第10話:セーラ

 宣戦布告とも言えるアクス東南門での騒ぎの後、エルヴィン達はアクスでイプストリア王宮が管理をしている、王族の別邸へと場所を移していた。普段であれば屋敷を管理維持するための使用人が常駐していたが、今は人払いをしている。この屋敷自体が戦場になる可能性があるからだ。


「心身ともにお疲れになっていたようです。セーラ様はお休みになられました」


 お付きのメイドであるリタが広間に集まる丈之助達にそう伝えた。エルヴィンはリタの言葉に頷くと、隊員達に指示を出す。


「わかった、隊員二名を部屋外につけよう、残り一人は外を見張りだ。頼んだぞお前ら」


 はっ、と敬礼をし、隊員達が持ち場へと散っていった。リタもセーラの看病のため、セーラの寝室へと下がる。広間にはエルヴィン、クレア、丈之助の三人がテーブルを挟んで向かい合う形で座っていた。


「さて、それではまず状況の整理をしたい、我々の目的はセーラ様をファラリスへとお逃しすることだ、そこまではいいな」


 その言葉に、ふむ、と丈之助が首をかしげる、


「丈之助殿、何かあれば遠慮無く言ってくれ」


 その、少々腑に落ちなさそうな表情をしている丈之助に、エルヴィンが発言を促すのであった。


「……うむ、姫君の願いは父君を助けてとも言っておったがの、そこのところを詳しく聞いておこうか」


 丈之助ならきっとそう言うであろう。エルヴィンが浮かべた表情はそのような意が汲み取れた。そして彼らは話す、二つに一つの道を選ばねばならぬ現状を。


 セーラを逃がすことは、まさに父であるイプストリア王の意思であること。

 敵となる宰相にセーラが囚われれば、それは無残で酷い扱いを受けること。

 その為にはなんとしても宰相の影響圏外である他国へと亡命する必要があること。


「例え、戦争の引き金になろうともな。これは亡命先のセーラ様の祖父であるファラリス王も了解していることだ」


 そうエルヴィンは呟いた。


「なるほどの、愛されておるのだのう、あの姫君は」


 そう、丈之助が感慨深げに言うと、


「その通りです。少なくとも我々はセーラ様が、あの宰相に辱められる未来など見たくないのです、そもそも政治の道具にされるにはセーラ様は幼すぎます……」


 と、クレアが両の手で自らの肩を抱きながら呟く。クレアは王宮を出発する前のやり取りを思い出したのだ。自分でさえ、ファウストと対峙したときにあれほどの嫌悪感と恐怖を味わったのだ。果たして十歳になるセーラに振りかかる仕打ちと、そこに生まれる屈辱は想像するのもおぞましかった。


「我々はファラリス王とイプストリア王双方の意を受けて動いているのだ、丈之助殿。例えセーラ様が望まずとも、セーラ様をファラリスへと亡命させるのは絶対条件なのだ。……とはいってもイプストリア王は既に病床に伏せている、ファラリス王も表立っては動けん、ファラリスはイプストリアとローランの公国である上に、内政干渉になるからな。元々我らはセーラ様の母君の護衛としてファラリスから使わされた。まあクレアは後からではあるが、基本的に俺の騎士小隊しかこちらがわの戦力はない」


 ふう、とエルヴィンはため息を付き、テーブルに用意されたカップをぐいっと煽った。この戦力では逃げるしかない。とでも続きそうな様子であるが、彼はそれを言葉にはしなかった。その様子を見て丈之助は思う。エルヴィンやクレアは決して悪い人間ではない。王の意を貫こうとするエルヴィンは忠義の厚い臣下である。同じ女の身ながらセーラの身を案じるのは、若い年頃のクレアならではであろう。


