るっている。型も何もない、暴力のようなものだが打ち続けても緩まないスタミナからは鍛錬の跡が窺える。

 それらを悉く撃ち落とすは『ムサシ』。暴風雨のような連打に対し、男は正確に刀を合わせている。護国寺なりにフェイントを織り交ぜた攻撃も、見透かされた風に防がれてしまう。

「どうした? これが限界だと言うのなら、こちらには即座に終わらせる用意があるぞ」

「…………っ」

 護国寺は一旦後退する。力押しだけでは通用しないと分かった以上、攻め手を変更せねばならない。【火】から【風】へ――――己の中でタイプを入れ替える。

 ビュウ、と風が吹いた、と思った時には護国寺の身体は空中を漂っていた。【風】は言わば速度重視。加えて空中浮遊も可能としている。

 護国寺は風と一体化して、突き刺すように『ムサシ』へ蹴りを打ち込む。やはり防がれるが、織り込み済みだった彼はそこから男の頭上で一回転し、素早く背後へと回る。護国寺は向き直る猶予さえ惜しんで、裏拳気味に右腕を振るった。

 がきぃ、と甲高い音が響く。『ムサシ』は背中に眼球が付いているのかと錯覚するほど、驚愕の防御方法を取っていた。男は振り返らず、ただ刀だけを背中へと回して防御してみせたのである。

(馬鹿な――――!?)

 以前のムサシとの模擬戦では【火】までしか見せていなかった。つまり男には経験のない攻撃だったはずだ。元のムサシであれば防いだかもしれないが、肉体を得たばかりの【十二使徒】にそのような芸当ができるとは信じたくなかった。

 無論、それが【十二使徒】だと言われてしまえばそれまでだが……。

「今のは多少不意を打たれたぞ」

「しまっ……!?」

 護国寺が一瞬怯んだ隙を突いて、上段からの振り下ろしを放ってきた。それは出足の遅れた彼の胸元を浅く斬り裂いた。刀が血を吸って一層輝きが妖しくなる。

 少なからず体勢の崩れていた護国寺だったが、『ムサシ』は追撃することなくその場に留まったままであった。危なかった、もしも攻めかかられていたら致命傷を負っていただろう。

 男は手首をゆったりと回して、各部位の調子を確かめている。憑依して間もないからか、まだ微調整の余地があるのだろうか。

「さて……、三分ばかり付き合ってくれて感謝する。やはり実戦は良いな、覚えが良くなる。これなら日本を粛清するのも容易かろう」

 言って、『ムサシ』は刀を下段に構えた。やや前のめりになって、突っ込んでくる素振りを見せている。

 男の眼が一瞬、紅く光ったように映った。

「故に――――貴様はもはや用済みだ」

 ドッ! と激しく地を蹴った。それだけで大地にヒビが入り、脚力はそのまま疾さへと変換される。疾走する、一糸乱れぬ姿勢は体幹の強靭さを示す。

 懐深くまで踏み込まれ、迎撃か回避か――――僅かに迷ってしまう。経験の少なさがここで露呈する。フ、と一筋の線が過ぎった、と知覚したのと同時に左肩に激痛が起こる。流血が縦に飛び、ようやく斬られたのだと理解するに至った。

 ふらつく足取りで距離を取るも、力が抜けて膝を着いてしまう。左肩の傷は相当深く、糸が切れたように反応してくれない。

「む……、仕留めたつもりだったが、想定より踏み込みが甘かったか。人間の肉体というのは難儀なものよ」

 不用心な歩き方で距離を縮めてくる『ムサシ』。こちらの傷の具合を正確に測っているが故の余裕だ。護国寺は懸命に左肩を押さえているものの出血が止まらない。

 無様だな――男の唇がそう動いた気がした。確かにその通りで、意気込んで挑んだ挙句ものの十分程度でこの状態。無様と言わざるを得ないだろう。

 日頃から自分のことを卑下する護国寺だが、今回は一入(ひとしお)だった。手が届かないということは何度もあったけれど、及ばないというのは初めてのことであった。掴めるはずなのに、実力不足が仇となって掴み損なってしまう――――その無力さたるや、己の全てを否定されたような気分に陥る。

