第3話 私的な純文学論

 純文学とは一体なんなのか。私はそれをよく考える。芥川龍之介曰く、ストーリー性を排除して文章のみで魅せる物であり、三島由紀夫曰く、心の底から純粋な体験ができる物であるらしい。


 彼らは純文学のパイオニアの一人であり言っている事は正しいのだがどうだろうか、今の純文学はそれをなぞっていると言えるだろうか。


 大きな流れの中では同じ流れの中に居るとは言えるかもしれないが、細分化すると大きく離れているように私は思う。ではその流れはどこから細分化してしまったのか。それこそおそらく三島由紀夫からなのではないだろうかと考える。


 三島由紀夫は純文学に人生を埋め込んだのだ。


 芥川龍之介と比べれば分かるように、三島由紀夫の小説は長く濃密である。場面を抜き出しある一瞬の悟りを描き出す芥川龍之介と違い、三島由紀夫は人生における違和感を長く現実的な物語に乗せる事で純文学を作り上げているのだ。圧倒的な語彙力と構成力を持ってして、純文学とストーリー性の完璧な融合を彼は成し遂げたのである。


 その次に転換期となったのが安部公房だろう。三島由紀夫にフランツ・カフカのユーモアを混ぜた形とでも言うのだろうか。唯一無二の表現力を持った安部公房によって純文学はよりキャッチーに、そして難解に進化していったのである。


 そして現在トップを走るのは村上春樹であるのだが、彼の小説はさらにストーリー性に富んでいる。しかしどうだろう。純文学の売り上げは年々下がっていっているのだ。分かりやすいストーリーとそれでいて考えられた純文学性を持っているにも関わらず、売れず読まれないのだ。


 それは何故なのかと考えると、大衆文学の発展がまず第一に挙げられるだろう。娯楽が増えそちらに人が流れてしまったのだ。


 ではどうするべきなのか。私は今こそ原初に変えるべきだと考える。ストーリー性を取り入れたものは大衆に人を取られ、ストーリー性を排除した純粋な文学は大衆文学の影響で読める人がいなくなってしまった。そんな、小説を読むのが普通ではなくなった現代では、三島由紀夫や安部公房を踏襲した長く難解な純文学は受け入れられないのだ。芥川龍之介の下地があったからこそ純文学と言うものは受け入れられたのである。


 その下地を今、再び敷くべきなのだ。


 短く場面を抜き出し人生においてのある一瞬を体験させる、そんな純文学ならば、純文学に慣れ親しんでいない人でも疲れず読むことが出来るだろう。


 そうしてまた、人々が純文学の良さと可能性を知った時、三島由紀夫や安部公房のような純文学が大衆に評価されるようになるのだろうと私は考えるのである。

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