 しかし、しかしである。


 アクス東南門にて丈之助に泣きついたセーラは、それらすべてを飲み込んだ上で、彼女は助けてと懇願したのだ。『父様を助けて』と。そして恐らくエルヴィンとクレア、そしてリタを。その言葉を吐き出した途端に泣き崩れるほどに張り詰めて、本質的には誰にも理解されないままずっと、十歳の少女がもつ小さな体と心で耐えてきたのである。何故その状況になったのか、何故幼い子供がそこまで追い詰められたのか。


 あらためて丈之助は思い出した。己はいったい何のために強さを求めたのかを。


 静かに目を閉じる、頭の中に思い出されるのは関ヶ原で見たあの光景であった。焼け焦げた田畑、跡形も無くなってしまった家、振り返れば、何も無いという絶望。


 十歳の丈之助はすべてを奪われた持たざるものであるが、セーラは周囲からあらゆるものを持たされ、押しつけられ続けて、何一つ自らの物を持てなくなってしまった、持たざるものであるように思えた。


「こんな思いは俺一人でたくさんじゃの……」


 少なくともセーラの様な幼子に背負わせることでは無いのだと、丈之助は呟く。そう、持たざるものから更に奪い取るものには、それなりの応報を示すべきなのだ。己の力はその為にある。それは、丈之助が三十年間生きてきて、初めて意思を持って明確に力を向けるべき『敵』を見出した瞬間であった。


 アクスの夜は、静かに更けてゆく。

 深夜、何者かが庭内へ小さな石を投げ込んだ。その小石には文が巻きつけられていた。それは巡回中の隊員に見つけられ、そして――


 東の空が白み、太陽が昇る。別邸の中庭にて、セーラは精霊に祈りを捧げていた。未だ魔法発動が判別できぬセーラにとって、この祈りは日課であった。通常の魔法発動は生まれてから一年から五年ほどで判別されるものである。その期間に体の何処かに精霊紋と呼ばれる紋章が現れ、その紋様の数にて詠唱単位が決定されるのだ。

 しかしセーラは未だ精霊紋すらも発現しない、いわゆる『紋無し』であった。この世界の人間の誰もが何らかの形で発現するのが精霊紋である。しかし純粋なファラリスとイプストリアの血を継ぐものにとって精霊紋が発現しないということは過去の記録から見ても考えられないことであった。古く文献には十歳にて紋が発現したという記録もあり、十一歳になるまではと、セーラは毎朝の精霊への祈りを欠かさなかったのである。


 そんな静かな朝の一時であった。祈るセーラの後ろで護衛の騎士がその腰の剣を抜く。金属音がチャキリと響いた、その音に気づきセーラは祈りを止め、後ろを振り向く。


 そこには、セーラに剣を向ける護衛であるはずの騎士がいた。


「……セーラ様、お許し下さい。隊長や副隊長と違い、我らの家族はイプストリアにいるのです」


 その騎士達の一人の手に文が握られていた。文の内容はファウスト側への寝返りを示唆した文章と、家族の安全を危うくするような内容が書かれていた。そう、彼らもまた試練を受けていたのだ。


 セーラはその一言で彼らの事情を察し、そして次にセーラの目に飛び込んできたその光景に、その小さな目が見開く。


「……お声を上げられませんよう、抵抗するようなら多少は傷つけても良いと許可を頂いております故――」


 隊員が、剣先をセーラに向けつつ、一歩を踏み出した。ガシャリと鎧がこすれる音がした。


「……どうして」


 セーラは涙を流していた。もはや自分の心を律する事が出来なかったからだ。祈りのままに、組まれたままのその手は、固く握られ細かく震えていた。


「大人しくしていただければ、リタ殿の命は保証しましょう――」


 セーラは予想外の展開に、声が出ない。辛うじて、どうして、と呟くだけである。



 その涙は、歓喜の涙である



「――どうして!! ……どうして貴方は、こんなわたくしに……、こんなわたくしにに希望を与えてくれるのですか――」


 ドサリ、と騎士の後ろで何かが崩れる音がした。騎士が弾かれたように振り返る。そこには、エルヴィンとクレアの始末に向かったはずであった同じ分隊騎士を放り投げる黒髪の拳士が佇んでいた。