 刀を振り上げる。まるでギロチンだ、と思う。致死の刃が今にも迫ろうとしていた。

「残す言葉はあるか?」

 彼は何も答えなかった。ただギロ、と睨み付けるだけだった。

 男はやれやれ、と首を振った。呆れたのも束の間、次の瞬間には目の色を変えて刀を振り下ろした。片膝立ちの体勢のまま護国寺はまだ動く右腕に霊力を集めて、力の限りを持って拳を刀に合わせに行く。

 彼の脳裏に、直感としてこの激突の結末が飛来する。

 ――――まるで相手にならない。『ムサシ』のこの一閃は【一刀両断】で底上げされている。それも【十二使徒】としての莫大な霊力によって。刃に触れた途端、中心線が真っ二つになることが容易に想像が付いた。

 もはや振り抜こうとしている拳は止まらない。今からでは軌道修正も間に合わない。『ムサシ』は勝利を確信し、口角を吊り上げて――――

 ごっ! と、打撃音とともに『ムサシ』の身体は大きく吹き飛んだ。

 護国寺は目の前で起きたことを正確に捉えていた。割り込むようにして、『彼女』が男の顔面へ蹴りを放ったのだ。無防備なところへ食らってしまった『ムサシ』は、耐えた先で護国寺の顔を見つめていた。

「まだ隠し玉があったか……! 【地】か、それとも【林】か。人間相手とはいえ少し侮り過ぎたかな」

 どうも相手は今の一撃を護国寺によるものだと勘違いしているようだ。つまり、『ムサシ』には『彼女』を知覚できていないということである。

(まさか……これが『彼女』の言霊?)

 つかつか、と『彼女』は足音を立てながら、まるで買い物をするような自然体で男に歩み寄っていく。さすがにそれは危険だ、と呼び止めようと手を伸ばすが、『彼女』は彼の方を向いて唇に人差し指を押し当てた。見ていなさい、と。

「だがそれもここまでだ。私が少し本気を出せばキサぶごぉ!?」

 セリフの最中に『彼女』は無言の腹パンをお見舞いする。男の身体がくの字に折れて、ヨロヨロと後ずさりする。

 視えない攻撃、その仕掛けを見破らんとして『ムサシ』は護国寺を睨み付ける。――――が、不意にハッとした顔になって、

「……先の攻撃、確かに殴打された感覚があった。初撃はまだしも、二撃目は間合いからしてあり得ない位置からだった……。言霊なら考えられるが、【風林火山】には該当していないはず。ならば、もう答えは出ているではないか――――」

 男は無作為に言葉を投げつける風に、腹の底から声を引き上げて叫んだ。

「――――いるのだろう!? 【否定姫】!」

『彼女』――――綴町京子は、すぐには答えず沈黙を保っていた。そう、護国寺を助けたのは他ならぬ【十二使徒】の一角である【否定姫(つづらまち)】であったのだ。護国寺からは視えているものの、『ムサシ』からは視えていないらしく、辺りを注意深く窺っていた。

 やがて彼女は観念した風に首を横に振って、

「……ここにいるわよ。新入りさん?」

「ふん、やっと姿を見せたか。知識として【否定姫】の仔細を把握していなければ、思い当たることもなく虐殺されていただろうよ」

「気付かないあんたが悪いのよ。なに、さっきの。たかだかボティー食らった程度で情けない呻き声」

「不意を打っているという自覚が貴様にもあるのだろう? そもそも貴様、どういうつもりだ? 何故私に危害を加えた」

 二人は仲間であるはずにもかかわらずギスギスしていた。犬と猿だってもう少し仲が良いだろう。だがその事情は分かる。綴町が『ムサシ』の邪魔をした挙句、攻撃まで加えたからだ。

 落ち着いて会話しているように見えて、実のところ互いに導火線を握り合っている状態だ。いつ起爆しても不思議はない。むしろ一応会話が成立していることの方が驚きだ。

『ムサシ』が刀を無造作に構えて、

「【否定姫】、これはつまり裏切りと捉えて良いのだな? そこな少年を庇い立てたと、そう判断しても」

「好きになさい。ただ裏切りというのは癪に障るわね。私はただ同族意識に縛られているだけで、あんたたちを仲間だなんて思ったことはないわ。だって、名前も顔も知られていない連中のことを、どうして仲間だと思えるのかしら?」

