第1話 ①
もはや自分が何者だったのかさえ、私には不確かだ。
始めは耳鳴りのようなものだった。ちょっとすれば収まる程度の、形を成していない声であった。それがいつしか頻繁に起きるようになり、次第に形を、生命を持つようにさえ成長していった。言語を獲得した『それ』は、まさしく囁くような声音で言った。
『人類はなんて愚かなんだろうね、ヨハネくん』
その声を聞いた途端、身体の震えが止まらなかった。単純な恐怖とでは言い表すことのできない、生物としての絶対的な格の違いを本能的に感じ取ったのか。
いくら耳を塞ごうとも声が途切れることはない。当然だ、その主は脳に直接話しかけているのだから。
男なのか女なのか。少年なのか老人なのか。善か悪か、機械か肉声か、夢か現か。どれも判別が付かない。聞いているうちに、きっと『それ』はあらゆるものの中心に君臨しているのだと気付いた。
しばらく『それ』は小難しい話を繰り返していた。聖書を朗読しているような、そんな感じだった。恐れ多い声が止むことはなかったものの、別段私生活に悪影響が出たわけではなかった。むしろ試験のときには手伝ってくれることすらあったくらいだ。
いつしかヨハネは『それ』に心を許していた。以前は身体を強張らせていたが、そのときには親友と共に過ごすくらいの気軽さを持っていた。――――恐らく、それが緩みへと繋がっていたのだろう。彼は次第に身体までも乗っ取られようとしていたのだ。
『それ』は待っていたのである。気を許す瞬間を、心に入り込む一刹那を。謀られた、と意識した時点で既に遅すぎた。
『心配しないでもいいよ。別に痛くしようとか、手荒な真似は一切しない。むしろ誇るべきさ、何故なら君は選ばれたんだ。【十二使徒】の一角に』
何を言っているのか分からない。理解する機能を掌握されているからだ。もはや反射的に感じたことくらいしか言葉にできない。
『「何故私なのか?」って? そうだねえ、まずは君の名前かな。ヨハネ、なんて十二使徒にはピッタリだろう? それに何より――――』
聖者か悪魔か、定かではなかった『それ』は、このときばかりは悪魔のような笑い声をけたたましく上げて、
『――――何もないというところが素晴らしい! 何もかもが中途半端で、空虚で、生かされているだけ! そんな人間が最も与しやすいからさあっ!!』
…………! もはや声にならない悲鳴を上げる。私は何て恐ろしい存在を受け入れてしまったのだ。これならいっそ自決しておけばよかった。こいつはまずい。こいつは間違いなく人類に害なす存在だ――――!
最期の抵抗も為すすべなく『それ』に抑え込まれてしまう。『それ』は平常通りの温和さを取り戻し――今の私にはそれでも悍ましく聞こえるが――、愉しそうに笑った。
「これからも是非仲良くしていこうよ。末永く共生していく関係なんだからさ」
私の声がした。紛れもなく『それ』は私の喉を使って発声したのだ。私の意識下にある部位はもうほとんど残されていない。髪の毛一本動かすので精一杯だ。あるいは、そこだけが私に許された自由なのか。
「君はただ見ているだけでいい。これから起こる一部始終を、達磨のように眺めていればいい。だから――――思考能力も必要ないよね?」
ガリ、と確かに自己の認識としてあった私の全身が、足元から崩壊を始める。ゆっくりと化け物に食べられているかのような錯覚を受ける。
私が! 私が消えていく! 何故だ、何故このような酷い仕打ちができる!?
「嫌だなあ、これはとても名誉あることなんだよ? 人類浄化の全ての立ち合い人になれるなんて、かつての預言者たちのような奇跡なんだ。とはいえ、彼らのように何かを為せるわけではないけれど、ね」
止めろ、止めてください。あ、脚が……私の脚が! 消えるのは嫌だ――無に堕ちるのは嫌だ!
「恐れることなんてない。受け入れよう、全てを。君だって今までそうして生きてきたじゃないか。それが今になって嫌だ止めろと、君らしくない(・・・・・・)」
暗い……、怖い……。母さん、父さん。どこにいるの? もう何も見えないよ。私に似た何かが耳元で勝手に話しているんだ…………。
「――――我が神名、【災厄王】! 地球より賜りし言霊、【天変地異】! 我が言霊を前にして、何人も聳えること能わず――――ッ!」
それが私の聞いた最後の言葉であった。
一日目には昼と夜を。
二日目には遥かなる空を。
三日目には広大な大地と大海原を。
四日目には絢爛たる太陽と静謐たる月を。
五日目に鳥と魚を、六日目に獣と家畜、さらには神に似せた人を生み出した。
――――これにて天地万物は完成へと至った。そして地球(わたし)は第七の日に安息を齎した。地球の中に不足なし。慎ましやかに生活を送るのなら、何ら過不足はなかったはずだ。そもそも地球の為すことに間違いなぞ有り得ない。
ただ、今になってこうも思うのだ。――――もしも七日目を安息日と定めずに、天地創造に改良を加えていれば果たしてどうなっていたのか、と。
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