「……同じ釜の飯を食うた好よしみじゃ、殺してはおらん。連れて帰るがよい」


 丈之助は淡々と騎士へとそう伝えると、おもむろに一言呟いた。


「お主らには世話になった。しかし戦場で出逢おうたなら、次は無い」


 その丈之助の言葉を聞き、仲間を背負いながらこの場から離れる騎士の動きがピタリと止まる。


「……済まない、丈之助殿の――」

「ふん、知っておったわ。俺の事を知るものなぞ、エルヴィン殿とクレア殿を抜いたらお主らしかおらん、うぬらにも理由があったのだろう? 事を起こすまで迷ったのであろう? ――ならばよいわ。今、姫君が生きているのが何よりの結果であるからに――」


 そこで一息。


「次に牙を向いた時は容赦しない故、心してかかって来るがよい」


 騎士が再び歩き出す。今度こそ彼は止まらなかった。

 裏切り者である彼らの姿が見えなくなるのを確認した後、丈之助はセーラに向き直る。


「……さてと、ふむふむ、よくもまあ泣いたものよ。綺麗な顔が台無しじゃぞ?」


 ひっくひっくと、組んだ手を口元にあてたまま、未だしゃくりあげているセーラの隣に丈之助は座り込んだ。その体格差故か、丈之助が地面に座ってようやく直立の彼女と視線があう。


「なに、まだ敵は来ぬよ。しばらくは休むがよい」


 そういってぽんぽんと丈之助はセーラの背中をさする。そのまましばらく時が経つ。丈之助が言葉を発しないのは、そこに何の意味が無いことをしっているからだ。関ヶ原の彼と一緒である。心の整理がつかないうちはどんな言葉も彼女に届かないことを知っているのだ。そしてセーラは腫れた目元を拭い、濡れた頬を袖で拭き取り横の丈之助を見上げた。


「……おじさま?」

「なんじゃ?」

「――おじさまは、何故私を助けて戴けるのでしょうか」


 そう問いかけるセーラの瞳は丈之助をまっすぐ見据えていた。先の修羅場の面影など決して見せず、十歳とは思えない落ち着き様である。これがこの子の日常なのかと丈之助は一瞬眉をひそめる。行儀の良いことだと丈之助はため息をつき、


「なんじゃ……お主は助かりたくないのか?」

「そんなことはないですの。でも――」


 と言ったところで丈之助の手がセーラの頭に置かれた。そしてそのままくしゃくしゃと、丈之助はセーラの頭を撫でてやる。今彼女に必要なのは明確な理由では無い。その気持ちをわかってやれる存在である。


「ようこれまで耐えたの。大したものじゃ」


 その瞬間、びくんとセーラの体が震えた。ぐしぐしと頭を撫でられる度にぼたぼたと大粒の涙が瞳から溢れ出してしまう。今まさに、セーラの心に掛けられた呪いが、音を立ててガラガラと崩れていく。丈之助のその一言が、王族の使命、父の意思、そして計らずもエルヴィン達を巻き込んでしまった責任など、セーラの心を縛っていた楔を優しく取り払っていく。

 セーラの右手が、自然と丈之助の裾を掴んだ。丈之助はその手を握り、肩を震わせるセーラの肩を優しく抱いてやるのであった。


「…っく……うあ……、し……ひっく…です……」


 彼女から流れ出る涙は、なおも止まらない。


「泣くがよいわ、俺以外誰も居らぬ、――俺が時も、……そうだったからの」


 そして彼女は息を大きく吸い込み、


「……――怖かった!! 怖かったです……!! っ……私!! 城に帰りたくない!!、でも…ひっく…父様が…私の…たった一人の父様がまだいるの。……でも一人じゃ助けられなくて!!」