 ちら、と綴町は護国寺に目をやった。急に見られても困るわけで、彼は仕方なしにぎこちないウインクを返した。プイとそっぽを向く彼女。傷付く。

 ちりちりと身の焼ける雰囲気が場を支配していた。その中でなお滾るほどの怒りを『ムサシ』は滲ませながら、

「所詮は誰からも愛されぬ存在……、無に等しい存在であったか。これで裏切りは確定した、後日貴様には裁定が下るだろうが――――その前に、貴様が助けようとしたそこの人間を始末しておこう」

 敵意の対象が綴町から護国寺へと移り変わる。っ、と小さく唇を噛む護国寺。今の状態では到底勝ち目がない。かと言って逃げるための脚も残っていない。

 どうするべきか、と頭を悩ませていると、またもや綴町が彼を守るべく立ち塞がる。

「……どういうつもりだ? 知らんわけではなかろう、『【十二使徒】は必ず二人以上で戦ってはならない』と。それは敵同士になろうとも同じこと。つまり貴様は絶対に私と戦うわけにはいかないのだ。破れば、相応のペナルティが下る」

「そっちこそ、頭が固すぎるんじゃない? そもそもあんたはまだ正式な【十二使徒】じゃないでしょうに」

「…………何?」

 ぴく、と男の動きが止まる。痛い所を突かれた、といった感じだった。

 対して綴町はひどく冷静な様子である。何故か、と一瞬考えたがそれもそのはず。【否定姫】としての彼女は、少なくとも先ほどムサシに憑依したこの【十二使徒】よりも先輩なのだから。

「だってそうでしょう? あんた、まだ地球(はは)から神名すら授かっていない状態で、だから【十二使徒】としての名乗りも上げられていない。名乗るべき名前がない、早とちりな赤ん坊だものねえ」

「貴様……っ!」

 あからさまな挑発に男がわなわなと震える。今にも突進してきそうな雰囲気だ。それを誰よりも感じ取っているはずの綴町は、しかし平静を崩さない。

「つまりここで私があんたと戦おうと、何ら誓約には触れないってワケ。お分かりかしら?」

「……。ならば護国寺ごと斬って捨てても構わん、ということでもあるな」

 綴町はしばし無言だった。

 拙い、と護国寺は考える。彼女の実力のほどは確かではないが、少なくとも『ムサシ』の実力は相当なものだ。【一刀両断】の力は膨大な霊力量によって底上げされており、剣技にも素人さは感じられない。ある程度技術も残しているのだろう。

(それだけじゃない。ムサシさんほどの剣の冴えを、この男は持っていない。なのにまるで自分の手足のように刀を扱いやがる……。何かある。きっと、俺がまだ知らない何かをこいつは持っているんだ)

 それが分からなければ勝ち目はない。分かったとしてもそれを突破できる力量がなければならない。【兵隊王】とは違った意味で難敵だ。

 ――――しかし、護国寺の不安をよそに綴町は、心底くだらなさそうにして言う。

「“まさかあんた、私に勝てるとでも思ってるの”?」

 近くで見ていた護国寺の喉が干上がる。刃物のような殺気とは違い、まるでブラックホールかのような、得体の知れない恐怖に身体が震えたのだ。

 そしてそれは、直面している『ムサシ』の方が強烈に感じていたであろう。さしもの【十二使徒】も、気圧された風な表情に染まる。

「いいかしら? 私は、今回だけあんたを見逃してあげると言っているのよ? 別にここであんたを屠るのは簡単だけれど、ね」

「……言ってくれる。貴様の行動はタブーに触れる恐れがある、だから怖気づいているだけだろう」

「どうとでも。だけど、これだけは言っておくわ。――――その刀を一度でも私たちに向けたら、あんたの存在そのものを消滅させてあげるから……忘れないようにね」

 行きましょう、と彼女が護国寺に手を伸ばした。彼は困惑しながらも手を取り、綴町に先導される形でこの場を離れていく。一度『ムサシ』の方を見やったが、男は悔しそうに唇を噛みながら、一歩も動くことができずに立ち尽くしていた。

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