 セーラの叫びに、丈之助はそうか、と頷いた。


「この身を弄ばれるならば……いっそこのアクスで命を絶とうとも思いました……でも……それも怖いのです!! 私は、わたくしは……私は王族として誇りを守って死ぬこともできません。言葉では冷静になんとでも言えます。でも、でも私は何も実行できない臆病者なのです――!!」


 それはここまで来て、初めて吐露した偽る事無きセーラの本心であった。


「――私のために、誰もが不幸せになっていきます。そんなの、もう耐えられない……!!」


 そこでセーラは堰が切れたように、わああと泣き出した。本来彼女の年を考えれば、このようにもっと感情を多く外へと出してもよいはずである。甘えることを忘れてしまった哀れな姫君の数年分の涙が静かな中庭に染みこんでいく。その二人を見守るように、朝霧が周囲を優しく包んでいく。そして丈之助はセーラが泣き止むまでずっとそばで肩を抱いてやるのであった。


 朝霧の中、丈之助とセーラの会話は続く。濃い朝霧に隠れて二人の姿は見えず、声のみが周囲に響く。まるでそこだけ世界から切り取られたように。


「のう、セーラよ」

「……はい、おじさま?」


 セーラが泣き止むの待ってから、丈之助は優しくセーラに問いかける。


「イプストリアの中で最強の魔法士は誰じゃ?」

「……んと、えと、父様だと思いますが?」

「ふむ、俺はクレア殿の魔法を見たのだが、セーラの父君の魔法はもっと凄いのであろうな?」

「はい!! ……父様の水の鉄槌(ウォルタ・ハンマー)はすごいですの!!」


 そう、嬉しそうにセーラは丈之助の問に答えた。


「はっはっは、なんとも物騒な名前じゃのう……、なればその魔法の元となる精霊様とやらはもっとすごいんじゃろうのう?」

「はい、イプス様を始めとする四大精霊様はこの世界を作った元ともいわれていますの!!」

「――ではの、そんな精霊様にこの国で最も愛されているのは誰じゃろうな?」

「……えっと、それも父様?」

「ということになるかの、さて、よく考えてみるがよいセーラよ。そんな父君が毒ごときでどうにかなるものかの?」


 丈之助の言葉にセーラはふと顔を上げる。丈之助のその言葉は、気休めながらも今セーラにとって確かな希望となった。そう、今現在ルイス王は倒れども、死んでしまったわけではない。


「……おじさま?」

「父君も闘っておるのじゃ、お主がこんな所でピーピー泣いては居られんのう? はっはっは」


 そう笑い飛ばすと、丈之助はセーラを持ち上げ、自らの右肩にちょこんと載せる。おもわずセーラはきゃ、と声を漏らすが、すぐに手近にあった丈之助の頭に手を回すのであった。


「セーラよ、約束しよう。俺は何があってもお主の味方じゃて」


 のっしのっしと歩く丈之助は尚も言葉を続ける。


「大いに信用するがよいぞ? はっはっは」


 セーラは丈之助の肩の上で、はいと頷き、ぎゅっと回した手に力を込めるのであった。

 どん、と大きな音を立てて広間の扉が開く。


「さあ、エルヴィン殿、出立ぞ!!」

「ですの!!」


 エルヴィンとクレアとリタは、その丈之助とセーラの様子に、まさに目を丸くするのであった。彼女の目は語っていた。もう黙ってやられるのはやめたのだと言わんばかりのまっすぐな視線である。


 未だ朝霧が立ち込める早朝。アクスの王族別邸から出てゆく者たちがいた。


 一つ目の影は馬車。アクス北西門を抜けてファラリスへと向かう一行。

 二つ目の影は旅装束に身を包んだメイドの女。アクス南東門の乗合馬車にて王都イプストリアへ。

 そして、三つ目の影は子供一人が中に入れそうな背負子しょいこを背負った丈之助である。


 その丈之助は馬車と同じく北西門をくぐり、ゆっくりとその歩を進めるのであった。

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